日本ではなぜ、現場は優秀なのに、トップはそうではないのだろう
日本ではなぜ、現場は優秀なのに、トップはそうではないのだろう
日本はなぜ、『現場』などの「部分」は優秀なのに、「全体」を指揮したり統括したりする立場の人材が優秀じゃないのだろう? 「優秀じゃない」というのが既に思い違いの可能性は?
「歴史と、そこからくる文化に規定されているから、法律や体制を変えるだけでは変えられない」というのは、まあそうだろうけど置いておくとして。
ここまではまとめで、ここから仮説。
⇒多数派や、現状うまくいっているシステムの静的なメリットや、現状で益を享受している側の人たちの理念や正義を言明することが、文化的に許されていないことにあるんじゃないかと。
武士は高楊枝してろ、正義と言葉は弱者のものだ、的な。
今、学校の教科書の裏表紙を見ると、「この教科書は、これからの日本を担う皆さんへの期待をこめ、税金によって無償で支給されています。大切に使いましょう。」と小さい字で書いてある。
これは極端なせいで、「恩着せがましい」とか「品がない」とか、
「子供を全体主義へと洗脳しようとしているみたい」とか、そんな感じがする。
だけど、こういうことがもっと言語化されて広言されてもいいのではないだろうか。
「生徒が全員大人しく席について話を聞いてくれないんだったら、一人で40人に授業を教えるなんて不可能ごとですよ」とか。
そういうことを言明しても、その多数派の利益の網から零れ落ちている人からも、その言明が叩かれないだけでなく、「共存すべき別の正義」として尊重される、そういう文化空間に変えていく。
「この制度の眼目は、全体の8割程度の国民に低コストで基準となる利益を提供することであり、一部少数者はその対象としていない。そこをカバーするのはまた別の組織と資金の仕事であり、その存在は否定しない」
という言明がもっと行きわたるといいのかな、ということを考えた。