2024/8/21-2024/8/31
▷「社会を」に続く言葉は、まずは「回す」であるべきだ。「変える」や「変えたい」が先に来るようでは、その人は責任ある大人とは言えないな。日々を担うというのは、まず、それほどに大変なことなのだから。
▷もう、「漫画のドラマ化」は、原作ファンは一切見ないようにして、「未読勢のためのもの」ということにして、安定した売り上げが見込めるものじゃないようにならないかな。
RT▷ラスト後にドーラは反社会勢力なのでシータ達と二度と会う気はないけどシータがめっちゃ行動力あるからあらゆる手で連絡取るししょっちゅう会うしパズーとの結婚式にも一味を呼んでバージンロードをシータはドーラと歩くんだ
離せ駿 俺は止められない
▷国にすら抑圧されるほど弱い個体として生まれてしまったなら、この世では何にも逆らえない。
▷テロや軍事力といった暴力が、最強の交渉力を持った「外交」的手段になってしまいうるのも、死は一撃で何かをひっくり返してしまいうるから。この要素ばっかりは、オリンピックとかでガス抜きしたって、消えてなくなることはない。
▷経済的、社会的な弱者は、ちょっとの風向きを食らうだけで生活から滑り落ちてしまう、というのは真だろうけど、一見して強い社会的パワーを持っていたとしても、一発の銃弾で死んでしまうことには違いがない。
▷強い言葉や大きい主語には、気をつけないといけない。正義といえども、弱者といえども。
▷「日本死ね」が、(良い方向にとはいえ)ネットの、「ただの言葉」が、現実を動かしてしまいうる環境になってしまった時点で、「安全な愚痴吐き場」というものもまた、なくなってしまったんだよなあ。
▷特定の事件が念頭にあって思いついたわけでも言及してるわけでもないです、これらは。一度にいろいろ流れてきて、頭がシェイクされてしまったので、一度書き出してみたような文面です。
▷絶対悪としてゼロを求める、ということはあらゆる調停が不可能ということで、そうなると、そういう人ほど案の策定には関われない状態になってしまう。悲しいけど。いちばんそのテーマに真剣な人だとも言えるのにね。
▷あなたの過去は最大限尊重するけど、社会全体で、未来を見たときに、どこかで別の誰かに1件の新規の事件が起こるかもしれないし、起こらないかもしれない、その不確定性が残ることにめをつぶること、というか知らんぷりをすることを許容することを求める、というか。
▷これは、「社会」「犯罪」とは言っているけど、「被害者」が「加害者」と共存せよとか、「被害者としてのあなた」が「その加害者と」まして「隣人として」共存せよなんてことは言わない。言えない。
▷とはいえ、国内政治ですら原発とは共存せざるを得ず、国外を見た政治では核兵器があることとすら共存せざるを得ない人間社会であるのと同じように、ゼロにはできない割りきれなさの中で、「社会としては性犯罪が共存している」状態を許容する精神性が、制度策定に関わる人には必要なんではないか。
▷性犯罪、というのが、一部の誰かにとっては、存在を認められない「絶対悪」のような存在になっているのだろうとふと思う。「原発」とか「副作用」とか「核兵器は絶対悪」のような。あるいは「放射能はゼロでなければ認められない」というような。
▷カフェインで覚醒したい、みたいな感覚で、日々「何かに怒りたい」という内圧のようなものがあって、そこに小さな刺激が飛ぶと一気に水路が開くような感じがあるのかな。とりあえず、我々を損させているような何か、行動を(抑制含め)強制させようとする何かの存在に過敏になっているような精神状態
陰謀論に傾倒する人のなかにある、何者かが自然現象、疫病、宇宙を思い通りに制御できるという信念はどこからくるのだろう
そこまで人間はコントロールできないし、正確に把握すらできない。なんならちょっと上空や海の上ですら、観測がないのなら推定になるのですが
陰謀論者の間で、「台風は消えたが気象庁が隠している」事がホットな話題になっていた。
▷"ローソンで入手したクリアファイルそのもの"
wwww
