ミツバチスイッチ(『社会はなぜ左と右にわかれるのか』)
タグ ミツバチスイッチ、原文では「hive switch」(hive=巣、群居)
とは何か
『社会はなぜ左と右にわかれるのか』でジョナサン・ハイトが提唱
我々は、根源的には利己的なサル(チンパンジーのように)の本性を持つが、それだけではない。
特定の状況では利他的な感性を持つし、行動を選ぶ。
たとえば、動物番組で「新しくやってきたボス猿が、あらたに支配下にはいった母猿の子猿を殺すことで、発情をうながし、交尾をさせて自分の子供を残させようとする」なんていう話を聞くと、なんだか嫌な感じがする。
そういう感性を同時に持っている。
もちろんそれは、地球の裏側の貧困や内乱の犠牲者に対しては(日常で常時は)発揮されないという不完全なものではある。
でも、目の前の同胞が苦しむのなら、相当発揮される。
どんなメリットが人類にある?
さらに、日頃から連帯感が刺激されていれば、仲間が苦しむ前から「親切にしよう」という意識すらはたらく。
もちろん、フリーライダーや裏切り者には相応に冷たいが。
だから、軍隊なんかでも、小隊単位というか、「俺達のチーム」での連帯感が一番強く働く。
刺激されているとどんな感覚なのだろう?
作中では、軍隊の一斉行進の訓練や、ダンスフロアの(レイブとかクラブとか結構ハードに踊るやつだと思われる)一体感が例にひいてあった。
古代のトリップサボテンとかも
だから、ある種のトランスやフロー体験などの忘我(集団的な忘我)が境地としては類似性があるのかもしれない。
「自他の境界が曖昧になっていく瞬間」の感覚
そうすると、スポーツか。
体育会系か?
そこまで“根性”や“上下関係”ではないのだとしても、たとえば「クラス全員大縄跳び100回跳べるかどうかチャレンジ」をやって
みんなで無心に、目の前の縄を、一回飛ぶということに繰り返し集中していくと、みんなの興奮が伝染するというか興奮が融合していく、ということはあるかもしれない。
声を掛け合うと、たぶんより効果的で、
それをやると、それ以降も、仲間にはお願いをしやすくなったり、心を開きやすくなったり、言葉をかけやすくなったりはすると思う。
そういった感覚を通り抜けてきた小隊なんかでは、仲間の中で自分が一人死ぬことはそれほど怖いことではなくなるという。自分の魂の持つよき部分は、それを共有している仲間の命がつながることで、未来に受け継がれると信じられるというか感じられるから。
ある種の救済にもなるということ?
これからの社会に公共心を作るには?
身の回りのちいさな共同体に公共心を持ちうること。
利己心のかべをこえること
そして、そうしてできた公共心をまたたばねていくことで、より大きな公共心を共有できると本当はいい。
ところで、こういう話を聞いたり考えたりすると思いつくのが、昔バブルのころまでの日本の会社にあった、
社内運動会や
朝礼での社歌の斉唱
といった、耳にするだけで「ウッ」となるような虫唾の走る文化のことだ。
ウェーイといいかえてもいいかもしれない。
同調圧力が嫌いな私にとって避けたい、苦手なもの。
そのようなものが、実は人類には避けて通れない種類のものなのかもしれない。
この視点の現代性
これは、ある種、「頭のいい人間の方がずるいんじゃないか?」とか「理性的な人間の方が不親切なんじゃないか?」という、古代からのイメージを再び呼び戻す。
最近までは、感情は倫理や道徳の敵ということを考えていたのだけど
事件が起こると、すぐ「悪者探し」を始めたり、
新しい文明が入ってくると、わけもなく恐れて、内心で排斥したがったり
そんな風に、理性こそが人間の善性、という風に考えがちだった。
この本でも、「(いつも人間の道徳について考えているはずの)道徳哲学者のような人が、図書館から借りている本の延滞をする率は低くない、むしろ高い」という記述があった。
「頭のいい人の方が、そういった“心のやましさ”を納得させる「今回だけは仕方なかった理由」を、より容易に考えつく」といった言説をどこかで読んだことがある気もする。
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