2024/4/26-2024/4/30
▷形而上派と自然学派
▷その意味では、エキセントリックなものの感じ方をする人は常識人と、逆に“普通からはみ出れないな”という人は個性的な感じ方をする人と、それぞれくっつくと、自分の特殊性を日々理解できたり、自分を縛っている思い込みを解毒できたりしやすいかもしれないね。
▷蒸し暑い日に水分補給をたくさんしても、一定以上に熱中症を予防する効果が出ないのでは? とも思う。
それぞれ連動はありつつも、別の要因だよね。
▷日焼け止めを塗ったからといって熱中症は防げないし、気温が高くて肌がジリジリと感じたとしても、紫外線の分以上に日焼けするわけでもない。
▷サイト上でチャットで質問できるポップアップもそんな感じなのかなあ。AIボットが応答してる感じでもなく、すぐに担当者対応に切り替わり、かつ回答がメールで送られてきたんだけど。
▷以前ツイッターで、「なぜwebサービスはアプリをインストールさせようとしてくるのか」に対して、「お気に入りにURLを保管してもらって、次からはそこから来てもらう」という操作をしてもらえないから、ホーム画面を占拠してしまうしかないから、みたいな話があったけど、
▷桜って、花だけじゃなく葉のほうも、春らしい若草色の時期がすごく短いね。一瞬で、むせそうな深緑色になる。
▷「3日間分、有給休暇を使って休むと、つながって9連休になる」という言い方があるけど、それだったら、5日分注ぎ込むつもりがあれば、どこの週だって9連休にはできるんだよね。
▷出た!筑波宇宙センター名物、遠目に見ると萌えキャラに見える看板!!
(伝わった例がなくて悲しい…) x.com/sado_kouta/sta…
▷子供達と「無限1UPだ!」と、盛り上がったスペースがここになります。 pic.twitter.com/jef4O4udzZ
RT▷うっほー直球のジェンダー差別用語連発!!!
そこにしびれるあこがれる!!!
似たような量産型化粧のおばさん議員に文句言われたくないわ。 x.com/IshimoriAi/sta…
島根1区の自民党候補にビックリ。
財務省出身の官僚55歳男性。
これ以上こんな金太郎飴みたいなおじさん議員必要ですか??
この方に、女性の活躍とか言われたくない。私たちの何がわかるというのか。その席を空けろ。
島根の皆さん、女性の声で政治を変えましょう!
♯亀井亜紀子 を国会へ‼️
⇒「金太郎飴」「私たちの何がわかるというのか」なるほど。
▷住民票の写しの原本とか。 x.com/finalvent/stat…
「マイナ保険証」の反意語は?
▷「延々と」を「永遠と」と書いてる人はしばしば見かけるが、「天誅を全うした」は初めて見た。そんなもん全うするな。
▷東京都って、区、市、村、島とあって、帝国というか連邦みがある。
▷廻船問屋の海鮮丼屋
▷つまり、「生活の場」とか「ただ居る」ということが許容する精神活動というものが、実際の人間一人一人が抱えているものよりも、かなり狭いんだろうな。
▷そんでこれは、読書(読んだ本)の話ですら、けっこう難しいのではないか、という気がするな。
▷なぜ(日本)人は政治について語らないんだろうか、ということのイメージを今ぼんやりと考えていたんだけど、実生活だと、完全に意見が一致していて「そうだそうだー」となりそうな相手とであっても、メシ食いながら政治の話は結局しなさそう。
▷本屋さんで棚の間を歩いているときって、必ずしもジャンル表示標識を読んでいなくて、面陳されている本の放つ情報で、「あ、ここからもう違うコーナーになるのか」って知覚していたりする。その意味では、売りたい本でも売れる本でもなく、「何なのか分かりやすい本」を並べるという判断がありえる。
転生系とかのコミックスで、判型が大きかったり背表紙のデザインが豪華だったりするレーベルってあるじゃないですか。
あれを本屋さんで見かけると、かえって「あ、じゃあ電子でいいかな……」ってなるんですよね…
⇒大手週刊漫画雑誌のコミックスの判型とそろえろよ! あと1ページ当たりの販売単価もそれらを上回るなよな! って感情がわく。
▷おすすめタブのほうが、トレンドワードよりましか……
RT▷株価大幅下落がトレンドに入ってたから「やったーッ!買い増しチャンス!!」と喜び勇んで確認したところ別にまあそんなに言うほどな感じではなく……
盛るなニュースを
▷わたしの現代新書のやつ、他の皆さんがやったのを見ていると、「コピーが秀逸……! これ自動生成なの?!」と思ったけど、自分でやってみるとイマイチ感がかなり強い。
自民党政権は、一般的には「右派」「保守」という言われ方をする。
ただ、経済政策などを見たとき、「自民は全然リベラルすぎる」という言われ方も見る。
この食い違い方はなんなのだろう。