▷たとえば検索で見つけたりおすすめに表示されたのを見かけた人の頭には、「は? なんで? ってかあんた誰? なんて人ごみでいきなりなれなれしく話しかけてきてんの?」って感覚が浮かぶはず、と書きながら感じちゃってるんだと思うんですよ。
▷そうなると、話者を直接知っていて、だから関心のバックグラウンドを知っていて、話の結論にもおおむね賛成、って人には共感しやすくなるけど、そうでない人、
▷だよね、と言ってしまうと、ほんの少し、誰かに向けて話してるニュアンスが出るし、出てしまう。
▷ツイッター上における、「 〜なんだよな。」しゃべりって、きっかけも相手もなく、でもそれなりに込み入った内容をひとりごとでしゃべっただけ、というニュアンスを込められるからこそ便利だった、というのはあると思うんだよね。
▷「20歳の時にリベラルでないのなら情熱が足りない。40歳のときに保守主義者でないのなら、思慮が足りない」みたいな言葉を連想する。
「どっちもどっち」は議論の結論じゃなくて前提なんですよ。それなりに真面目にやってきて「どっちもどっち」にたどり着かない人は知性か経験のどちらかもしくは両方が足りず、「それはそうなんだけどこの場合は……」とその先を考えない人は気概と胆力が足りない。
▷そう考えたとき、憲法で政府権限に制限を設けておくだけでいいのかという疑問がうまれ、民間同士で自制を求め合うことそのものも制限しておく必要があるのではないか……みたいな考えは浮かぶ。
あんまこういう叩き方したくないんだが、大日本帝国のグロさって独とは違って『民間主導の全体主義』とでも言うのかな
全体主義的制度を国が作ってからその傾向が制度内で増幅していく形がなんか他国より強いというか…
上手く言語化できんわ
▷「産んでくれなんて頼んでない」なんて言ってないで、「育ててほしいなんて頼まない」って言って出てけばいいんですよね。
▷とはいえまあ、親の手がかからない生き方というのは、社会から嫌われない生きかたであって、そういう風にせよというのは、親のわがままなわけでもない。
▷歴史的にロシアはアゾフ海を目指すとか、地政学的に不凍港を目指すというのなら、相対的にクルスクは相手にくれてやることができるんですかね。どうなんでしょうか。
RT▷まあそうではあるんですが、「年寄りのおっさん」になった側から言わせて貰うと、私も好き好んで「年寄りのおっさん」に成った訳ではなく、青雲の志を持った、何処に行っても一番若い、Promisingな「シュッとした青年」だったはずなのに、社会に出たら思うに任せず、試行錯誤に苦労を重ねてやっと少しは何かできる所に辿り着いてふと鏡を見たら、歳をとり、肌と体は弛み、髪は薄くなっているだけなので、「年寄りのおっさんはズルい」的な事を言われても、幾ら何でもアンフェアではないかと思います。皆さんが「年寄りのおっさん」と言っている人たちを含めて、人間は皆、有限の人生と思い通りに行かない世の中で、奮闘しているんですよ。
▷ファクシミリやクリスマスにXを使うのは分かるけど、トランスフォーメーションにXを使うのは分からん。
死ぬのにも勇気とエネルギーがいると知った。自分に直接手を下さないで死にたいというとき、わたしなら自分を自分で病気にするだろうと思った。人はそういうことができる。
自分にとってこれは、身内に対する暴力だった。自分に対する暴力とは、究極のDVではないかと思えた。
安心したくて処方薬を勝手に多く飲んだ。
限りない慈愛を感じる、蟻が静止し、静止した石が動く。(中略)わたしは変わり果てた姿で、(中略)この世界を見ている。呪いが解けることはないかもしれない。(中略)でも世界は、世界は、うつくしい。
本当は、生きたいと思っていたのだな。
(中略)
感情の底というのは、本当に底だった。落ち込んでいるというのはまだ感情がある。
身体でものを言ってから、初めて言葉が自分のものになり、自分の根源にあるものと言葉がつながった。
なんということだろう。身体を差し込んでわたしのすべてで発してみるまで、言葉は本当にわたしのものではなかったのだ!
