政治についての自分の思想を棚卸し2024
政治について、自分が抱いている思想や嗜好性を文章化して整理しておこうと思った。
こういうことを言っている人なら支持するかもしれないとか、こういう発想や価値観を支持してくれる人となら、気が合いやすそうと、ヒューリスティックできるとか、そういう用途で。
骨子の部分はお風呂に入りながら考えたようなものだけど、「こういう発言をする政治家は嫌い」という否定神学的な定義でなくて、この大方針を称揚しようぜ、というもの3つをまず考えるようにした。マジックナンバー3。
一つ目が
法制度
選挙制度を含めた、しかも現行の法律を、無制限に称揚しようぜ、というのが第一の価値観にして方針。そして私刑の禁止。
2つ目が
資本主義
これは、市場でなんでも取引されてしまう、効率を追求しがち、競争を根深くはらんでしまう、アテンションが力を産み出してしまう、みたいな負の側面もある資本主義を、基本的には称揚し続けて、推進しようぜ、ということ。
3つ目が、
公共
インフラなどの公共事業、それへの公共投資、そしてそれら公益に浴する人はどこまでであるかの線引きをしていくこと、それらに熱意を注ぐことを、無制限に称揚しようぜ、ということ。
……というところまでを頭の中でぐるぐる考えていたら、いきなり4つ目が思い浮かんで困ったという。マジックナンバー破れたり。思いついた4つ目というのは、「文化」だった。ただまあ、これは一つ目の法制度に含んでしまってもいいかもしれない。法律を堅苦しくしないためには、道徳による抑圧が働いていないといけない。国家が労働や出産を奨励しないで済むためには、文化の目がそれをそれを急き立てていないといけない。だから私は、その結果として国や共同体が息苦しかったり、奨励されている何かを果たせない人が肩身の狭い思いをしたとしても、「それは仕方のないこと」として、それはそれで無制限に文化も称揚したい。だけどまあ、これは一つ目の法制度のコインの裏面として統合しておこう。 とりあえず、法制度、資本主義、公共への悪口はゆるさん、というのを私の政治思想としてまず自覚しようぜ、ということをここまででいったんまとめる。 これは何なのかというと、自然界では無力なサルである人類が、なんとか知恵を発展させ、外部足場を高度化させ大きくすることで死なずに生きられるようになってきた、その流れ自体は今後も推し進めないといけない、という自覚に基づいているんだと思う。 ただ、これらの3つの発想は、それぞれ単独で見てさえ、「弱者や少数者に厳しい」という弱点を持っているのだと思う。そして、これら3つを3つとも称揚しようという発想は、その力の合成で、「かなり少数者に厳しい」思想や政治になりかねない危険性を本質において持っていると思う。
ただ、そうであっても、「それらの制度の穴を、埋める人に、私はなりたい」という人を肯定はしても、それらの制度を非難することは許さん、という意識はどこかにある。
「選挙制度が実質的に多数決になってしまってるから、現状の制度はダメだ」と言うのは許さん、だし、
「資本主義は、大量生産の中で、人間らしさを失わせてしまう制度だ」と言うのは許さん、だし、
「公共のある制度は、本来多様なはずの人を、その枠に嵌めようとする圧力を潜在的に持つから息苦しい」と言うのは許さん、なのだ。
それらがあるから、ひ弱なサルが生きているのだし、これらのものは、今後も増強していかなければならない。推進し、加速させる必要があるのだ、というところにまずみんなを一致させたい。
その上で、弥縫策を用いて、制度の枠からこぼれる人は、個別に救う、という考え方でありたい。
こういう考え方に、ある程度前向きな名前があるといいのだけど。
まあそれこそ、リベラルな人に指ささせれば、「それはまさに保守主義だと思いますよ」とか「それは結局帝国主義に回帰しているのでは」とか、レッテルを貼ってくれるような気はするけど、私個人としては、この発想の負の側面を飲み込んですら、それらではないように思う。
リバタリアンですらないし、新自由主義でもないと思う。
なんか名前はないのか。
ああ、功利主義が根っこにはあるかもしれないですね。最大多数の最大幸福。 でも、「功利主義政党」とか「功利主義政策」って言葉は結局ないんだよなあ。
ここで私が喋っている「無制限の称揚」ってのは、無意識的な実際には「全幅の信頼」くらいの意味と感じてもらってもいいのだけど、意識下の言葉としては、それでは足りないんだよね、たぶん。
ちょっとみんな、そういうものをあまりに嫌いすぎたし、「批判的に扱い」すぎた。
そこから、「ベースとしては信頼し、部分部分、現状や現実に合わないところは、適応のためのパッチを当てれば良い」くらいの感覚に押し戻すには、ちょっと強い言葉が必要なんではないか、という感覚が私にはあって、それで出てきている言葉ですね。
ここに挙げた3つ以外にも、「基本的には信頼して従うべきだけど、取り扱いには注意が必要」的な認識を持つ、科学知識や統計(もしかしたら、経済や外交も?)とか、「文化であれ制度であれ、治安のためにも護持はある程度必要だけど、少しずつは絶え間なく見直している必要があるよね」という価値観のように「受け入れ難いけど受け入れられはする」強度の価値観も、私の価値観の中にはある。
「治安」なんかも、かなり称揚したいものだけど、まあ公共とかの下部構造なので、絶対的に称揚したいほどではない。(学級内統制とか) でもまあ、とりあえず、最初の3つを称揚しようよ。
「資本主義の力はあまりに巨大なので、それが本気で動いたら、個人の小さな幸せなんか簡単に潰されてしまう。だから私は、いつも大きな力に対しては、それを監視する側に立つ人間でありたい」という価値観の人もいるけど、
「常に感情を熱狂させるチャンスをうかがっているウェーイの人達ならともかく、理性と良識のある文明人なら、力と個人、弱者と強者が対立構造にあるのなら、いつでもそちらに立とうとするのが必然なのでは?」という意識を無意識に布教するのはやめてもらいたい、と思っている。 三つの称揚をする人というのも、怠惰でも悪魔でもないし、自分を大きいものに同一化させたがっているだけなわけでもない。 選挙制度は、自分達の代表者を選ぶように設計されているのだから、政治家は、選ばれた時点で国民みんなの代表で誇らしい存在として感情移入もされるべきで、汚らしい権力者のように、「辞めさせたい奴らばかりいる」「誰か代わりはいないのか」という目でばかり見られるようではいけない。
……、こういう考えや考えを言語化することに、一定の市民権を与えたい。国民のほとんどがなんらかのアニメを見るようになったくらいには。
こういう思想は、ある程度まで、ある時期までは、「多数派の無意識」とか「文化の粘着性」みたいなところがあって、わざわざ言語化・意識化しなくても、放っておいてもそっちの方向に寄っていってくれたのだろう。ただ、メディアの発達であらゆる少数者の声が目に入るようになったことで、規模の経済が働く中央偏差だけでなく、中心軸までがあっちにふらふらこっちにふらふらしかねなくなっているという危機感がある。 そんで、これらの価値観自体は、天皇制とも親米とも、別に親和性はない。
(※2020年代の日本は、1980年代90年代に比べればはるかにアニメをみんな(大人が)見るようになったけど、とはいえ、アニメを見る人のほうが出世する、とかアニメを見る人のほうがモテる、とかいう状況にまではなっていない、という背景を踏まえてこの比喩は聞く必要がある)
※※さほどの労働(対価)を支払わずに、サービス(ケア)を得られることは人類の夢というところがあり、その目的に、個性的なままであることがある程度合致しない問題は否定できず存在する。