◎ 2018年6月9日(土) 「『夜航』山名論文」
『夜航』No.3()を注文購入して、山名諒「西田幾多郎とマルクス・ガブリエル─場所と意味の場、絶対無と世界をめぐって─」を読了。私が『相対主義の極北』や『時間と絶対と相対と』で使った「空集合以前」や「手前性」の概念を利用して、西田とガブリエルの違いを浮かび上がらせてくれている好論文であった。西田にもガブリエルにもまったく疎い私であっても、自分の概念を通じて考えられるからこそ、彼らを自分の興味に引き付けて理解することができて、とても勉強になった。 空集合以後の循環(0と1)の中で生み出される「事後的な手前性」と、その循環に先立つ「端的な手前性」のあいだにも、さらに高次の循環を見出す、というのが山名論文の重要な指摘(の一つ)である。その高次の循環は、存在(論)と認識(論)のあいだでの循環であり、決定不能のメタアンチノミーとも呼ばれる。山名論文の見立てによると、この高次の循環(メタアンチノミー)を構成する両サイドとして、西田(入不二)とガブリエルが位置づけられている。
その高次の反復がありうることは、まったく山名論文が主張する通りである。そこを認めたうえで(いや認めるからこそ)、存在と認識(あるいは意味)のあいだの高次のシーソーゲームの中にも入って来ないものが、ただ一つあると私は思う。それこそが、現実性である(「世界」や「実在」のことではなくて)。高次の循環は(生じうるとしても)実際には・現にいま生じていないという場合のその「現実性」である。しかも、生じうることには「理屈」はあっても、生じていないという現実は端的にそうであるだけである(可能性と現実性の断絶)。存在・認識・意味のどれでもないこの現実性の働き方こそ、「端的な手前性」と呼ぶのが相応しいと私は思う。
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【2018年6月9日記】