いる感
そこに「いる」ということがアクティビティとして成立する場所とそうでもない場所がある
不特定多数で何かが起こるのを同時に体験する場所
祭り、ライブ、クラブイベント
閉じた関係性のグループが気を逸らさずにグループ内だけとコミュニケーションを取る場所
カラオケボックス
他人同士が集まるがそれぞれの挙動を常に察知できるぐらいに密な場所
バー、狭いカフェ
その個人にとって重要な場所
祖父母の家、地元の海
実際の喫茶店、家、クラブのような場所では「いる」という行為自体がアクティビティになっている
デバイス越しだとただ「いる」ということを表現するのが難しい
何かを発言・アウトプットしていないと「いる」ことがわからないデザインになっている
人はその場所に「いる」ことを許されると感じることで独特の感覚を得られる、気がする
いることを許されると、何もしなくても不安にならない
レトリカの人達が「おうち性」という近い概念を提唱している Webサイトを見ることを「このサイトに行く」と表現することがある
Webサイトにアクセスすることを物理的な移動と見立てている いる=時間・空間が複数人の間で同期していること と捉えると
例えばニコニコ動画は、動画の再生時間軸と現実の時間軸を錯覚させることで「いる感」を表現するメディア 実際は全く別の過去にユーザーが残したコメントが、あたかも今その時に一緒に発言しているかのように思える
伝達する情報のリッチさは「いる感」とはあまり関係ないかもしれない
むしろ客観的な情報量が少なく、それが当人に想像させる情報量が多いほうが、てこの原理的に「いる感」を生じさせやすいのではないか?sngazm.icon
知らんけどsngazm.icon
大きな隔たりがそこにあると感じられている方が逆に「いる感」が強まるところがある
動いている同じ物を見ることで同じ場所にいられる
YouTubeのLo-Fi Hip Hopチャンネルはライブ放送だが、だいたい同じような曲の繰り返しで、映像は短いアニメーションが永遠にループしている そもそもLo-Fi Hip Hopというジャンル自体、曲の中で驚くほど展開というものが無く、同じビートが繰り返され続ける、退屈さにその特徴がある(と思っているsngazm.icon) 👆でも書かれているがLo-Fi Hip Hopのチャット欄は若い人達が集まってダベる場になっている
リアルタイムのライブ放送でありながら、「何も起こらない」ことに意味がある 何かが起こってしまうとそれが興味の対象になってしまう、雑談が不可能になる
たとえ同じプレイリストのリピート再生だったとしても(そのように思える)、ただの動画ではなくライブ放送であることに意味がある
ライブ放送はアンコントローラブル
「目の前でアンコントローラブルなものが動いていて、何も起こらないものを、複数人で同時に眺める」ことが、場を生み出す力を持っているのではないか
複数人で川を眺めることで雑談ができる
キャンプで焚き火を囲むことで結束が増す
水族館、動物園がデートに使われる
めっちゃ面白いっすね!注意を惹きすぎる物は場を飲んでしまい、自分がそこに居るという安心感が失われてしまうのかもしれません。変性意識の話とも結びつきそう・・・
自然の話で言うと、よく物が溢れた生活や都会に疲れた人がただ海を見に行ったりしますが、あれは物に込められた人の意思(デザインとかの意図)から逃れるため、という話を聞いたことがあります。川や海はそういった意思が介在しない場所のため、外からの刺激をシャットアウトして、自己の内面に向き合えるという説
何かが起こると、人はその刺激に対して反応的・受動的になる → 主体的な感覚が失われて、自ら「いる」感覚を失うのではないか
人と雑談するときって、適度に自分の中にトランスできる状態が適していたりして 同じループを繰り返すLo-fi HIP HOPに盆踊りや読経などに似たトランス性を感じました。
盆踊りもクラブミュージックとかも、踊らせる音楽は繰り返しが多いところが特徴ですねsngazm.icon
同じ繰り返しでもアッパーな繰り返しとダウナーな繰り返しがある気がして、踊らせる系はアッパーですね(EDM, 盆踊り)
ダウナーな繰り返しは👆でいうトランスなのかな