頭とマインドは、苦しみよりも退屈しないことを選ぶらしい、ということである。つまりは、退屈するよりは苦しむほうがいい。
アディクションの大きな要因として「復讐」がある気がしてならない。自分を傷つけた人に対して「あなたが悪い」と表現すること、思い知らせること。これは、古くから「当てつけ」
死の三~四年前だったか、母がわたしにこう言ったことがあった。
「あなたがいちばん助けを必要としていたときに、わたしは助けてあげなかった。だからわたしも助けてもらえない」
びっくりしてしまった。何にびっくりしたかというと、母がそれを知っていた、その自覚を持っていた、ということに。
わたしはもともと、忘れられている子だと自分を思っていた。
解離は、解離していることそのこともさることながら、そのあいだに多くのことを経験し損ねたことに苦しむ。そういうわけで大きなトラウマというのは、その後遺症が長く続く。
わたしは母に不幸そうにされることに疲れていた。長年それに消耗してきた。また泣かれるのだと思うと聞く気になれなかった。
母にもそれを乗り越えてわたしに何かを伝える気がなかった。もしかして、何かをポロリと漏らしたかもしれない。人がポロリと漏らすことには真実がある。大切なことはポロリとしか言えないのかもしれない。あの言葉もポロリと漏らしたものだったかもしれない。ポロリと帰らしたことを大事と受け取らなかったのは、わたしに意志が足りなかったからだ。
自助グループにある「言いっぱなし聞きっぱなし」のルールを使う。
また、インクワイアリーとはin(内側に)query (探し求める)ということ。あくまで自分に対して真実であること。相手に忖度しないこと。しかし故意に傷つけようとはしないこと。お互いが求めている高次の目的は、「それぞれに、そして共に、幸せになる」ことであると意識していること。
母の息子が一度殺されることを受け入れなければいけない。父の娘が愛されることを受け入れなければいけない。それはどちらも、一度死ぬ、ということなのだ。子どもの自分が、一度死ぬこと。愛されることもまた死なのだ。「一つになる」という比喩が正しいなら、愛の中では人は自分の個別性を保ちきれない。不可抗力のように変わってしまう。成熟が難しくなってしまったこの社会で成熟するには、反対の極性を持った他者が必要なのだ。
母に密着された(すがられた) 息子は、ものすごく息苦しいのではないか。庇護的な父を愛する娘は、恋愛に苦労するのではないか。
彼女はトランスセクシュアルの女性で、しかも彼女曰く、半端なトランスだ。(中略)
ちなみに性適合手術というのは、それこそが多様性を久くネーミングであると思う。生まれ持った男が嫌でそれを捨てるなら女に合わせなければならないし、女でなければ男に合わせなければならないという含みがそこにあるからだ。二元論を出るのが多様性であるはずなのに、これは二元論を支持し強化している。
実のところ、トランスセクシュアルと摂食障害、薬物およびアルコール等のアディクションがクロスしている例は水面下で多いのだろうし、(中略)
生まれ持った身体にノーを突きつける。他ならぬ自分自身が。摂食障害とトランスセクシュアルが持っている過激さ、苛烈さがここにある。これは究極的には自分をゼロにする試みであり、生きている限りはゼロにならない身体という自然との、勝ち目がない戦いではないだろうか。それに勝とうとしたら、死ぬことになる。自殺にしろ事故にしろ衰弱にしろ。
いや、死んでも、また会えるかもしれない。
そうだ。死者と生者が出会う場が、芸能の場だったのだから。
もしわたしが死んで、その死を祝福してくれる誰かがいるとわかっているなら、生きることはどれだけ軽やかになるだろうか。
わたしの死を悼んでくれるなら、ではない。わたしの死を祝福してくれるなら。
わたしの惨めさも寂しさも、崇高さもバカらしさも汚らしさも、全部ひっくるめて、あの人だったよね、と受け取ってくれるなら、そこに全身で参加してくれるなら。それが祝構だ。誰かが死んで、嬉しいわけもなく集まって、それでも笑いは起き、泣きも起き、悲しさも痛みも。
すべてあるものとして抱きしめるのだ。そのとき祝祭が起きる。
それが祝福だ。祝祭だ。
わたしが死んだら祝福してください。少しのあいだ、わたしを思って踊ってください。
『涙を食べて生きた日々』(中略)
摂食障害になった最初のきっかけを思い出す場面が秀逸だ。なにげない場面で、誰にも悪意などなかったにちがいない。一五歳のあるとき、「美晴ちゃん、痩せたねぇ!」と、訪ねてきた親戚が開口一番言った。ふだんはかわいい姉のオマケのようにしか扱われないのに。そのときのうれしさが忘れられなかった。
アディクションの当事者にこういうことはよくあるという。優れたきょうだいとの比較による劣等感からアディクションが起こる。
