ビッチな動物たち 雌の恐るべき性戦略
https://gyazo.com/5122e9163ec737d365515dc320550fd8
以前読んだ性淘汰で進化した鳥類の生態についての本、『美の進化』と同じく、人間以外の動物のセクシュアリティやジェンダーが実は二元的な雌雄の区別だけで成立しているわけではないという事実を通して、人間がいかに動物たちの行動を勝手に解釈して見てしまっているか、また男性中心主義的な価値観であったり男女の二元論的な性別のとらえ方なんてやはり別段自然なものではないんだよなという視点を改めて教えてくれるような本だった。
かといって、先々週に引用したミーアキャットの母系社会の例のような、ひたすらフェミニズムの正当性を強化してくれるような話ばかりでもないのが面白いんだけど。
何のめぐり合わせかトランプが「性別は男と女の2つのみ」なんて謎の大統領令に署名したタイミングで読めたのが良かったというかなんというか。
動物の母系社会はフェミニストのエデンの園ではない。多くの場合そこには生殖をめぐる圧制という不快な流れが渦巻いていて、チームワークと搾取の危うい綱引きを支配している。愛すべきTVの人気者ミーアキャットの集団生活ほど、それが露骨な場所はないだろう。暴力的な全体主義社会は、TV画面の純真無垢な姿とはどうにも結びつかない。
(…)
ミーアキャットの社会は、血のつながりが濃い雌どうしの容赦ない生殖競争を前提にしている。この雌たちは妊娠すると、お互いの赤ちゃんを殺して食べようとするのだ。共食いを陰で操っているのは、序列の低いものたちの生殖を断じて許さない支配的な雌だ。目標は自身の在位期間中、雌の親戚に一匹たりとも子を産ませず、自身の赤ちゃんの世話を引き受けさせること。そうやって赤ちゃんを不要な競争から守りつつ、食べられてしまわないようにするのだ。おまけに支配的な雌自身はより多くの赤ちゃんを産むことに全力投球できる。汚い手段を使ってでも守るに値する地位だ。群れの中で最も体格がよく、攻撃的な個体である雌は、搾取、身体的虐待、罠、殺しを用いて目的を達成しようとする。
(ルーシー・クック『ビッチな動物たち』p235~237)
本書ではダーウィンの硬直した二元論的ステレオタイプに抗う多くの雌たちに出会って来た。(…)
これらの雌たちは、性が水晶玉でないと教えてくれる。それは静的でも決定論的でもなく、ほかのすべてがそうであるようにダイナミックで柔軟、ある環境における遺伝子の作用をもとに形づくられ、個体の発達と生活史、ちょっとした偶然をもとに輪郭ができあがっていくものだ。雄雌は異なる生物学的事象ではなく、同じ種の一員であり、生殖にまつわる段階では生物的そして生理学的プロセスにおいてある程度の差異がある、というくらいにとらえておくべきだろう。それを除けばほぼおなじなのだ。今はすでに、有害でありかつ率直にいえば妄想混じりの二項対立的前提を排除すべきときだろう。自然において雌という経験は、ジェンダーレスな連続性において存在するからだ。変化に富み、柔軟で、古色蒼然たる分類群に収まろうとはしない。その事実うぇお受け入れることで自然界への理解と、人としての互いへの共感も深まるだろう。古臭い性差に固執するのは女性と男性の両方に非現実的な期待を押しつけるのみで、両者の関係を貧しいものにし、性的な不平等を拡大するだけだ。
(ルーシー・クック, 『ビッチな動物たち 雌の恐るべき性戦略』, p370)
#book