僕の考えたいことがキミにとってはそうじゃないこと
私は、いつも、ややうつむき加減で歩きます。
「筋肉が弱くて姿勢が悪いから」とか「落ち込んでるから」というわけではなく、「考えごとをしたいから」という理由の方が大きいのだ、と最近気づきました。
下を向いている方が、風景が視界に入ってきにくいので、考えごとをしやすいのです。
私は、このサイトで書いているような、現実とはちょっとずれたことを考え込んでいます。
実際の生活や周りの空気そのものよりも、少し抽象的だったり、より根源的だったりして
そんなことを「つい」考えます。思考を進めるのが楽しいのです。夢中で考えていて、現実の体がすっかり止まっていたりもします。
そんなことに、「俺は普通の人間よりも深いことを考えられるぜ、ふふん」と自負を持っていた時期もあります。若気のいたりそのものの時期が、私にもあったわけです。 でも、人間の遺伝子のコード数、や脳細胞の総数は誰のものでもそんなに違いはありません。
だとすれば、人が脳で1日あたりに考えられる情報の処理量が決まっているのかもしれない。もしそうなら、私は、「余計なこと」ばかりを考えているだけなんじゃないか、っていうふうにも考えられる。 こうやって、それを文字にしてしまって「読むだけ」の環境で読めばそれは面白いかもしれないけど、それをしている私の肉体は、他人の目にはどう見えているんだろうか。
まあ、よくて「ぼーっとしている」で、悪くすると「ブツブツ言って、何を考えているか分からなくて、怖い」とか「役立たず」とか思われるかもしれない。
私は、自分の特徴のことを「生活に根差したことをきっかけに、少し汎用的な方法や、解き放たれた違った切り口を見つけられる」という個性だと思いたがっていて、それはまあそうで、それは芸ごととしてはそれなりに面白いかもしれないけど、一市民としてとか、家族の一員としてとかだと、そんなに褒められた存在ではないかもしれないなあ、ってことをどうしても考える。
私が「考えている」ことのほとんどは、結局、「余計なこと」なのかもしれない。
なのにそれをやめられないのは、そうやって「狭く狭く」考えていったその先に、多くの人に共感される、普遍的な感覚にたどり着ける感覚があるからなんだと思う。私の「何か」を、抽象化することで普遍や汎用にたどりつく。
誰かと。
大きな何かと。
そして、こういう、「余計なことを考えちゃう」ことって、みんな多かれ少なかれ持っているんだと思うんだよね。そして人それぞれで「どんなことに、どんな方向に、夢中になって考えてしまうか」は異なっている。 それぞれの立ち位置から、それぞれの方向性に細く長く伸ばされた手を、「みんなみんな」という大きなつながりにつないでいく。
他の人にとっては追求する“ほど”ではないのに、聞くと共感はできてしまう普遍性がある。 これっておもしろいことで、ヒトが分担と貢献をくり返しながら、知恵を共有してきたみたいな、楽しさがある。
肉体を中心とした、現実の生活や人間関係だけが、人類のつながりでなくてもいい。 そういう感覚がある。そういう感覚を信じていたい。
だからみんな、ちょっとずつ違う部分を持ち寄り会おうよ。
そんなことを考えている。
考える生き方