「わたし、最初の子は女の子がよかった、と言われたことがあるの」あるとき、めばが不意に言った。
「え!誰に?」
「母に」
(中略)
「それはつらいね・・・・・・」
虐待されたわけではなくてもね、と思って、突然、認識に打たれる。
これが本質的な虐待なのでは。
本人の根源的な部分を認めないこと。そうでなかったらよかったと言うこと。
これを信じてしまったら、自分はこの先何をやったとしてもダメということになる。いちばん根源的な条件を満たしていないからだ。
社会全体から来るそうしたすべてを、お母さんは誰に言うこともできず、不満の言い方もわからず、あまつさえ何が不満かもわからず、そのエネルギーをいちばん小さき者にぶつけた。
それだけは自分が好きにしていい存在と思えたのではないか。
誰しも、モヤモヤとした考えや不満を持ち続けることはむずかしい。不満はかたちになりたがる。ただの思考はかたちになることを望み、そうしてひとたび意味を得ると、さらに強化され、反復される。確信となり、次にはそれを出せる先を探す。
アディクションとは、それではないかと思う。
思考への固着を「アディクション」と思ってみることの利点は、そうすると、思考を自分の外に出すことができることだ。出さない限りは爆発するまでぐるぐるする。出してみて初めて、自分と問題が分けられる。
このようなテニスでの勝者敗者効果が出現するのは男性プレーヤーだけであり、女性プレーヤーではみられませんでした。
また別の研究では、試合後の血中成分の分析を行うと、テニスで勝ったプレーヤーは血中のテストステロン値が上昇し、敗者は逆に低下することが示されました。
さらにバスケットボールについて調べた研究では、試合中に得点したプレーヤーは、その後のシュートの成功率が一時的に高くなることが示されました。
またビデオゲームの実験でみられた勝者敗者効果は、文章読解力の実験でみられたよりも高くなっていることがわかりました。
1人称視点のシューティングゲームは相手を打ち倒し勝利するという点で、文章読解力の成績の比較よりも、より競争として生々しかったからだと考えられます。
ですが最も興味深かった点は、ビデオゲームと文章読解力でみられた勝者敗者効果は、男女両方に等しくみられた点にあります。
⇒「流れ」って、あるんだろうね。それは運とか天とかではなく、人間の中に。
自己責任のもとでの市場競争を最大化し、「小さな政府」の実現を目指すというものだが、とりわけ日本の政治風土の中で「改革」に結び付けられる場合、それは独特の意味を持つものとなる。「大きな政府」としての「福祉国家」を縮減するだけではなく、その背後にある旧来のシステムを打破することにその眼目が置かれた。そのために小泉氏は構造改革などを訴え、橋下氏は行政府の刷新を目指した。
社会の成長戦略はてにならず、それに乗っていてもジリ貧になるばかりなので、自己の成長戦略が別途必要だ、というわけだ。
その結果、「社会のよき一員」になるよりも「よき自分」になることが重視され、自己啓発的な意識が高まる一方で、社会的なものへの関心が薄らいでいく。
従来の平和問題や環境問題から今日のアイデンティティ政治に至るまで、一連の「文化政治」がその関心の中心を占めてきた。
それらの問題意識は、とくにかっての高度成長の時代には、経済成長一辺倒の保守政治の暴走を食い止めるという意味で確かに有効なものだったが、しかし今日、成長が困難な時代に、それでも何とか成長しようともがいている彼らにとって、どれだけのリアリティを持つものだったのだろうか。
では若者世代に関わる議論は、限定的に捉えるべきものなのだろうか。実はそうではなく、むしろ逆に拡張的に捉えるべきだろう。というのも今日の社会では、これらの「中年世代」もかなりの程度「若者世代」化していると考えられるからだ。もちろん生理的な意味でではなく、社会的な意味でだ。
かっての社会では、若者とは一時的な存在だった。つまり不安定で流動的な存在、社会の中心部に腰を落ち着ける以前の「周縁的人間」だと捉えられていたが、一方で中年期になると、どこかに足場を見つけ、そうした状態から脱すると考えられていた。
しかし今日の社会では、とりわけ雇用の問題から、不安定で流動的な状態からいつまでも抜け出すことのできない人たちが多い。彼らは「周縁的人間」のまま、成長と自己実現のための機会を十分に与えられることもなく、その結果、そのための欲求をいつまでも持ち続けることになる。
メモ▷なんで「日本人男は児童ポルノを求める」という風に主語を一般化して語るのか?一部だろうに。
⇒特定の誰かではなく、抽象化した悪の方が、迷いなく鉄槌を振り下ろしやすいからかな? あるいはそれプラス、「ごく一部にそういう人もいる」だと、「法規制を作らないといけない!」みたいな煽りをやりにくくなるから、というのもあるかもしれない。