むだと贅沢の関係が知りたい
ひとまずベン図
https://gyazo.com/368813078b2dbdbfe829c987b04690f7
換気をしながら冷房をかける
おいしいとこだけ食べて後は捨てる
1000円で行けるところに5000円かけて行く タクシーとか
バネをただ伸び縮みさせるのを眺めて過ごす
お札を燃やしてライトがわりにする
贅沢と無駄は割と紙一重なところがあって、無駄だから贅沢だと感じることもあれば、贅沢を感じるけど何の合理性もないこともある。
もちろん無駄でもなく合理的なチョイスとしての贅沢もあるだろうし、何の贅沢さも感じられない無駄なものもあると思う
その無駄をやることで誰かが何か価値になる体験なり気持ちなりを得るなら贅沢寄りなのかなって思いました。誰も何も得しないみたいのが無駄?schappe.icon
体験があれば確かに無駄感は無くなりますね。でもその中に、体験としてよいもの(たとえ無駄でなくとも良さがあるもの)と、無駄であること自体が体験であるもの(無駄じゃなかったら贅沢でもなくなるようなもの)の2種類がありそうな気がしてます。だとすると、無駄だから贅沢→贅沢な気持ちを味わえるから無駄じゃない→無駄じゃないから贅沢でもない→贅沢な気持ちにならないなら無駄→ということは贅沢→→→?
たぶんどこかでトートロジーですかね
もともとの「無駄」はたぶん価値のないことを意味してたものの、無駄であることにも価値や意味を見いだせるという価値観が生まれて、人それぞれ、状況それぞれの贅沢のありかたが広がったと思うといいのかもしれない?
ほんとの本来の意味での無駄(ほんとに誰も得しない意味ない出来事)と、贅沢になりうる無駄は言葉としては今のところ同じになっちゃってるけどニュアンス違ってきますね。
確かに、無駄に種類が生まれましたね。無駄α、無駄βとして、無駄αは単に無駄(無益?)なもの、気持ちの意味では無駄とは限らない。無駄βは気持ち的に無駄なもの、無駄αとは限らない。こうすると無駄に整理できますが、認識合ってますかね、、?
すくなくとも自分の中では整理できた気がします!!すっきり!schappe.icon
経済学的に見ると、ある欲求を満たすために支払うコストに対する苦痛(人によって違う)が、その欲求を満たされることによる便益(人によって違う)を上回ると贅沢に感じて、下回ると無駄に感じるのではという気がするsngazm.icon
換気をしながら冷房をかける例でいうと
換気をすると二酸化炭素濃度が下がって集中できるという嬉しさがある
一方で電気代が100円上がるという悲しさがある
二酸化炭素濃度に対する敏感さは人によって違うし、100円の価値も人によって違うが、「集中できるのに100円で済むなら安い」と思える人にとってはこの行為は贅沢に見えて、そうでない人には無駄に見える
ただこの時に「お得」とは思わない。「お得」と思う時と「贅沢」と思う時がある。世の中の広告の大半は「お得」か「贅沢」のどちらかを推している
客観的な価値と主観的な価値の距離が関係しているのではないか。「他の人がこれを手に入れるのに支払う価値よりも低い価値で手に入れた→これはお得だ」「他の人がこれを手に入れるのに支払わないような価値を支払った、(なぜなら自分にとってはそれに値する価値があるから≒私はそれに値する人間だから)→これは贅沢だ」
人になんかやってもらったらデカめに感謝するようにしてるけど、それは贅沢だからなのかもしれない。他人に感謝できるということは贅沢sngazm.icon
「贅沢」に「お得」を求め始めると、結構こじれてくる印象
価格は世の中の価値観によって形成されているので、世の中の価値観からずれている人の方が贅沢を体験する機会が多いのではないかという仮説