とりあえず、ここでは「憲法改正をしようとしている」「戦争を(できる国に)しようとしている」「天皇制と男系男子天皇制を維持しようとしていて精神的に前時代的」という論点を考えることや、その分野について私がここで言及することはしない。
まるっとその部分は捨象してしまったうえで、残りの部分についてだけ考えようと思っている。
自民党政治が弱者保護なところ
自民党が弱い者いじめであるという印象で、左派的でない、という言われ方はするだろう。
ただ、経済の推進の仕方でいえば、昭和の自民党を捨象しても、結局「護送船団方式」で脱落を許さない日本人の精神性を反映して政治をしているし、それゆえに中間団体を尊重して、政権の完全なトップダウンで物事が決まったり進んだりしないようにしているようには見える。
もちろん、中間団体を維持するということは、その団体の閉じた風土内での疑似権力者が圧倒的にのさばる状態を、本質的に解体できない。そういう意味で、旧文化や大文化によって現に抑圧されている人からすると、その態度は支配者的であったり、弱者搾取的に見えたりすることはあるのだろう。
これは物事の裏表で、両方を取ることはできない種類のものだから仕方がない。
自民党政治が経済拡大主義的なところ
政権や官僚が「こういう産業をこれから大きく育てよう」「もっともうかる国をつくろう」というアイデアや音頭をとることがある。AIだったり観光立国だったり、半導体だったり。もしかしたら原発だったり。コンクリートだったり箱もの行政だったり。オリンピックだったりね。
そういうのを耳にすると、「そんなのでもう一度明るい未来が来るわけないじゃん」「またそうやって民草を煽って、その労働力を搾取するつもりだろ、やりがい搾取みたいに」「勤労という価値観を奨励されているようで胸糞悪い」というような反感が、胸に生じる。そうすると、どうしても振り切って
「みんなで貧しくなればいい」
みたいな言葉を紡ぎたくなるし、そんな言説を消費したくなる。受け入れたくなる。
でも実際のところ、みんな(というか一人ひとり)の稼ぎ出した産業の力の合計としての国家としての強さがないと、通貨も安くなるし、燃料や資源を輸入できなくなると、それこそ経済サイクルが止まって弱者ほど死んじゃうしね。そこは仕方がない。
⇒話芸がなめらかだよなあ、読みやすい。本質存在とか形相と質料(けいそうとしつりょう)とか、教科書にだって載っていたかもしれないけど、読む気になるにはある程度の勢いがあるよね。
ワクワク読めるのに、結構疲れる本。1日に10ページも読めないかもしれない。
自然学派と形而上学。古代の形而上学の人達の発言した内容って、現代になってしまうと、もうほとんど興味をそそられない。だって、より精密な理論によって上書きされてしまっているからね。
⇒だから、ベルラールとか人間尺度説なんかは古くても楽しく読める。
しかし、そういう人たちの持つ、「浮ついたものではない静謐なものへの憧れ」は強く共感するし、そういう関心ベクトルを持つ人たちが、その時代その時代を切り開いたからこそ、現代の科学があるわけで、馬鹿にしちゃいけないとも思うわけなんだ。思うわけなんだが……。
まあでも、私は若い頃は特に、「知ったら得になる武器としての知識(≒情報?)をください」という気持ちが強かったし、加えて、まだ何も手にしていない若者だったわけだから、「危機に動じない泰然とした心を養える倫理より、次の数年に(知恵や経験を含めて)獲得できるものを最大化できるような、感情や情熱の使い方を教えてくれる人生訓(、人生論、いかに生きるべきか)こそを伝えておいてくれよ、という気持ちがすごく大きかった。
これさー、両極端に振れちゃって、無理に求めると、いきなり「インドを放浪してこい」とか「3畳間に住んで1日100円で食うや食わずの生活をしていないから現代の日本の若者は軟弱になった」とか裏社会サバイバルや勝負師、下層民のダークヒーローみたいなところに引き寄せられることになっちゃう。
それ、全然長期投資じゃないわけなんでね。別にロックな生き様だけが人生の実相でもない。
そのとき大学受験中の人は、裏社会に憧れなくていいし、コンプレックスに感じなくていいから、そのまま数年は受験勉強に全リソース注いじゃっていいだろうと思うし、組織の歯車になったところからの情熱の使い方や人生にレバレッジをかける考え方もあっただろう。
研究職みたいな知的で、ゆえに理性的っぽい仕事をしていても、「これからの3年間は勝負の年だから、論文を書きまくる!」みたいに自分を追い立てなきゃいけない展開は出てくるだろうし、対照的にスポーツだったとしても、怪我を避けつつ堕落や快楽を避けまくりながら、日々最適なトレーニングを積みまくることが成功法則である一側面もまた、人生にはあるんだろう。
そういうことを研究しなさいよ! 考察しなさいよ!
