就職のころ・異動のころ・そして今
・ その当時、私は博士課程に在学中の大学院生、そしてその後オーバードクターとなって、(妻と子どもを養うためもあり)駿台予備校で英語を教えていた。そのプロレス論文は、駿台での友人講師達(大島保彦・霜栄)との共著『大学デビューのための哲学』(はるか書房)に寄稿したものだった。 ・ その頃の東大哲学科の雰囲気は保守的な「お堅い」ものであり、就職(大学の専任ポスト獲得)の準備段階にある大学院生以降の者たちは、従うべき「空気」のようなものを共有していた。 ・ 私もそのような「空気」に従って、予備校で人気講師として「活躍」していることや、ましてやプロレス論を載せた本を出したことなどは、隠していた(そのつもりだった)。
・ しかし、その駿台のあるクラスで指導教授のお嬢さんを教えていたという偶然のために、その教授にぜんぶ筒抜けだった!あるとき、私は指導教授から呼び出されて、「プロレス論は業績表には載せないこと。予備校で教えていることも、非常勤履歴に入れないこと」と言われた。その先生(黒田亘先生は亡くなっていたので別の先生が私の指導教官になっていた)は、「(就職活動を心配しての)親心」から、私に注意を与えたのだと思う。「空気」を読まずに、そういうことも全部履歴書や業績表に書いてしまう奴だと私のことを思っていたのかもしれない。 ・ たしかに、1993年の山口大学での最終面接時のことや、就職後の事務とのやり取りを思い返しても、その先生の判断は「正しかった」と思われる。そういう類いのことは、(今風に言えば?)黒歴史のような扱いだったのが、当時の「空気」。東大哲学科だけでなく、大学業界自体が、多かれ少なかれ「そういう空気」を共有していた。最大公約数的に言えば、「予備校やプロレスなんて、大学アカデミズムには相応しくない」という空気。 ・ しかし、しかし、その10年後(2004年)に青山学院大学へ異動するときには、その「空気」が180度変化していた。 ・ その10年間の「差」は、もちろん私自身の「成長」の証でもあるけれど、それ以上に時代の(そして大学業界内の雰囲気の)変化を感じさせるものだった。
・ 青山学院大学での公募時の面接において、私が予備校で教えていた経験があること、そしてかなりの人気講師であったことを、むしろ好ましい教育経験として面接委員の教授から言及された。 ・ 私から公言したのではなく、ネットの検索によってすでに個人調査済みで、面接で「黒歴史」を持ち出されて、しかも高く評価されてビックリした(このネット検索の利用自体が、山口大学就職当時ではあり得なかった)。 ・ そして、プロレス論文については、私は隠すどころか、自分の論文の中でけっこう出来のいい作品であり、プロレス論の「古典」とまで自分からも言うようになっていた。いわゆる学術論文だけでなく、こういうものも書けることは、むしろ+の扱いに変わっていた。 ・ その2004年から、さらに14年がたった(2018年現在)。
・ 青山学院大学へ異動してからの10年は、書きたいものを好きなように書いて、それを本にすることもできるようになった10年だった。また、20年前のプロレス論執筆は、レスリングの実践(フィールドワーク)へと形を変えて、バージョンアップして戻ってくることになった。 ・ 執筆中の「レスリングする身体」では、再びプロレスをレスリングとの比較で論じることになって、感慨深い。【2018年9月21日追記】 レスリング論は、「レスリング行為/レスリングする身体」というタイトルで、『現代思想』(青土社)2019年1月号(2018年12月末刊行)に所収予定。【2018年10月31日追記】 https://gyazo.com/cd4e9f9352a788fb97e3e2f6dad23c16