アン・モロー・リンドバーグ『海からの贈り物』
アン・モロー・リンドバーグ 著 吉田健一 訳『海からの贈り物』(新潮文庫・1967年)
再読。
著者名が、「リンドバーグ夫人」になっている、青い表紙の版で。
「いま」と「ここ」にいる自分自身を受け取ること。
愛は排他的であるが、同じような形で持続するものではないこと。
私は牡蠣が好きである。牡蠣は不格好であり、灰色をしていて、決して美しいとは言えないが、牡蠣はその生活に適応するためにこういう形をしている。私はそのでこぼこした形を見て可笑しくなり、また牡蠣が背負っている殻の重さやいろいろな付属物を不愉快に思うこともある。しかしその適応性や根気強さに驚く他ないし、またどうかするとそのために涙ぐみさえする。そしてその見慣れた不格好な様子には、丁度、自分の手にしっくり嵌(は)まるようになった古い庭仕事用の手袋に似た親しみがあって、一度手に取ると、直ぐには置く気になれない。私はこの貝殻も、持って帰る積りでいる。
しかしこれは結婚を恒久的に象徴するものだろうか。日の出貝の場合もそうだが、この牡蠣の状態もいつまでも続いていいものだろうか。人生の潮(うしお)は引いて行き、方々に寝室や物置を建て増して膨れ上がった家は、次第に住人が減り始める。子供たちは学校生活に入り、それから結婚して自分で生活することになる。大概のものは、中年になる頃までには社会で或る程度の地位を得るか、或いはそれを得ようとして努力するのを止めるものである。そうすれば、生活とか、場所とか、他の人間とか、或いは環境とか、持ちものとかに対するあの恐ろしいぐらいの執着は、自分や自分の子供たちが無事に暮らせるために努力していた時代ほどは必要でなくなるはずではないだろうか。成功、或いは失敗によって、それまで続けてきた激しい戦いが止んでも、貝がまだ岩にしがみ付いていなければならない訳はない。そういう訳で、中年の夫婦というものはどうかすると、もう役に立たなくなった要塞も同様の貝殻の中に置き去りにされた形になる。その場合、どうすればいいのだろうか。そのまま退化して行って死ぬ他ないのだろうか。それとも別な形の生活、別な種類の経験に向かって進むべきだろうか。(pp.72-73)
我々の感情や付き合いの「真実の生活」も、やはり断続的なものなのである。我々は誰かを愛していても、その人間を同じ具合に、いつも愛している訳ではない。そんなことはできなくて、それができる振りをするのは嘘である。しかしそれにも拘わらず、我々はそういうふうに愛されることを要求していて、我々は生活や、愛情や、人間的な関係の満ち引きに対してそれほど自信がないのである。我々は潮が満ちて来ると、それに飛び付き、引始めると慌ててそれに反抗して、潮が二度と満ちてこないことを恐れる。我々は恒久的な持続に執着するが、生活でも、愛情でも、その持続は成長に、また、流動性に、そしてまた、自由であることにしか求めることができなくて、踊り手は自由であり、通りすがりに触れ合うだけであっても、やはり同じ律動で結び付いている。所有するのが安全なのではなくて、それは要求したり、期待したり、希望したりさえもしないことでなければならない。人間的な関係の保証は昔に郷愁を覚えて振返ってみたり、未来に恐怖を感じたり、期待を掛けたりすることにはなくて、それは現在に生き、現在の状態をそのまま受入れることにしかない。なぜなら、人間的な関係も島のようでなければならないからである。我々はそれをそれに課されたいろいろな条件とともに今、ここにある状態で受入れなければならなくて、それは島であり、海に囲まれ、海に割込まれて、潮が絶えず満ちて来たり、引いて行ったりしている。我々は翼がある生命、潮の満ち引き、また、断続的であることが我々に与えてくれる保証を信じなければならない。
断続的であること、これを人間が自分のものにすることは非常に難しい。我々の生活が引き潮になっている時に、それをどうすれば生き抜くことができるだろうか。波の谷に入った時はどうすればいいのだろうか。浜辺にいれば、それが比較的に解り易くて、ここの波一つ立たない引き潮の時には、我々が、普通は知らずにいる、或る別な世界が現われる。我々はこの待機の瞬間に、海の底の世界を覗く機会を与えられる。ここの浅瀬の温かい水の中を渡って行くと、大袖貝(おおそでがい)の群が片足で立ち、かしぱんが泥に幾つも嵌め込んだ大理石の賞盃(しょうはい)のように横たわり、無数の極彩色のおおのがいが水の中で光って、蝶の羽も同様に開いたり、締ったりしている。海が引いたこの静かな時間は実に美しくて、それは海が戻り始め、波が浜辺を打ちのめして、前の満ち潮の時に残していった黒い海藻の線まで行こうと焦っている際の美しさに劣らない。(pp.96-97)
2019/6/24