「ないはない」とかうんざりなんだよ! 存在と認知と言語を、哲学の世界から追放せよ!
ピカレスク小説に比べたら、教育勅語(の前半)なんて、バランスもいいし網羅性もいい。
松下幸之助や逆に島耕作ではなく、雇われびと小説で「なれるSE」が出てくるようになるまでに、ずいぶん時間がかかったとも思う。
それくらい、理性外の修身って、語る人がいないよなあ。
松下幸之助くらいの時代ならいいけど、徳川家康とか司馬遼太郎まで行きがちだからなあ、日本のビジネスマン。「なれる」でいいんだって。
なれるはねー、1巻では徒弟制の中での守破離の守みたいな境地をちゃんと書いていた上で、3・4巻くらいでは、マネジメントっぽいことまで書いているところなんですよね。
人はしゃべりたい。その欲求と、ある種の飲食店の営業形態は結びついている。とすると、そこから別のビジネスを考えることもできるのか、とか考えつつ、お刺身を食べている。
なんということもない、よしなしごとを、沈黙を恐れるかのように、ずっとお店の人にしゃべり続けるおじさん。いつも不思議に思う。自分はしない。カウンターで飲んでいて、お店の人と基本的にはしゃべらない。まあ、代わりにツイートしているわけか。
語弊のある言い方だけど、ネットのリベラルは高齢化現象ではないかな。右派も似たようなものかもしれないけど。ええと、何が言いたいかというと、各人の実存的な問題を、社会的な正義や善とかで欺瞞にしてると思う。もっと言うと、「お前は早晩死ぬんだが、やりたいことはそれなのか?」に向いてなげ。
で、この人生の収穫期というのが、変な言い方だけど、「新しい」感覚なんだ。パズルが解けていくような。
例えば、長谷川等伯の松林図は、若い時から、美しいなあと思っていても、ある時、人生の収穫期の中で、さらに新しく美しく見え始める。そんな感じ。
良書を選び、コツコツと読んでいけば読書はできる、あるいは読書術とか、まあ、それもいいんだが、人は人生のどっかで、収穫期に入っちゃってて、苗を育てる時期とは変わってしまう。老年期の読書はどうしても、人生の収穫的な色合はある。
新分野が読めないでも、たくさん読めないでもないけど。
死期を思うと、読みたかったけど読めない本が浮かんでくる。これが介で、読むだけなら読めはする。だけど、それは10年前に読めば経験価値になっただろうけど、今はもうそうではないという限界がある。というか、読書というのは生き方なんだよ。今の生き方の中で読める本しか読めない。
この、65歳を過ぎて、さて、死ぬまでに何ができるかというと、というか、こういう問いに結構無駄な幻想がはいりやすい。
Death with Zeroだと、人生の価値は、その年代にできる経験、というのだけど、これは、なんとなくだが、真実の半分くらいに思う。
老いた焦りと経験への渇望は狂いやすい。
個人的な傾向はあるだろうけど、65歳になると、お腹いっぱい食べるというのが、幸福感をもたらさない。「あー、お腹いっぱい、幸せ」という人生の時期は終わった。まあ、自分、昔からその傾向はあったが。
あと、酷い話だが、読んだ本が邪魔くさくなってくる。昔は一冊の本が大切で仕方なかったのに。
自分の例だと、60歳と65歳は、かなり意識変わった。60歳の時には自分も歳とったなとか言うけど、振り返ると、40代の延長だった。65歳になると、かなり心身のポンコツさと、死ぬまでの残り時間を思うようになった。
いや実際さ、日本は貧しい貧しい連呼してるくせに非日本国籍者への社会保障削減とか言うと途端に日本は豊かな先進国とか言い出すの、設定統一くらいしてくれよ、と思うよね。
東京一極集中の最も大きなデメリットの一つは、政策決定に影響の強い者が東京通勤件に住んでて、かつ公務員的な給料の上昇がインフレ率に遅れやすい立場だから、田舎まで景気の熱が波及する前に直ぐに引き締め用とすること。
財務省と日銀本店を田舎に移転させよう。
今の状態で円安が一って騒いでる経済論は一律アホで却下で良い。
日本のデフレと昨今の欧米のインフレが示しているのは、デフレよりインフレの方がマシ。
オーバーシュートを恐れるな。
インタゲヒットで即引き締めは論外。
田舎に雇用が移転するまで都会には熱すぎな状態をキープしろ。
金曜ロードショーとジブリ展行ったんやけど、この私強そう過ぎて友達と爆笑した
みんな円安、円安って騒いでるけど、日銀が動かないのは当たり前で、これでも日本はインフレ来てねえんだよ、マジで。海外旅行してる人が困ってるだけで、何なら卵の値段とか昔に戻ってきてるから。
日本人のデフレ根性は本物だよ
3教育
自然育児と積極的不登校で長く教育から離れていた私たち。
教育は社会に適合する人間を作るため個性を潰しやすい。という面ばかり敵視して、学校とか教育委員会とか行く時は戦闘体制気味でした。
周りからも、教育は洗脳!軍隊教育!とかばかり聞いていたし。その面もあるとも今でも思うけど↓
科学への頼って、この社会への頼と通じるんですよ。科学的な人工的なもの悪い=そんなものばかり使う社会は利益重視で人や地球に優しくない!
