会社員の哲学
柿内正午さんの本。
前提として自分は会社員として会社のために働くということをした経験がないので、この本を書くに至った賃労働の馬鹿馬鹿しさとか、会社で頑張ることが自己実現になるとするような風潮への反骨心みたいな部分は共感しきれず、提示された金額分働けばいいでしょみたいな話はフリーランスの身からすればそりゃそうでしょ以上の感想を持てなかった。
それでも、その延長にある人間を規格化し部分として扱うことで合理的に回して行く会社の在り方が、外部というものが存在しない社会で適用されだすことが問題なのだという主張はよくわかるというか、今の社会の歪さを捉える鋭い言語化でハッとさせられる。
会社において部分であることは、規格化の全面的な肯定ではない。規格化の論理を会社の内部にだけ留めておくような節約の技術だ。会社の論理を社会にまで安易に拡張しないこと。規格化は分業の効率化にとって不可欠なものではあるが、複数の異なる他者がバラバラのままになんとかやっていく社会においては全面的に適用してはいけないものなのだ。なぜなら、規格化というのは、純粋なものの称揚や均一化への意志という発想と相性がよすぎて、全体主義的な状況を呼び寄せてしまうからだ。規格化へのある程度の抵抗とは、不純なものの居場所を作り守ることにほかならない。
業務を効率よく回していこうと思うと、どうしても規格化の必要は出てくる。だからこそ、会社という閉域が必要なのだ。個人を均質的な部分として扱い、そうすることによって個人を守る機構の論理は、会社という閉域があるからこそ機能する。会社には外部があり、ある閉域に馴染まない場合、べつの会社に移る可能性があるにはある。けれども社会には外部がない。転職の余地がない。そうであれば、規格化しきれない不純なものを規格にそぐわないからという理由で排除するようなことがあってはならない。会社が問題なのではない。社会の会社化が問題なのだ。
(柿内正午『会社員の哲学』, p114)