2024/3/26-2024/3/31
▷@rashita2 「メモやノートは「歌」に入りますか?」 つまり、他人に歌いかけたり、あるいは公開されていることで誤配が起こらないような制作であっても。
それはそうと、市井の人として生きる上で「歌を詠む」(それに類することを含む)を日常的に挟み込んでいくのって結構たいせつなことなのかもしれないな、とちょっと思います。
広義にいうと「つくること」なんだけども、あるものから間接的に、一方で言葉そのものを直接的につくるという感覚。
▷昨日だかに、「PS2フィルタ」というようなトレンドワードがあって、「若い人って、PS2の時代にもう生まれてるんだっけ?」と思ったけど、発売日と同日に生まれた人で、いま24歳くらいなわけか。
▷なんで、青空を背景にみんなでジャンプ、って、こんなに「青春」をメタ情報として惹起するんだろうな…… (それが被写体そのもののイメージと衝突しているセンスはナイスですが)
▷RT @Hobby_Log: 「ハンチョウ」最新刊18巻の表紙できららジャンプ hobbylog.jp/archives/10815… pic.twitter.com/Wfno1o22XZ
▷デジタルオブジェクトで、それがテキストとして保持されているのに、そのデータが簡便にコピペできないの、退化しているでしょう! 作業運用として。
▷あと、これはWebストレージのUIに関する部分なんだけど、「画面内の全フォルダ名の一覧」「ファイル名の一覧」をテキスト形式のリストとして簡単に抽出できるようにしておいてください。(できれば、それぞれの内部へのURLが組み込まれたハイパーテクスト型との選択式で)
▷Windowsのファイラ(エクスプローラ)でも、オンラインのストレージサービスでもそうなんだけど、「フォルダ構造のみコピーして貼り付け」というコマンドを実装できないものだろうか。 「コピー元としての、名前のついた空フォルダの束であるフォルダ」を、一つ別に残す運用、私は自然な認知に沿わない
RT▷いわゆる民間は年間の仕事量のピーク時にあわせて設備や人員を抱えることはしない。だけど、国がやるシステムは違うのよ。ピーク時にも耐えられるようにしないと意味ないのよ。
▷幹部が失敗したくないのか、共同体は乱されたくないと願うからなのか、組織思想は純化しようとするものだからなのか。
▷そういえば、ドラゴンボールに戦闘力ってあったけど、キン肉マンにも2000万パワーズとかあったよね。
これ正しいんだけど、これの弊害として「新人をいちいち俺の仕事時間をつかって育てる必要ない。僕の給料と時間だけが大切」「社員が困ってても助けない。自分で何とかしな」「有給取りたいけど、仕事変わってくれる社員なんていない」なんだけど若い子それを理解してない子多いからなあ。
今の若者が望んでいる職場「ビジネスライクな職場です」「基本的にドライです」「野心や理想はいりません」「あなたの能力を発揮して給料分働いてください」「飲み会などのイベントは企画しません」「プライベートで何をして...
きらら系のOPでよくあるこのシーンが「きららジャンプ」と命名されたようだけど、映像だけじゃなくて歌詞もジャンプしてるよねw
けいおん「Jumping Now」
ゆゆ式「せーのっ!で飛び出した」きんモザ「3,2.1ジャンプ!」
政治不信と無関心の増大に対し、通常期待される市民の政治参加と共に、「非行動」即ち「観客」として政治の「劇場」を観察し、思考力と判断力を鍛える営みを高く評価したように、アーレントの政治思想は重層的なのだ。
ニシンのパイでも見て元気出すか。
T=11.0010010
0001111110110
10101000100……
二進のπじゃない
私そのπ嫌いなのよね
全然困ってなかったです
大丈夫って思っていたので。人工的な感謝をじぶんにねじ込まなかったのりさんの心の体力、スバラシイです
事業においては借入とか外注とか新サービスリリースとか、それが何であるのかは知っていても自分がまだやったことがなければ不安でなかなか乗り出せない。
無借金経営の方がいい、自分でやった方が速い、今から始めるのは出遅れ感がハンパない、みたいな理由で。
どうにかして一度やってみることができれば、使える武器が増え、以降はまさに「その手がある」ということでフレキシブルに戦えるようになる。
ゲームでいえば「実績解除」。
一方で、末さんも書かれているとおり、依存しやすくもなってしまう。
例えば「困ったら借りればいいか」というモラルハザード。
人間は「その手があると知っている」と、その選択肢が常に頭の中をよぎるようになります。以前、SNSで一度離婚すると「離婚できる」という選択肢が頭をよぎり続けるんだと書かれていましたが、なるほどなあととても感銘を受けました。
人間が何かを選択するのは、感情の解消であり、感情の獲得だとも言えます。
人生は悪感情の解消方法を知る旅でもあります。子供の時はイライラしても、お菓子を食べるとか、人にたるとか、ゲームや漫画にハマるとか、そんな解消方法しか知りません。選択肢がないわけです。
大人はそうではありません。多様で、大量な感情の解消方法があります。酒、ギャンブル、性、SNS、手軽な感情解消方法(正確には解消というよりもその場しのぎも多いですが)があります。しかも、それがビジネスになっている。
一旦この手段で感情が解消できるのだと脳が学習すると、感情と解決方法が結びつきます。そして、反射的にその手段を選ぶようになると、それは依存症になっていきます。
戦争反対」が政治的なのではなく、「自分たちは戦争に反対だけど、あいつらは戦争がしたいんだ」という嘘をつく為のスローガンとして悪用する事が政治的なんだと思うよ。
我ながら雑.....