頼出来ない!と、なる。
科学の追求で人や地球に貢献しようとしている人がいる。科学は人や世界に優しいよ?と思えると、世界の見え方は全然違う。
反ワクを否定→自然育児やスピの否定→その人の人生否定、になってしまう。相手はそう感じる。
ということを、反ワクをなんとかしたい人に、心に留めていただきたいです。反ワクは表層の一部で、そこだけ覆せるようなものではない。
その人の人生全体への理解が必要なのではないかと思います。
この世界で長く生きてきた者がこの世界を離れるというのは、今まで積み重ねた人生を捨てるに等しい。外側からこれをやめさせようとするのは、その人の人生を否定するに等しい。
↓
ノーワクチン母だった私が考え直した話
⑥やめたこと 始めたこと
私が参加しなくなったこと
1スピリチュアル系イベント
2 自然育児系集まり
3自然農系集まり
4積極的不登校系集まり
仕事のお客さんも、仲間も大量にいなくなりました
(このへんをウリにして生きてきたんですごめんなさい)。↓
心情的には、ワイも男の子なので、そんなこと言ったって誰かが社会のための体張らなきゃだめじゃん、寄りではある。
でもだからこそ、私は嫌だ、をパブリックな場で言える人は、すごいと思う。
俺も、セルフケアどうとか知るか、俺には身を捨てて守るべきセカイがあるし、それしかねえんだよ、という気持ちを大切にしたい。
すいません。
でも、この話題で明確に、そっちに張れるのは、大したものだと思いました。
理屈なんか知るか、社会とか関係ねえ、私は嫌なんだ、と言えずして何が文学だ、と思います。これはマジで。
で、お前の立場はどこだよと言われそうなので答えると、生来ハードワーカー&セルフネグレクト気質なので、そうそう、そうやって適当におだてて気持ちよく死なせてくれよ、そうすりみんな丸く収まるんだから、派。
ちゃんと、俺は安全なところから他人を死においやる側を選ぶ、と言っておられる。
でも、外野のいっちょかみで言うのもなんですけど、お相手の方も割とパンツを脱がれてると思います。
俺は嫌だからやりたいやつを鉄砲玉にしておけ、そのためにも鉄砲玉やる気が無くなるようなこと言うんじゃねえよ、誰も得しねえだろ、という個人の話をされてる。
大半の「成熟した」人間にとって最大の興味の対象は「人間」で、自然現象はあまり興味を惹かないんですね。だから探査機も受けるのは開発者の話だったり、擬人化だったり。
非オタク友人の結婚式のときに周りと探査機のぞみの話をしようとして、本件は悟ったな。>RT 人は必ずしも宇宙に興味はない、というかまあ普通にない
現代貨幣は信用によって担保されているというのは、つまり「構成員の数が多くて、イケてるシノギをしてて、武闘派な組のヤクザの名刺は価値が高い」というのと同じことでは、と......
