欲しいのは本当に褒め扱いだったのか
男性の「持ち上げながらお願いしてほしい」願望に隠れた、「有能じゃなくなることへの恐怖」が正体ではないのか、という吐露
よく、「夫のことは、褒めて使え」みたいな処世術が女性の側にありますし、家事をなんとも嫌々な気分ですることになる男性の側にも、「もっと褒めてほしい」「お願いするときには、もっと気分を盛り上げてほしい」という願望があります。自分でも、そんな心理を自分に感じたりもします。
でも、本当にそんなに「褒めて」ほしかったのかというと、それもかねがね違うと思っていた。それはまあ、“弱音”や“甘え”に感じるから言わないように、思わないようにしていたというのもあるけど、そっちは本質じゃない。 だって、ちょっと想像してみただけでも、そんな「無理な褒め方や行動へ認知」をしてもらっても、人工的に感じるか、子供扱いされていると感じるだけだろうと思うから。
それなのに、そして家事をするのは生活者として当然だと頭では認識しているのにもかかわらず、家事を「するのにも憎々しい気持ちになって思うように手は動かず」「しかし、指摘をされればギクリと目の前が真っ暗になるような衝撃を受ける」のか。私は。いや男性は。
その「ギクリ」や「やる後ろめたさ」(誤記ではない)を、振り払いたくて、カンフル剤たる『褒め』を必要としてあるんではないのか? という疑問が私にはある。
(まったくもって良くないことだけど、それをキレたり当たったりすることで振り払おうとする男も、たぶんいるんだろう)
障害物レースで、上下に波打った形状の地面を走るとき、めちゃくちゃスピードがあれば、頂点の場所だけを蹴って進むことができる。
でも別に、それだけが乗り越え方じゃなくて、素直にずりずり谷のところまで降りて、それからまた登ってを繰り返せばいい。くだりながら前につんのめる不安をこらえながら。それだけなんだけど。
ここにはやっぱり、感じたくない、正対したくない恐怖の感情があると思う。
「すべての問題を颯爽と解決。稼ぎもよく、競争に勝ち、家庭でも人気者で、まわりにいる人達はみんなにっこにこ」これが、ナチュラルなヒーローだと思う。これを演じようと、役割を果たそうと、そう思って男は生きている。
妻にとっての「良き母幻想」「手料理信仰」なんかと同じだ。
そこから滑り落ちそうになった瞬間に、ヒステリックな恐怖、世界からの拒絶を受けたかのような居場所のなさを感じることになる。
一緒に生活している人間が、怒りや不満を表に表して、「もっとあれこれをしてよ! 前にもお願いしたのに!」と言ってくる。そのときに感じる恐怖は、目の前の1人、家事一つではない。
その後ろに、一神教の懲罰神が立っていて、「おや、お前、配偶者を怒らせているではないか。お前はどうやら、期待したほど有能じゃなかったらしいな。ではこの後1ヶ月をもって契約は解除、お前の命は奪うものとしよう」と宣告されているにひとしい不安感がある。
ダメージや傷つきならまだいい。「恐怖」なのだ。
有能じゃないことの証明を突き付けられる、恐怖。
これは一種の「呪い」だ。内面化された規範、と言ってもいいかもしれない。こうなると、自分の意思だけでそう簡単に振り払えない。「振り払うのが善いこと」とすら、本人には思えていないだろう。 私達は、「昔の長屋やご町内の持っていたあたたかさは、子供が育つうえで大事だった。メールとかSNSとかで便利になるのはいいことだけど、対面の人間関係や、いつも何のときにも一緒である共同体の価値を忘れてはいけない」なんてことを言われると、どこか心の中に疚しさが疼きます。しくしくと。
だから、それに反論するときの私達の声は、ついヒステリックになってしまう。宗教戦争。「それの何が悪いんだ!!」と。『悪影響はなかった』というデータを示すだけでは、つい済まなくなる。 「『良き母幻想』や『手料理は健康的信仰』を自分から取り払えないから、女はダメなんだよ」と、仮に言われたって、そうそう簡単に自分の心臓の一部を切り離せないように、
そこはそう簡単には取り払えない“呪い”ではあるのです。
さらにここで話をややこしくするのが、「お金を稼がなかったら生きていけない」というのは、幻覚でも認知のゆがみでもなんでもなく、単に・完璧に「事実」だということです。だから、この呪いを解除するのは余計に難しい。反証をすればいいというわけにはいかないのです。 「『女は女らしくしていろ』と男(女ではない側)から幻想を押し付けてくるな! おかしいだろ!!」 というのとは違って、こぶしを振り上げられる敵がいるわけですらない。
まあ一応、お金に関しては、自給自足で生きている人や、人を頼って生きたり物々交換で生きていられる人も中にはいるかもしれませんが、万人が参考にするには、あまりに少数例でしょう。
また、この戦いや能力の呪いの話でいうと、現状、男の人には「家事をすること」に「人生や生活を楽しむこと」と同じくらい、「していてはならない」呪いの制約がかかっています。しようとすると恐怖と後ろめたさが襲ってくる。
「これは俺のしていていい仕事じゃない」と。
それは別に、「そんなのは女のやる仕事だ」と見下しているのではありません。
「こうしている間にも、ほかの競争相手は、より生産量の高い業務に集中して利潤と能力に磨きをかけているに違いない。こんなことをしていては、自分は生存競争に置いていかれる」
という不安と焦りが根底にあります。
かといって、男性の方だって、いまの時代に生きています。男女同権で社会に関わるべきで、男性も「イクメン以上」に、当たり前に家庭に参加すべきだということは、頭に入っている。だから、やらなかったらやらなかったで、心に痛みが走る。
家事をしても地獄、しなくても地獄、やってできが悪くても地獄です。
専業主婦でも、ワーキングママでも怒られる、のと似た構造が、個人個人の内面に存在しているとも言える。
それで、そういう呪いをとこうと思ったら、少なくとも一朝一夕では無理で、五年・十年計画を覚悟で付き合っていく禊になるかもしれない。
近年、ひそやかに話題が続いている「女性にとっての毒母克服」と同じくらいの労力を、かけていく必要があるかもしれない。
「やった結果が無様でも、誰も怒ってこないし、私も失望しないんだから、今目の前で一人の人間として、ジタバタあがいて幸せになろうとする姿を、ちゃんと私に見せて」ということを、長く付き合うパートナーは口にしていかないといけないかもしれなくて、それは、 「仮に引き受けた任務が未達で、がっかりした顔をしていたからといって、それで私があなたのことを嫌いになったとか、そういうことにならないのは、もういい加減私のことを信用してほしい。だからその代わりに、求められる基準に能力が及ばなくてしがみつく姿や、それでも自分の善良さを捨てきれずにじたばたあがく姿もちゃんと見せてくれ。それが私と一緒になったあなたの責任だよ」
というところのメッセージです。
幻想を解除してなおかつ一緒にいて、さらに努力をあきらめないという事になると、そういう相互承認を持ち合うしかないと思う。
それはある意味で、「夫はほめて育てる」みたいなのよりも、もしかしたらはるかに労力対パフォーマンスが悪いかもしれない。むしろ「褒めて使う」方が即効性と返報のある、現実的な道かもしれないんですよね。そっちを選んだって誰も責められないくらいには。
そして、10年前だったら、そこまでしてお互いに呪いを解いても、そんな自我を受け入れる社会基盤がなかったわけだから、それだけ古代からの伝統あるやり方でもあるわけですよね。
そこは、使い分けかもしれないです。個々人の資質と状況に応じてのね。