宇野常寛『庭の話』
宇野常寛『庭の話』(講談社・2024年)
2025/6/8
読み終わった。
自閉と自営のロマンチシズムを取り戻そうという話だと受け取った。
自閉の肯定、自営の肯定。キモい人も生きていてよいと思える公共性をどう作るか。 少しだけ私自身のことを書こう。私は加藤より四歳年上の一九七八年生まれだ。出身は同じ青森県だ。そして加藤が事件を起こしたのとほぼ同じ歳だった時期に、無職同然の状態で約一年弱すごしていたことがある。当時はあまり自覚がなかったが、いま思えば大学を出たあと定職にもつかず「フラフラしていた」といった状態だった。当時の私の生活は、よくよく考えてみれば「孤独」に近かった。少なくとも加藤のそれよりも、個人的な人間関係は希薄だった。昼前に起きて、当時はまだ映画村の前にあった右京図書館に本を返して、西京極のコロッケ屋で日替わり弁当を買って球場近くの公園で食べ、桂川の土手を自転車で下り久世橋のBOOKOFFと漫画倉庫を覗いて、同じコースを戻り、太秦の古本市場を経由してまた右京図書館に寄って本を借りて帰るという生活をほぼ毎日続けていた。最大の関心事項は加入しているケーブルテレビの番組の録画であり、VHSビデオデッキにカセットを入れ替えるタイミングできちんと在宅できるように買い物や古本屋めぐりをすることにいちばん神経を使っていた。p.219
誤解しないでほしい。私は社会的な関係が必要ないと述べているのではない。むしろ逆だ。適切に他者とコミュニケーションを取るためにこそ、人間は孤独に世界とつながるための回路が必要なのではないか、と問うているのだ。p.222
私はこの「女」の気持ちがよくわかる。コロナ・ショックの渦中、私は一人の生活者として、ウイルスという目に見えない力が日常を侵食することを恐れていた。しかしその一方で、確実にこの日常性が侵食されることに、興奮を覚えていた。世界のルールが確実に書き換わっていることを、歓迎している自分がいたのだ。p.270
2025/6/22