現代貨幣理論によれば、現金の価値は「それで税を支払える」ことから産まれ、そして税を支払う義務は「支払わないと国に酷い目に合わされる」ことから生じていると考えれば、現代貨幣とはつまり数字化・通貨化された暴力なのでは、と思ったりする。
なにより少子化対策にはおそらく全くつながらないので、その文脈で持ち出すのも筋が悪い。本来は「未成年に参政権がないのはなぜか、それは不当ではないか?」という人権にかかわる哲学的問題として正面から議論されてしかるべきです。
たとえば成年被後見人の投票権というのは憲法問題であって、投票可能となるように改正があったくらいなわけなので、成年被後見人が投票できるのに、未成年(当然に被後見人)が投票できないのはいいのか?というのは、問いとしては全くあり得るところです。
「目利き力」の源泉はセンスと呼ばれるものだが、そのセンスとは「切れ目」に気づける素養。
この素養は記録を続けることで養われる。
記録という行為は「何を残して、何を捨てるか」の選択に向き合うことだから。
記録をせずに過ごすことはこのトレーニングの機会をスルーすることになる。
あらゆることを記録に残すことはできないので、記対象は必然的に偏ることになる。
記録することは、この偏りを心に刻むことになるため、避けがたく自身の偏りに自覚的になる。
特定の記録対象の解像度が上がり、人には見えない「切れ目」が自然と目に入ってくる。
「目利き力」として価値を生む。
15年前に、成長しなくてもいい、スローライフでいいとか言ってた連中が今何言ってるか見てくださいよ。
日本は貧乏になった。日本は弱くなった。
て言ってません?
もし同じ人物がこれ言ってたら、その人たちは全く頼に値しない人たちです
そもそも自分でなんとかできるのは記録することだけ。
記憶に直接アクセスすることはできない。
記録を介して記憶に有意な学習をさせる、あるいは記憶から学習内容を引き出す。
その意味で、記録は記憶を活用するためのプロンプトと言える。
記録をせずに「これは大事なことだから忘れないだろう」などとうつつを抜かしていると記憶も一緒にうつつを抜かし、何が重要なのかを自分で判断するすべを失ってしまう。
記録は記憶のアイキャッチ画像のようなもので、思い出すときの手がかりになる。
何をアイキャッチ画像にするかが記録のキモ。
特に、「良い悪い」という言葉を自分が使ったときに有用ですね。
「何と比較してそう言っているだろうな?」という疑問は、主に自分宛に向けるのがいいのだろう。
自分(66)がひしひしと感じてるのは、いつかやろうと思ってたことが、気がつくと期限切れになってること。
人生って全部はやれないんだ、通らない道があるんだ、というたり前なことをときどき意識して悲しくなる
⇒自分が死んだ後に、生きられない時間、通れない道があるということ。
ただ、近未来的に天皇制を廃止すらと、韓国のような社会になるだろうと思う。あと、各種ラディカリズムが出てくるだろう。現天皇家は何と言っても品位があって、下品なものを抑制してると思う。まあ、近未来に天皇家がなくなるとも思えないというのと、秋篠宮家になると変わるかなと、半々。
これもなかなかに難しい問題で、比喩的にいえば、ダビデ王家がなくてもユダヤ民族があること。
(「天皇のいない日本」というのが)
読書術的なことで、古典というのは、単独に存在せず、古典の位置に落ち着いた伝統と環境があるので、そうした知識は専門の学者さんから学ぶといい、というか、そのほうが近道。例えば、なぜ『ロミオとジュリエット』はイタリアが舞台なのかと
哲学史というのは、問題を維持する装置でもあって、まあ、サークル?
そう言えば、「バス」、あれ、大型バスにのってばす、というバスは、omnibusが語源。電子回路のバスは、交通バスからさらに派生した言葉。
⇒検索してみたら、本当にそんなだった。オムニバス。
ついでに言うと、毛沢東主義というのがめちゃくちやな代物で、そもそも労働者階級すら理解してかった。この点、スターリンは理解してたから、大虐殺をした。まあ、毛沢東も別に大虐殺はやったが。
フランス革命も、詳細に見てくと、なぜ生じたのかよくわからなくなる。ルイ16世は下院中心の国家プランを進めていたのに。
ロシア革命がしょーもないクーデターなんだというのはあまり知られてないかも。まあ、ここはロマンの巣窟だから異論は多いだろうけど。
僕の本では、意味とは何かを問うためにナンセンスからアプローチするわけですが、それは、ナンセンス論から逆説的に意味の存在を問うドゥルーズの『意味の論理学」と似ている。でも、ドゥルーズの影響よりもっと広く、ランダム状態に限定をかける、という現代芸術の発想です。
センスの哲学は、意味からリズムへという方向づけでまず説明していますが、最後まで読んでもう一度最初から見ていただければ、そもそも意味とは何なのか、という考察になっていることがわかると思います。意味なんかなくていい、という本ではない。
千葉雅也さんの文章、哲学者としてと言うより作家として好きだと気付く。神経症的な文章構成をメタ的に網の目のように走らせながら、パーツごとに手にとると驚くほど軽く、しかし高密度なのだ。役に立つけど美しい。頑丈なのに軽い。それと、体言止めのタイミングがセクシーというか、エロいと思う。
センスの哲学、これはハウツーではないという感想があったけど、これをハウツーと言うのです。
ハウツーとは、どうすればいいかを教えてくれるもののことだと思うけど、どうすればいいかはそう短く言えるものではなく、それなりに分量がかかることもある。分量がかかっているからハウツーではない、ということにはならない。
暮らしのなかでのキャラ立ちというのをあの頃のドラマから学んだ。トレンディドラマは全然観ていなくて、次にクドカンまで飛ぶ。70年代の下町ドラマとIWGPは僕の中でつながり、それが『銀魂』につながる。
『そもそも本を読めていたためしがあったのか?』
⇒……。いつから読めていると錯覚していた?
