インターネットに僻地がほしい
思考のきっかけは、某バンドの某新曲MVだった。というか、固有名詞を隠すのも意味がなくなるかな。『コロンブス』。
(昼休みくらいに、youtubeにアクセスしたら見れたから、自分で一通り見るだけ見た感想は、「これは苦しいだろうな、曲タイトルからして、現地民を猿に見立てて植民地主義・帝国主義を描いたように見えちゃうよな」というところだったと思う。まあ、これへの感想は、本題ではない)
このMVは、多くの人の指摘に晒されることとなり、公開が停止された。
これは、時代の空気と運用の中で、こういう展開になれば、そうなるのは当然で仕方なかったと思う。ただ、そのとき、私には、私の頭の中には、「まったく、見られなくなってしまうのは、もったいないな……」という感慨が同時に浮かんでいた。
末端のデザイナーだったり、出演者のスケジュールを調整した人だったり、映像や音のマスタリングをしたり、技術者の労力や汗がそこに注がれていたのは間違いないわけで、そういうものが閲覧できなくなってしまうのは可哀想だな、という感覚があった。
先ほど書いたが、表現された中身についてはここでは触れない。ゆえに、その中身がどれくらい誰を傷つけるかや、社会をどれくらいどう歪めるかについても触れない。
以下に書くのは、それ以外のことばかりだ。
昔、まだネット自体が社会の「辺境」だったころ、表現活動の不祥事があったときの対応として、「商品としての流通は中止します。マスメディア(という表舞台)に流すことも今後はしません。ただ、検証や論評を可能にする意味でも、ネット(の片隅)に置いておきます。ご関心のある方はそちらをご確認ください」というリアクションがありえたと思う。
その上で、アーティストの熱心なファンなんかは、検証のためではなく、鑑賞のためにそれを見ることもできた。
ネットが実社会と一体化し、誰もが手軽に、ネットのどこにでもアクセスするようになって、そういう対処が難しくなった。というか、適切でなくなった。
特にyoutubeなんかだと、みんなが視聴した動画は、「人気」という判定がされ、「おすすめ」として上がってきてしまう可能性があるから、特にまずい。
取り下げるしかないんだけど、その「しかない」感に、気持ちの居心地の悪さを感じる。
ネットの中に、僻地と呼べる場所がほしい。
いま現在の文化環境でやろうと思ったら、鍵アカにするなりペアウォールの中に入れるしかないんだけど、なかなかそれも難しいだろう。
有料にするということは、それでお金儲けをすることになってしまうし、「仲のいい人にだけ、内輪で見せます」というのも、なんだか「元々の意思が邪悪だったのを自覚している仕草」みたいになってしまう。
現代でだったら、こういうときどういう遠国や出家がありえるんだろうか。
国立国会図書館に寄贈して、閉架書庫に入れて、オンライン閲覧可能な対象からはずすとかだろうか。そうなのかもしれないが、ちょっと
色合いが違う気がするし、閲覧に必要な労力が大きすぎる感じはする。
私はネットに馴染んでいるから、ネットの中に、さらに現実から離れた僻地がほしい、という感情として、最初の発想が生まれる。
ただこれは、抽象化するなら、異なる文化や統治原理をもつ小社会を、なんとか併存させ包摂させたいという、ある意味では近年いろいろな切り口に対して浮かんでいる論点の類似形があると見ることもできる。
これはさて、どうなのかな。