呪いの受肉理論
私が「男にかかる呪い」「女を縛る呪い」「高度成長期からの呪い」「日本の文化的な呪い」のような文脈で、『呪い』というときは、それを、時代や環境の変化や違いで「害の方が多くなってしまった規範」なんじゃないかと思って使っている。
だから、このページで造語した「呪いの受肉」ってのは、限りなく「規範の内面化」という言葉に近いものだ。でも、こういう言い変えをすることで、2つほど考えを進めやすくなる枝がある。 ■
一つは、「自分の体の一部」という感覚が強くするようになること。「規範の内在化」のままだと、肺に吸い込んだ空気みたいに、いつでも鼻から抜け出ていってくれるような感じがある。
違うんだ。
「呪い」や、つまり賞味期限切れの規範は、不合理だったり、自分を苦しめているように見えても、本人がうすうす それに気付いていてすら、そう簡単に切り捨てられるものじゃない。
自分の腕を切り落とすようなものだ。怖いし痛いはずだ。
他の人に指摘されたら、むしろ怒り出して弁護してしまう場合だってあるはず。自分の一部だからだ。
しかも、意思で意思の一部を殺すなんて、動作的に言っても不可能ごとのはずだ。
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もう一つ、これを「分人」や「脳内小人」と絡めて考えやすくなる。 要するに、「呪い」もまた、「規範」や「超自我」のような意味合いで、(超大勢力の)分人の一人だと考えやすくなる。 で、この考えを進めると、「麻薬が目の前にあったら、俺、またやってしまうと思います。今はないわけですけど」というような話しや、「鬱だったころには、『死んでしまいたい、死んでしまいたい』という念慮に取り憑かれることが、周期的にありました」というような話しとの関連で考えを進めることができる。 そう、
呪いも一つの分人だし、麻薬や恋や自殺念慮だって、分人の一つなのだ、と。 そういうときに、「俺はなんて意思が弱いんだ」とか「こんなに後ろ向きなことでは、私はダメだ!」と、自分の意思を責めたり自己を否定しても始まらない。とは言われる。
だって、同じ自分なんだし。
そこで、「分人」的な発想を持っていれば別のアプローチができる。
問題のある人格をなるべく起こさないで、眠らせておく。
その呪いがどれだけ独裁的で支配的であっても、そうでない部分も必ずあるから、そこを見つけてなるべく使うようにする。関わるようにする。
そして、その呪い以外の人格を、少しずつ育てて、辺境から覆していく。
そして、そちらが表に出ることが多くなるように水路づけを深くしていく。
その上で、呪いとうまく共存する時期を経る
「呪い」というのも、独力で離れようと思ったら、それくらい迂遠なアプローチが必要なくらい、自我に食い込んでいるものなんじゃないかと、
少なくとも私は考えているところがある。
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2019/12/17:追記して切り出し。
倉下さんに1行メモを捕捉されてしまったので、慌てて加筆(笑) ⇒あー、この場合は、やっぱり向こうからのリンクは切れてしまうのか。「scrapboxシステム」といえども、万能ではない。