一人の人間を書ききるには共感されないことを目標にしなければならない
仮にサイという一人の人間のすべてを書きたいのであれば、サイの生きてきた数十年間の堆積を考慮する必要がある
そこには他人に理解しえない、「うっ、なんか気持ち悪いなあ」と思われる程度のサイの思考のクセすら書かれることが求められる
「サイならこういう物の考え方をするだろうな」という想像を働かせる
抜ける絵というのは「おや、この絵はエッチですね」という認識を持たれる絵ということなので、つまり他人に共感しうる要素が存在している それを意図的に排斥する必要はないのだが、書く優先順位は下がる
サイがケイに「こういうのが好きなんだけど分かる?」と問いかけるのは、共感を求めているわけではなく、じゃれ合い
だからサイにとっては肯定されることが目的ではない
なので
「抜ける絵」と「サイの絵」は別の態度をもって描くべき
これは別に宣言するような話ではなく、個人的な話