でも、これが今のところいちばん使いやすい。
スケジュール系は別のツールに落とし込むので無い。
構造化メモツールが主用途。
最近はそれにAIとの問答アーカイブを添えたりもしている。
構造化では失われがちな思考の道筋ログ代わり。
ここは難しい問題だなあ。文学は言葉の芸術でもあり、言葉が洗練されると小さくなりがちに思う。
純文学はつねに時代の集合的な無意識を反映すると思うけど、21世紀に入ってからの小説の「スケールの小ささ」は、ある意味では「歴史の終わり」以後の状況を示しているように自分には思える。ちなみに小説におけるスケールが小さい・大きいは、質が高い・低いというのとは別の話。
自分でなんで左右別に動くんだろうと思った瞬間はずします。
そう言えば、「エリーゼのために」はけっこう片手ごとなんで、なるほどと思った。
「学歴詐称する人は例外なくヤバい」というのが僕の持論なんですが、最近は「SNSでブロックされた際わざわざスクショ撮って『ブロックされた!』と自分のTLでフォロワーにアピールする人の中には、高い確率でヤバい人が混じっている」と思っていて、せっかくなのでその知見SNSに共有しておきますね。
マイノリティをどう考えるかが非常に大事なのはマジョリティが相対的に重要ではないからではなく、マイノリティの取り扱いがマジョリティの輪郭を形成するから
たとえば離島の扱いなどもそう。辺境を疎かにすると国の形が曖昧になって消えてゆく
在外邦人、一度はなってみるといい、それくらい制度から無視されるから...。法学研究者が一度は海外で研究することを推奨されるのは現地の文化も含めて知らないと比較法ができないからだが、一度マイノリティを経験すると社会制度への見方が変わるのもあるかと。当該外国でだけでなく在外邦人としても。
僕は専門以外の学位に挑むよ。芸術学。
10代のころ芸術家になりたかった。諦めたつもりだったが、もう諦めるのも諦めた。
何かが徐々にではなく突然起きる。すると人はそのどこかに注意を集中させるわけだが、その箇所が適切な箇所であるとは限らない。だからこそ、階層を上がることには意味がある。
まあ、本当はこの頃から日本の「帝国主義化」はバリバリあったわけだし、ヨーロッパ、アメリカも含めてひどいものだったわけで、本当は今と変わらないのかもしれないけれど。
なんかさあ夏目漱石とか芥川とか、そういう昔の小説読むと、「ああ、この頃は気候変動も無いし核兵器も無いし、第二次大戦さえ始まってないんだなあ」みたいな、逆にSFを読んでいるような気持ちになって切なくなるんだけど。
今がダークSFの様な世界になってしまった、という事か。
超個人的に思う「タイピングミス四天王」を勝手にまとめました
辞書登録、しておいたほうがいいですね...
