働きたくないでござる
自分は根本的に働きたくない&仕事したくないのだ,ということに気づいた.
きっかけは,睡眠時間やら食事時間やらを削って作業に打ち込む人間に意味不明の反感を感じていたこと.この反感を具体的に分析すると以下のようになる.
自分は睡眠や食事を削ってまで仕事ができない故の僻み
睡眠や食事を削ってまで仕事をするのを良しとする価値観を押し付けるな,という反感
そこで問題になるのは,「仕事」とは何かということである.(これは仕事だけでなく,「頑張り」「努力」などの言葉も)
私は,「仕事」というものを定義する時,必要条件として「やりたくない」ということが入る.
ある作業にやりたくないポイントが発生した時,その作業をまるごと「仕事」と定義することで解像度を落とし,目を背けることがよくある.逆に,研究やバイトや留学関係の手続きといった,一見「仕事」に見えること,自分の勉強や読書や創作といった「努力」と見做されることも,目的や方向性が明確になっていて手が動く限りでは「仕事」や「努力」ではなく,あくまで個別具体的な作業として認識される.
例:やりたい時は「須山ベイズの4章を読まなくては」「vdWポテンシャルの計算コードのうち,積分の部分のテストコードを書かねば」「GAPに関する70pのレビュー論文からハイパーパラメータの最適化に関する記述を見つけなければ」
やりたくない時は「機械学習の勉強」「研究」「バイト」
このように,「やりたくないことをやる」ことを「仕事をする」と定義していることが見て取れる.
あたりまえだが,睡眠や食事を削ってまで「やりたくないことをやる」のは嫌に決まっているので,「睡眠や食事を削ってまで仕事ができない」のは当たり前である.一方,他人が何を仕事と定義するのかは未知であるため,他人が「睡眠や食事を削ってまで仕事をする」のを「睡眠や食事を削ってまで「やりたくないことをやっている」」と認識して僻みが発生するという構造になる.
その他の問題も,主に自分が仕事を「やりたくないこと」と定義しており,それが他人とずれていることに起因する.ゆえに,対策としては
「仕事したくないのだ」と堂々とすること.自分は「仕事」を「やりたくないこと」だと定義していることを自覚すること.
他人の仕事の定義が異なることを自覚すること.または,他人が何を「仕事」と見なすのか,具体的に考えること.
「やりたくないこと」を仕事と名付けて解像度を落とすのをやめること.やりたくないポイントを明確にして,個別具体的な作業として片付けること.