「自分の言葉で話せ」
「自分の言葉で話せ」
と、誰かが誰かに言うとき、そこで意図されている想いは何通りかあるだろう。パッと思い浮かぶのが、その中から2つ。
1.「それ、本音?」「キャッチコピーを取って出ししてない?」
別名は「心に響かない」。
例えば、「自然破壊をやめろ」と言っている人がいて、反対している何かの開発に対して「○○だから、この開発に意味なんてあるわけない。それが分からない奴なんてありえない」という意見を言っているときに、Twitterのような場などで、論の相手の提示してきた「今回の場合、こういう条件もありえるんじゃない?」という疑問点や反論点に向き合わず、「○○だからこれはダメ」「○○だからこれはダメ」と、文脈につなげずに貼り付けるようにしか語っていなかったりするとする。
そういうとき、私達は「借りてきた言葉ではなく、自分の言葉で話してよ」という概念が浮かぶ。
2.「相手に合わせて表現を変えられるか?」
別名は「(単語や喩えが)分かりにくい」。
ある概念や命題を、その前提となる構造や情報からしっかり理解できていれば、その骨格を抜き出した上で、相手にも馴染み深い知識や言葉を使った上で、説明し直せる場合は多い。
なんだろうな、たとえば子供に何かを伝えるときに、「借りたものを返さないのは、ドロボーといっしょだぞ」という表現を選ぶとか。
今さら田中角栄を持ち出されたり、「人間力」とか言い出されても困るし、「難しい問題だとということが分かる」ところまでしか噛み砕いた説明のできない概念はある。 「何を言っているか」ではなく「誰が言っているか」で判断する感覚に近いものが生じている可能性があるので、そういうときは自省したい。