どうせ社会は変えられないなんてだれが言った?
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発行年月 : 2021年6月
本文デザイン : 平塚兼右 (PiDEZA inc) 出版社 : 小学館
初めの数ページに目をとおした雰囲気では、これまでに読んだこの著者の本の話(ベーシックサービスについて)をかみ砕いた内容で、わざわざ買って読まなくてもよかったかもという気もしたが、読み進めてみたらCovid-19以降であらわになった日本の政府や社会のありようから見えることや、経済・財政からさらに領域を広げて社会や自由について、より考えるきっかけになる本になっていて面白かった。
前原誠司に誘われて民進党の政策ブレーンになってから、希望の党との合流騒ぎで政治の場を離れた経緯についても触れられていて、あの辺の旧民進党議員達の節操ない右往左往ぶりを思い出せばそりゃそうなるわなと思う反面、この人のメッセージやスピーチの力強さを考えると勿体ないなという気もしてしまう。
コモン(=共同体)の再生のような話は斎藤幸平も言っていて、その辺の話がキーなんだろう…などと思っている最中にも、休業要請等でそういう場所としても機能していたはずの居酒屋などはバンバン潰れていっており、いい加減まともな政府が生まれてほしいという気持ちがひたすら強くなる。
関係ないけど、読み終わってから柳谷さんがカバーデザインをやってることに気づいて「おっ」ってなった。
本来的に多様で異なった存在であるはずの人間が、なぜ共に何かをおこなおうとするのでしょうか。
おそらく理由はひとつです。それは、その何かが、自分たちにとって「共通の必要」だから、です。「共通の必要」に目をむけず、各人が多様性だけを追求していけば、社会は分解され、せいぜい個人のかたまりになってしまうでしょう。
ベーシックサービスの核心にある発想は、「社会の共同事業」という考えかたです。税をつうじて、みなが痛みを分かちあいながら、ずべての人たちが社会生活に参加でき、健康に、自立して生きてくための条件を整えようとするものです。
大切なのは、僕たちは、そうした「社会の共同事業」にかかわるからこそ、「共にある」という感覚を育むことができる、ということです。 (p110~111)
たしかに、政府をはさむと自由が損われるというのは、政府を信頼できない多くの人たちにとっては納得のいく主張です。
でも、政府をはさむからこそ、だれからどうお金を集め、それをどんな目的のために使うのかを話しあう、ムダな使いかたをしていないかチェックする、つまり民主主義の手続きがとても大事になってくるんです。
政府は信じられない、政治家も信じられない、だから税金を自分の手元に取り返そう、こうした主張は、僕に言わせれば、「敗北主義」です。少しきびしい言い方かもしれませんが、政治をあきらめるのではなく、きちんと政府を監視するために、民主主義を再生していくことこそが王道のはずです。 (p128)
日本は税の話から逃げ、借金にたよっていろんなサービスを提供してきました。これは財政民主主義の本質である、みんなに必要なものを話しあい、そのための負担を議論しあう、という経験をもてずにきたことを意味します。
税金のことなんて考えなくても、サービスは受けられる。この体験の積み重ねは、税の使いみちをきちんとチェックしない、自分の税が何に使われるか知ろうとしない、非民主的な社会を生みました。MMTは民主主義の自殺行為だと僕はきびしく言いましたが、借金慣れは、現実に民主主義を骨抜きにしたのです。 (p153)
勤労し、自己責任と自助努力で生きていく、それを人びとの絆が支えることで、すべての国民が果たすべき義務を果たす、国民側が義務を果たしてはじめて、国のほうも義務を果たしてあげる――このような「国」と「民」の一体的な関係が全面的に広がったのが、日中戦争期でした。
国は総力をあげて戦争をおこなうのですから、一人ひとりの自由な活動をみとめる余裕はありません。国のなかにある人的、物的な資源をすべて戦争に集中していかなければなりませんから、それは当然のことですよね。
この目的のためには、勤労にはげみ、自己責任と自助努力を果たす、道徳的な生きかたを、戦争の遂行と生産力の向上のためにも動員しなければいけません。
そんな文脈のなかで登場したのが、「皇国勤労観」です。
(...)
ここでは、勤労は、国民の責任であり、その責任を果たすことは、義務をこえて栄誉なんだ、と言われています。おまけに、秩序にしたがうこと、服従を重んじて経済の効率性を高めるべきことが高らかにうたわれていますよね。
しかもそれらは強制ではなく、創意的で、自発的におこなわれねばならないものだというのです。こうなるともはや、国民の権利など、論外でしかありません。
この歴史的な体験はとても大事です。僕たちは、勤勉に働く民の姿、果たすべき責任をよろこんで果たす民の姿を、「あるべき国民像」として教えこまれてきた経験をもっていたのです。
それって戦争中の話じゃん、そう思う人もいるかもしれません。
でも、この「あるべき国民像」をたんなる押しつけと見るのはまちがいです。国民が「よき民」の姿として理解していたからこそ、戦争中のこういう「極点」にたどりつけるのです。一方的に押しつけられた、では説明がつきません。
実際、勤勉に働くこと、自己責任や自助努力をまっとうすること、これらの通俗道徳観は、戦後の日本国憲法のなかにもしっかりとあらわれています。
みなさんもご存じのように、憲法の25条には、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利が書かれていますよね。いわゆる生存権です。
くわえて、27条には、勤労の権利と同時に義務が書かれています。「労働」じゃなく、「勤労」が義務であるという規定を憲法にもつ国、言いかえれば、働くことそのものではなく、勤勉に働くという「働きかた」まで憲法が指図している国は、僕の知るかぎり、韓国をのぞいて先進国では例を見ません。
(...)
このような歴史をふまえると、ピンとくることがあるんです。菅義偉さんが首相になられる際に、「自助・共助・公助、そして絆が大事だ」とおっしゃいましたよね。このさり気ない一言のなかにこそ、戦前以来の価値、通俗道徳を大事にしたいという保守的な思想が、あますところなくにじみ出ていたのです。 (p184~188)
アーレントは、『人間の条件』のなかで、こう言っています。
古代ローマでは「人と人の間にいること」すなわち「人間であること」を「生きる」ことと同じ意味で使っていた、そして「人と人の間にいることをやめること」は、「人間をやめること」であり、「死ぬ」ことを意味した、と。
(...)
そう、僕たちは、物理的に生き、同時に、社会的にも生きています。であれば、「社会的」という、もうひとつの命のありようを語れない「社会構想」など、仏つくって魂入れず、表面的な、うわべだけの提案でしかありません。 (p224~225)