概念のツリー的な構造と受動的での認知習得
概念のツリー構造というものがある。抽象的発想がちょっと得意だと、わりにすぐ思い浮かぶ。 ↓のトーナメントみたいな図だ。柴犬は犬であり、犬は哺乳類であり……、とさかのぼっていける。
これと同じことを、自分の内面についてもできそうな気がしてくる。
それが、その右隣にある図に近い↓。
自分のコアに向かってさかのぼりつつ収束していけるんじゃないか、という。中心的自我。しかし。 私は最近、人の学習はそうではないのではないかと思うようになった。 https://gyazo.com/c904503940a95eb3048b81c30cadb901
↑これ。左下図。
積みあがるところには積みあがるし、僻地といっても、まったく降らないとも限らない。
積みあがると素晴らしいね、くらい。
個々のピラミッドの山には、重心くらいはあるだろうけど、習得された自我全体の「中心」なんてものはないし、あるわけない。スペースコロニーではない。 情熱とかビジョンとか天命とかから、人生の全てが始まる、というイメージは大変魅力的だけど、少なくとも「全て」の語は外さないと、言いすぎ感はあるよね。