筋トレをしている
娘がスイミングに通っている間、送り迎えしている私は、ジムエリアで筋トレをしている。
例えば、ここで娘ちゃんが私に聞く。
「お父さんが筋トレしているのは、お母さんのためなの?」
一瞬、思考が停止する。
おお、そうだった。
おおもと、子育てが大変だった頃にファッションがラフに寄りすぎていたことがあって、それに妻の表情が翳ったことが、一つの動機のスタートだった。
で、まあ色々服を買ったり着たりしても、上半身が貧弱すぎると、何を着てもうまく着こなせない感じが見えてきたので、筋トレも始めたかったと。
そうだそうだ。そうだった。You are right.
しかし、日々の動機付けは違う。
毎週、娘のスイミングの時間がくれば、時計の針が動くように、自動的に予定をこなす。
運動を始めれば限界を超えたくて集中する。
襲いかかる負荷に体が恐怖信号を送ってくる、未知の感覚(平時における“未知”)に出会う快感。
体を動かすことそのものの、動物的な興奮状態の楽しさ。
そういうことが、アクセルになっている。
もちろん、その日に「行かない」と決断するとなれば、「苦労から逃げた」という倫理的なギアスもかかる。
それらに加えて、もしかしたら、日々お風呂に入るときに、自分の体に凹凸が増えることを喜んでいて、それが報酬になってもいたかもしれない。
しかし、私は妻に「どう? この筋肉。また付いたと思わない?」とか聞いていたわけではないし、「今日のファッションいけてるでしょ? これ、筋肉が付いたからこそきまってるんだよ」とか言っていたわけではない。
スタートした事情がなんであれ、現場や現状で、そんな高次のニーズが直接の動機になってくれることはほとんどない。 小さいサイクルそのものに楽しさが見つけられないと、なかなか生活や行動に結びつかない。
でも、その習慣の “辞めどき” や、その判断は上位目的に沿ってすることになる。 妻さんのニーズが実は違うところにあったことに気付いたり、そのニーズが変わってしまったなら、この習慣は止める検討をしないといけない。
たとえ、「楽しさ」がともなっていたって、時間は有限だから、目的に結び付かなくなったら、やめたほうがいい。
とはいえ、そう簡単には言い切れないのが、現実世界の複雑さだ。 はたして、「それをやっていた目的」はどっちだったのだろうか。
楽しかったからやっていたのか。
格好良く生きたかったからなのか。
それともやっぱり、「妻のために」やっていたのか。
それは言うほど簡単ではない。
たとえば、私が勉強するのをやめなかったり、理性的に振る舞おうとする理由はなんなんだろうか?
あるいは、こうして情報発信をしている理由は。