慧眼なる読者
入不二基義『現実性の問題』(筑摩書房)へのアマゾンレビューといい、第2章「現実性と潜在性」の重要性に着目したツイートといい、慧眼なる読者の存在に驚かされている。 aimai @aimai_fuzzy
難易度が高いという噂の入不二基義『現実性の問題』の読み方ですが、僕は第二章「現実性と潜在性」をじっくり何度も読むのが良いと思う。この章を理解して面白いと思えるかが『現実性の問題』を楽しめるかの鍵となる。
Tod
哲学界のエッシャーによる神と現実の融合
デビュー作『相対主義の極北』から一貫している入不二哲学の美しさは、エッシャーの絵画になぞらえることもできよう。本作は入不二本人が「最大・最深」と自賛するほどの大作・傑作に仕上がっている。
「はじめに」の導入部分として語られるエピソードからして出色である。「離別と死別はどこが違うのか」現実と非現実を考察する始発点として、これほどふさわしくキャッチーなエピソードはあるまい。
転校による別れと死亡による別れを立て続けに体験した入不二少年は、その葬式の席で「引っ越しと死ぬことは似ているね」と発言する。大人たちはそんな入不二に対し、困惑しつつ腹立たし気にたしなめる。引っ越しと死ぬことは全然違う。引っ越した友だちとは会おうと思えば会える。しかし死んだ人とは会いたくても二度と会えない。要するに可能性の有無の問題なのである。
しかし入不二少年は納得しない。どちらも実際に会わないのであれば、会わないという現実においては何も違いはないのではないか。可能性を考えるのであれば、死者にだって例えばあの世でいくらでも会える可能性はあるだろう。大人たちは生者と死者を区別したいがために、会わないという現実の中に無理やり(伸縮自在な)可能性をねじ込んでいるだけではないのか。「(会わないという)現実だけを見るな」と言っておきながら「(非現実的な可能性は無視して)現実だけを見ろ」というのは出来レースではないのか。死を特別視しないという入不二少年の態度は、後の(人間を超越した)入不二哲学を端的に予告していると言えよう。
第一章では本書全体を俯瞰するモデルとして、ウロボロスの環として知られる円環モデルが登場する。始発点がとりあえず「(何であれ)何かが起こった(起こっている)」という所与の事態に設定されているのは、前著『あるようにあり、なるようになる』における入不二運命論とも通底しており、入不二哲学の一貫性を感じる。そこから「(そもそもまだ)何も起こっていない」というゼロとしての真の始発点が考察されるものの、1から0へ遡るためには否定を経由しなければならない、すなわち「否定」は「肯定」よりも遅れてしかやってくることができない、とする洞察は、入不二のデビュー作『相対主義の極北』の解説で野矢茂樹が嫉妬を交えて絶賛していた入不二節の面目躍如といったところであろう。「第一歩」だと思われた方こそが「始発点(第〇歩)」であり、「始発点(第〇歩)」だと思われた方がむしろ「第一歩」であるという循環は、この円環モデルが必然的なものであることを予感させる。
「更にもう一歩」として「起こったことは起こらなかったことへと変えられない」という「二重否定による肯定」と、初発の「否定が存在しない肯定」とのあいだの「一致とズレ」、そこに排中律を読み込んで、その排中律の適用によって(1)始発的な「現実」、(2)可能的な「現実」、(3)潜在的な「現実」、をあぶりだし、さらにそれとは別の次元の現実、「回る現実」と「回す現実」の水準を分けるという議論も図を見ればよく理解できる。「現実とは力である」という入不二のテーゼはここで見えてくる。すなわち平面的な円環モデルを循環させる立体的な力こそ、「それが全てでそれしかない」現実の現実性なのである。
「反実仮想」の段階では優位だった「現実」が、「可能性の領域」へと進むことで縮小し、さらに「潜在性の場」へと転回するに至って、「潜在的現実」から「顕在的現実」への転回が準備される。「潜在無限色」としての「黒」というアナロジーも秀逸である。「論理(同一率・排中律・矛盾律)」「様相(可能性と潜在性)」「時制(未来性と過去性)」のそれぞれの観点から円環プロセスを論じるパートは、この議論の背景に横たわる壮大な射程を感じさせる。入不二哲学の集大成と呼ぶにふさわしい内容であり、その筆致には異様なまでのテンションの高さを感じる。
「おわりに」で入不二哲学はついに神に接近する。アンセルムスが言うところの神「それより大きなものは何も考えることができない何か」とは、正に現実にほかならないであろう。あたかもエッシャーが絵画の世界で二次元と三次元の融合を実現しているように、「現実性こそ神である」という副題のついたその終章で、神という最も虚構的な存在者と現実との融合を、入不二は言語の世界で実現している。
デビュー作『相対主義の極北』において、入不二は「外部なき私たち」という新たな概念を提示した。本作『現実性の問題』において入不二は、全てを包摂する力としての現実性を析出している。「私たち」=「現実性」=「神」という等式は成り立つのだろうか。汎心論と汎神論は融合するのだろうか。入不二の著作の歴史そのものがあたかもウロボロスの環を描いているようでもあり、エッシャーの絵画を彷彿とさせるその数学的美しさは、反論を許さない入不二哲学の完全性の象徴であるように思われる。
ともあれ本書がユニークかつオリジナリティーにあふれた、日本哲学史に残る名著であることは疑う余地がない。シンプルな装丁と32ページにもおよぶ著者自身による索引を含む重厚な佇まいもまた、すでにして名著の風格を漂わせている。