権力者が庶民の生活を知り、庶民感情に寄り添えば社会はよくなるという、
昔、時代劇をテレビでやっていて、なんとはなしに見ていた。上杉鷹山のドラマだったと思う。 話を最後まで見て、
なんだか分からないけどすごく感動して心震えたし
心があったまって「なんといい話だろう」
みたいなことを感じたりもした。当時大学生だったかな。
みたいな成分があることを言語化した形で気づいちゃったわけです。 あ、なんだ。と。
一気に白けたというか。
さーっと興奮が退いていく感じを味わったというか。
むしろ、そんな低俗な感情や感性があることを恥じたりもしましたね。当時の私は。 権力者に仁政をしいてもらって喜ぶなんて、飴玉もらって喜んでるってのと同じじゃないかと。 それにしても、「権力者が庶民の生活を知れば社会はよくなる」とか、「庶民感情に寄り添えば社会はよくなる」という幻想はなぜこうも強固なのだろう。
庶民は貧しく、虐げられている。その苦しさを知っていれば、為政者は優しくなるし、そうすれば政治は良くなる
というとき、社会全体の豊かさのパイは既にあって、それを権力者が自分の贅沢のために浪費しているとか、
収奪・搾取しているとか
「貧しいのは努力が足りないからだ」「怠けているからだ」と、苦しい生活にさらに鞭を打たれているイメージを持っていることになる。
そんなわけ、ないない。
政策というのは再分配だから、高潔で優しく腰低く、物腰の柔らかい人格者が政策を決めても、結局はただ数字を再分配するだけです。 政治家は人格の指導者ではない。
再分配の取り合いの反対側にも、別の利害関係者がいる。(子育て世代 vs 老人、のような) #政治とは利害調整 一つ一つの声に耳を傾けていたら、行政コストが上がってしまう。
ちなみに、公務員の給料を下げたら、なおさらひどいことになります。
柔軟さには、人手と不公平感がどうしたってともないますから。