抽象的な思考の楽しさ
抽象的な思考の楽しさ
すごくワクワクする。と、同時に「我に帰ったら、これなんの役に立つんだろう? とも思うんだろうな」とも思った。
脳内で並行して。すごくワクワクしつつ。
抽象哲学には、そういう面がある。「言語は、受け取り手のバックグラウンドによって多様な解釈されうる」なんていう、比較的実用界に近いテーマであっても(「存在」と「認識」に比べればだけど)、我に帰ると役に立てられる場面がそんなにあるわけではない。 それなのに、楽しめる部分があり、おそらくは、書いている本人も「楽しいから、そういうことを考える」以上のことがない可能性すらある。
でも、その「楽しさの心象」というものを無理やり分解して考えてみるに、
癒し
メタは脳汁
難易度調整によるフロー
①癒し
抽象的な思考は、現象面や実生活に比べると、静かだ。モンスタークレーマーや、反抗期の子育てや、市場価格の上下動みたいに、せわしくないし、そこに命や感情を縛られたりもしない。
そういう意味では、抽象の段を一つ上がるというのは癒しになりうる。
②メタ的な分析は脳に快楽がある
もともと、人間の意識・自我というのは、自分の行動パターンを省みて、その妥当性を検討して、その後の戦略を、命の危険に及ぶずっと手前で調整していくために備わってきたシステムだと思う。
運動の調整や、家族への情愛に比べれば、内省って回路の優先度は必ずしも高くないのに、そういうものが進化したとしたら、そういう意味性くらいしか思いつかない。
その意味で、抽象的な分析ってのに快楽が発生するのは自然だ。
言い替えると、「脳汁が出る」。
まあ、より原初的な欲望充足に対する報酬、「空腹なときに飯を食った」とか「異性と身体的にまぐわった」とかに比べれば少ない分泌量かもしれないけど。
③フロー感覚
ゲーム性における、“ゲームバランス”的な要素がかみ合うこと。簡単すぎるものも、難しすぎるものも人間には楽しくない。
逆に(達成内容や手持ち操作が理解できた上で)難易度さえ適切なら、それがどれだけ記号的で抽象的な情報操作であっても、それが娯楽に楽しめる。
チェスみたいに、自然界や人間界の表象の何かを投影していなくても、ナンプレとかでいいわけだからね。