「21世紀の」
21世紀の」
私が、「21世紀の〇〇」というときの心象風景について。
現段階で、ここの記事を読みに来てくれる人のほとんどは、私と同年代の方だろうと思うから、解説不要かもと思うけど、もしかすると私の子供達と同じく『生まれたときから21世紀だったよ』という人も今後読むかもしれないので、一応の簡単な解説。
私にとって、21世紀というと、「これからの」というニュアンスがあります。それどころか、ある程度は「未来の」とか「まだ見ぬ」とか「もうすぐやってくる」という感覚が、未だにそれを口にするときにはあります。
いや、もう今、 21世紀。それは分かっている。
しかし、おいちゃんが子供のころは21世紀はまだ20年くらい先で、思春期になってもまだ10年は先のことだった。で、その感覚を抱えて大人になった。
この感覚は、私より上の世代はもっとそうなのだ。
だから、ドラえもんは22世紀から来るけど、同じ作家の書いた『21エモン』は、21世紀に宇宙大冒険をしている。『2001年宇宙の旅』なんていう、小説や映画もあった。
だから、ここのwebページで、私がたとえば
21世紀の教育
21世紀の哲学
21世紀の正義
21世紀の宗教学 ……etc.
と、いうとき、今まわりで起きていることのジャーナリズム的まとめ、という意味合いよりは、
「これから起きて、(時代を今とはすっかり変えてしまい、)その後は主流になっていくような、新しい考え方」という意味合いを込めて使っていることのほうが多いです(たぶん)。
そういう意味で、21世紀に当たり前に生きている皆さんは、ここのタグなどで「21世紀の〇〇」と出てきたら、「新時代の〇〇」と書いてあるのだと、頭の中で変換して読んでいただけるとありがたいです。
さてまずは、次の2つについて考えてみたい。
まず何よりも、「素直な感情」「率直な感想」「自然な反応」「深い納得」みたいのものの否定、から入るしかないと思う。我々全員が、各個人の中でそれを「至上」と思いたくなる心理を、造物主に植え付けられた呪いではないかと疑っていくこと。
そこがお城の本丸であり、ボーリングの1番ピンだ。
何が求められてくるだろうか。
たとえば、こんなツイートとか、
@knockout_ 午前7:47 · 2018年6月20日
『AIvs.教科書が読めない子どもたち』の新井紀子のように 意味の解釈能力と誰かへの共感から始まる起業の能力のようなものかもしれない。