「たしかに学問的には論争的な関係なんだけどあなたよりはその人のすごさをよっぽどよく知っているので気軽にdisらないでくれる?」という態度がだんだん無くなってきてしまうのが、党派性の水準が閾値を越えた社会ですね。
たしかに時々、パーティーなどで本人確認のために「お名刺を頂戴いたします」と言われることは今でも皆無ではなく、昔は簡易式の身分証的な使い方がされていて、それが転じて色んな用途があったのではないかと。飲み屋のツケ払いの時に置いていくとか。
クラウドに紐づいた思い出の写真おすすめ機能、今はまだ大丈夫だけど、いつか絶対この写真で泣くだろうなという予感はすごいよね。
被害者に「下心」があったら加害者の有責性は低くなるはずという価値判断も相変わらず実に強力なようで。
頂き女子については特に何にも思わないですが、この件についても一貫して「被害者非難は二次加害」と言っている人は少ないなという印象です。
乳幼児の参政権問題、政治哲学のうえではすでに議論されてるのでそんなにアホな話ではないのですが、結果として保護者に複数票を与え一人一票原則を揺るがせてしまうことになるので、二の足を踏むのが普通の感覚ではあります。
これは既存の素材(もちろん有償)の中から漠然と
女子高生を選んだものと思われますね......描き下るしでなければそんなことはよくあります。
♯誰だよお前選手権
赤川先生自身も語っていたと思うけど、ブレザーを着ている『セーラー服と機関銃』の星泉。主婦と生活社21世紀ノベルスという、ミステリ出版としては新興だからこそ出せた本ではあるが、当時は小説におけるイラストというものが惰性的というか、かなり軽んじられていたことが窺える
だから北宇治吹部で真由は明確に異分子として浮き上がるわけで。真由の言動がサイコパス的に見える、というのは既に一視聴者として北宇治の論理に絡め取られているのかもしれない。2015年開始当時、『けいおん!』的なものを期待して見たらなんか違った、という理由で視聴やめた人が今だからわかる。
ユーフォはアニメだから楽しめているけど、ドキュメンタリーだとしんどすぎて見られないよなぁと最近思う。3の第三話で久美子が「誰一人脱落者を出さない」というのは危険な「優しさ」で人をバーンアウトさせかねない。むしろ「たかが部活、辞めればいい」と言う真由は至極真っに思えるわけで。
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ユーフォは同調圧力が強くて、1期以降観れてない。
「けいおんはシニシズムを抱えてる人間にこそ向けられていた」というのが志津Aさんの論考の序盤に出てくるが、まさにそういうタイプの人間なのでユーフォ的なものを見ると「なんでそんなに必死に部活と人間関係やってんの」みたいな気持ちになる
だいぶ時代遅れの感覚だと思うけど、社会通念上良いとされるものを「良いもの」としてベタにやられると引いちゃうのよね。そういう学校道徳を信じられない人間にとっては、一回ギャグとかエロとか萌えとかでくるんでもらって初めて見られるようになる。真面目な話を真面目にやられると無理なんだよ
若い方々は社会不適格おじさん美少女の戯言に耳を傾けず、ユーフォニアムなどの向社会的作品を見て人間関係のマネジメントや努力の大切さを学んでほしい
ジブリ作品がよくジブリスタジオそのもののメタファーと解釈される事に寄せれば、けいおんでは京都という中央からは傍流だった京アニの立ち位置を指し示すものだったのに対し、ユーフォは業界で一定の地位を築いた京アニがピラミッドの上位に位置した事を物語っており、故にとても息苦しく感じる
音楽は他者と合わせるという都合上、時に迎合的であり、ロックでドロップアウトしても場合によっては社会から別の社会へ移行するだけになる。アニメ表現もまた周囲に合わせることが価値を持つことがままあり、音楽とアニメーションが幸福な一致を見せるときは、反面息苦しさも生じるものでもある。
加害者が特に改後の情を示していない状態で、「獄中日記」が公開され拡散される状況、被害者のフラッシュバックとかPTSDとかを心配して否定的に捉えるのが最近の傾向かと思っていましたがそうでない場合もあるようで。
