クレヨンしんちゃん映画
には、「主人公がしんのすけ」と「主人公がひろし/みさえ」の2種類のラインがあるのだろうか?
で、見てて「楽しいな」と思うのが、どうしても「大人が主人公サイド」のものに偏ってしまう。
しんのすけ主役で話を盛り上げると、なーんか しんみりとした「儚さ」「せつなさ」が出てしまって、元気になれない。(系が多い気がする。)
これは、私がすでに大人だから、というのではなく(いやまあ、それも多分にあるだろうけど)、「しんのすけ」という人格に、長期的に行動を一貫させるのに十分な執着があるわけでもないし、葛藤したり揺れたりする感受性が元々にはない、という部分が作用しているのだと思う。
まあ、彼を主役に据えて2時間枠での物語というのが無理があるよね。
『クレヨンしんちゃん 新婚旅行ハリケーン 〜失われたひろし〜』
『クレヨンしんちゃん ガチンコ!逆襲のロボとーちゃん』
確かにこれは大人に染みる。特に父親に。
そして、SF的な気持ちわるさがあるから、甘くなりすぎない。
みさえの動きがちょっと、筋(ストーリー)に都合よく動かされてる気がしなくもないけど、人間なんてそんなもんだというところで許容範囲か
中盤のみさえとロボとーちゃんの抱擁のシーンとか、感情移入の極だったな。
ようするに、そこまでのプロットでのロボとーちゃんの、努力しても社会には報われないとか受け入れてもらえないとかのシーンの積み重ねが、大人には響くんだよなあ。
『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ アッパレ!戦国大合戦』
確かによくできた話だけど……。
中盤のシナリオ積み上げるところが、あまりに淡々と作られていて、アメリカ的な映画論的には退屈になってしまう。
まあ、それは時代劇をリスペクトしたから、なのかもしれないけど。ううむ。
実際、時代考証結構できている感じがするんだよな。
詳しくはありませんが。