イラストの話題で「皮は描けるのに骨と肉が描けない人が増えてる」って自分自身耳の痛い話が出て、今の時代骨や肉がいくら描けても皮が描けないとなかなか仕事にならないからかなって。二択なら多分皮だけ描ける人の方が仕事来る。アニメだと分業出来るのでそういうシステム出来たら良いのかもだけど。
なんなら今は可愛いのために肉と骨が邪魔な場合がある気がします
原作は独居老女を金目的で殺すというヘイト混じりのフェミサイドで不適切にもほどがありなぜキャンセルされないのか不思議なくらいなのだが、これをヘイト混じりのおじサイドに翻案するとなんかちゃんと哲学的問題になりそうな気がするのがやはりド氏の偉大なところなのかなと。
そんでまあ受け手側の人は気軽かつ本心から「無理しないで、身体を一番大事にしてくださいね」って言うんだろうけど無理しないと何もできないのは創作って道で生きる全員(プロアマ問わず)に共通する施弱性なんだよなあ。無理しなかったら創作なんかしませーーーーーーーん
夜通しやってるお店がもうないので、深夜にフラリと出る気にならない。
この時間にふらりと出て、歩きながら缶ビール呑んで、呑み屋で軽くメシ食って、何買うでもなくドンキをフラフラして、公園で少し休んで、帰ってバタンとキューする。
東京の魅力はそれだったのに、コロナにころされてしまったよ。
ブルアカなんかは90年代の日本のサブカルチャー、もっと直接的に言えばギャルゲーエロゲーからの影響も明らかですが、あのへんのオタ文化があちらからどれだけ自由なものに見えていたか考えると、色々と思うところはあります。我々はそこにリアルの社会の影響をのっけてはこなかったけれど。
IoTに攻囲された未来の人間の自由意志とは!まさに知らんがなの領域だな。人間に気分があることはじられるが、自由意志というと、なんだ、特定条件下での特異な現象というイメージが先立つ。
しかし実際には道徳はカント基準で運用されておらず、①のような「傾向性」を持つ人を増やす機構なので!その傾向性がよからぬ方向に導かれれば当然、「快いので人を殴る」のと同じことが起こる。
これは然の話ですね。
なのは②ではなくむしろ③、というのがカント基準。道徳は実はそれ自体を利用して人を殴ることができる装置なのでこの議論が持つ意義は大きい。
①人を殴ると自分も不快で苦しくなるので殴らない人
②不快には感じないが悪いことなので殴らない人
③人を殴ると快く感じるので殴る人
の3人がいるとき、ふつう「善人」は①のような人をさすが、カント基準なら道徳的な人は①ではなく
②。殴っていないのは①と②だが、従っている原理が①と同じ...
>人を殴ると自分も不快で苦しくなる
自分が敵とみなす存在に対して普通の人類はこうならない仕様になってるので、敵に対してすらこう感じるのはある種の特異体質で、こういう人間を前提に道徳を考えると一瞬で破綻するわけね。
二分心
二分心(にぶんしん、英: Bicameral Mind)は、ジュリアン・ジェインズによる人間の心の仮説である。1976年の著作『神々の沈黙-意識の誕生と文明の興亡』(英: The Origin of Consciousness in the Breakdown of the Bicameral Mind)により提唱された古代人の意識についての仮説である。
古代人の心は、神々の声を出していた部分と、現代で言う意識している心とに分かれていたと考えた(ここでいう神々とは、従来宗教が説いているような神ではなく、いわば内心の声とでも言うべきもの)。
二分心時代の人間を描写した代表的な文献は『イーリアス』である。意識時代の現代においては二分心はほぼ消滅しているが、幻聴等の症状の現象が二分心によるものだとされる。
冷笑系の意味とかどうでもいい。見るのやめよう。
取り込まれてるよ。あなたは何かにもうなってる。
外野が無傷で居られると思うなよ。
一般的な濃度でインターネットをしてたなら、男女関係の話題のガチの煽り合いが目に入るのなんて、サイゼと4°Cの話題がクソバズったときだけなんだよ。
ほかの話題を含め、その手の絵にならん論争を毎日のように見ているのだとしたら、あなたはもうその界隈にいる。あなたは楽しんでる外野じゃないんだよ。
普通にTwitterを使ってるぶんには、その手の話題の「外野」にさえならないんだよ。みんなそうなんだよ。知ってるか。外野は既に内野なんだよ。
これがもし、あなたに主張とか立場があるならまだマシなんだ。だけど、書いてる通りあなたに主張や立場がないのなら、ただ消費してるだけなら、そんな習慣マジで辞めたほうがいい。
これがもし、あなたに主張とか立場があるならまだマシなんだ。だけど、書いてる通りあなたに主張や立場がないのなら、ただ消費してるだけなら、そんな習慣マジで辞めたほうがいい。
なんせ依存性もあるだろうから、すぐ辞めれるかわからんけど、少なくとも辞めようとしてみたほうが良い。取り返しがつかなくなる前に。
景気が良くて面白い? ふざけんな。ああいう話題っていうのは、掘り下げて掘り下げて核にあるものも、それが盛り上がる仕組みも、まったくエンタメにしていいものじゃない。それを見分ける分別はなくさないでくれ。
ああいう話題を掘り下げていくと、核にあるのはガチの社会問題だ。実際に苦しんでいる人たちがいたり、この世界の歪んだものがあったりする。
そしてそれを取り巻いて、たくさんの人達が燃やし合ったり呪い合ったりしている。
繊細な人はto C、痛覚ない人はtoBで成果出やすい傾向あるなー。
頂き女子りりちゃんのマニュアルにある騙しやすいおぢの見極め方、何度読んでも救いがなさ過ぎて泣けてしまう。群れから孤立した独身のおぢはハイエナの格好の獲物なんだよな。
おぢの見極め方
・夢も希望もない
・毎日働いて寝るだけを過ごしている
・サラリーマン
・オシャしに気を使わない
・癒しを求めている
・人に頼まれたら何でもやる
・自分語りをせずこちらの話を聞いてくれる
・過去に借金経験がある
・特にいい所がない
・趣味がない
・結婚願望はあるが出会いがない
=女の子に好意を持たれる経験がなくすぐガチ恋になる。
承認欲求が結構強いので『助けてあげること』が好き
世界一周とかやってる方々って、その旅行中はSNSで発信するものが多いし目につきがちだけど、帰国後のリアルはあまり目に触れないよね。
彼女が出来たら人生好転すると思っている弱者男性、人間1人ぶんの苦悩が増える事を想像してみて欲しいんだよな
自分の面倒見るだけでキャパオーバーの弱者男性にはキツいんだよ
ただ女体に触ってみたいだけなら風俗に行けばいい
じつはリリちゃん氏のターゲットになるおぢって趣味がないんで、オタクじゃないんですよ。ここは重要なポイントでしたね。
昔はASDばっかアニメ観てたのに最近逆転してきたの、アニメの脚本レベルが上がってASDに理解できなくなってるんじゃないかな。基本的にASDは物語を楽しめないし、ごっこ遊びをしないのに、アニメは何故か彼らが楽しめたわけだが。
下手な小説も、ASDの世界観も、「自分と全キャラの距離が均等に配置されてしまい、自分以外のキャラ間のやりとりがない」わけだが、昔のアニメでは一般的だったのに最近は全然見かけない
「正直ベース」ってなに???
嘘つきボーカルと無口なドラムでも控えてるの???
コレも正しいし痛いくらいに分かってるんだけど。
前に某OVAのシナリオやった時、場面で見せようとしたら監督らから『尺が限られてるからナレーションで世界観をざっと説明して』と言われ、それを書いたら、辛口批評でブイブイ言わせてた某氏に『脚本がクソ』とか言われたのがトラウマ。
これ、油断すると母親を舐めるって思ってたんだよね僕も。ところが父子家庭になったら父親(僕)をバリバリ舐めてくる。どうやら「日常的にお世話してくれる人」を「それを普通のこと」のように捉えてしまうのだと思い知った
しっかりぶつかったけど結局、理解しだしたのはひとり暮らし後だったな
裁縫セットの注文書、そろそろ反抗期の息子が「これ」って放り投げるように渡してきたから「コレじゃねえんだよ!!!どれでもいいってんならお母さんがフリフリハートのやつ選ぶが文句言うなよ!!!」って瞬間的にキレたら慌ててプーマ選んでた
わかる〜
うちも、主なケア要因たるオットに対して、息子がなめた態度にでる...
なので、わたしがついったーでさらされる「なにこのクソ母!?」みたいな叱り方するときある......
自分でもアレって思いつつ、そこに着地するしかない時が間違いなくあるんすよね...
自分が聖人な訳もないし...
子側が、通り魔みたいな暴力をふるってくる場合があるからね...そこ折らないと話ができないときもある......その辺はほんと、タイプによるんだなあと...(わたしと息子はそのあたりがそっくり...
似てる...精神が暴力的なタイプ......)
僕も時折内なる北関東ヤンキーが顔を...