おねぎあ
もんぢあ
ブログとかTwitterが、収益を得るところからかけ離れていた頃から関わり、その楽しさや意義を味わえたのは幸せだった。
好きだから続けている人に、そうでない人はかなわない。業(ぎょう)ではなく業(ごう)だな、と時々思う。
もちろん二次文献を学びそれに親しむようになるというのは、特定の解釈史を血肉化することでもあり、テクストそのものの読みの可能性を狭まる作業でもある。だから、もしかしたら本当の意味でのテクストの真摯な読みを放棄していることなのかもしれない。なので、あくまで研究として読む場合の話。
また、その解釈が業界的にどんな立場なのかを知ることも大事だったりする。たとえばこの研究書はA
の立場で書かれているけど、それは〇〇研究で少数派で、研究書を教えてくれた人が少数派の立場の人だったとか。でも最終的には違った学説も知っていけるので、入り口としてそこまで問題ないかなと思う。
古典テクストを読むとき、少なくとも研究として読むなら、基本的に二次文献は必須だと思う。一次文献だけ読んでいると、そのテクストがそもそも何を問題にしているのかということが分かりにくかったりする(この難易度は時代によって違うかも)。標準的なテクストの読み方をまず理解するのが大事
あとはOxfordやCambridgeなどから出版されているその分野にかんする概説論集などを読めばかなり研究史の見通しは立ってくる。あとSEPはその研究
シーンで標準的とされているテクストの訂版を知るには無茶苦茶役に立つ。
何事にも先達はあらまほしきかな、なんだけど、つねにその分野の専門家に定評のある研究書を聞ける環境にあるわけでもない。そういうときはStanford Encyclopedia of Philosophyの該当項目をパッと読み、そこで紹介されている二次文献を参考にする。
人の処分をはじめ、色々なことを判断する時に「ネットを全く見てない人」の声を必ず聴くようにした方がよいということになっていったりして。
実力で抜きん出たものを留保なくリスペクトする表のアメリカと、英語喋れん奴に対するデフォルトの不感という裏のアメリカがせめぎ合ってる感じがありますね、大谷現地報道。
明らかに大事件なのにネットではさほど騒がれないこともあれば、その逆に、本来大したことではないのにネットでは何日にもわたる大炎上になることもある。ただし炎上が収まると急速に忘れられるので、ネット炎上をリアル世界での実質的処分理由にするとあとあとからはいかにもおかしな判断に見える。
政治とは昨日の敵を今日の友に変えていく技術の巧拙だと思っているので、昨日の友を今日の敵に変えてしまうことにもっぱら長けている集団の政治的将来は暗いのではとしか。
大学生の課外・学外活動の不始末を大学が謝罪するのがここまで一般化すると、大学でも中学生並みに
(一般社会で成人が許されてるよりも狭い範囲の自由しか享受できない)「校則」みたいものを課してその遵守を求めるみたいなことになっていきそうだな。大学の「ガッコウ」化の行き着く先。
大学もこの種のコメントで良いのでは感→「事実確認や見解をたずねるため、Xの投稿内容や店の主張を南海電鉄に伝えたところ、同社は「Xの投稿の件について内容は把握しておりますが、業務外の事象と認識していますので、コメントは差し控えさせていただきます」と回答した」
山口先生のポストについてるリプライの数々に、野党共闘失敗の根本的原因が凝縮されている感がある。
自分がやっているメルマガは、真面目というのではないし、硬派とも呼びがたく、高尚さとはかなりの距離があるにしても、知的生産の技術について真剣に考え続けているメルマガだという感覚はあります。
政治家というのは何でもとりあえず言っておくもので、その言はに足らず、言ったことよりやったこと、とりわけ「他にとりうる選択肢を捨て、多くの犠牲を払い、なおかつやりとげようとする政策、それだけが彼の政策」という北岡伸一『後藤新平』の一節は政党にも完璧に妥するだろうと思うのです。
「このハゲ親父!」くらい気軽に言えた方が良い社会なのではないかという気がするが、現状たしかにどんどん「なぜ他は許されないのにそれだけが許されてるの?」感が強まっていってるのは疑いないのよな。
不作為を罰するには、特定の作為があればその結果が確かに防がれただろうという蓋然性の高さが肝心だと思うのだが、本件、仮にこまめに指導していたとしてもどうだったかなという感じが漂うのがまことに厳しい。
これはその通りで、結党初に政治学者たちがよく指摘していたのは、公明党の政策や綱領はその時の「耳心地の良いワード」のつぎはぎ感が強いということでしたね。その後の歴史のなかで「平和の党」としての自意識はそれなりに定着・成熟してきただろうとも思いますが。
是と政党の関係は難しくて、「自民党は憲法改正を結党以来の是にしている」は嘘ではないわけですが、本気で改正を目指している時期はそんなに多くはなく、「なんとしても政権の座を離さない」と
いうその本願に背くと見るや党是を弊履の如く捨て
去って恥じないでしょう。そこが強さであるのですが。
見方を変えれば、常に自分を実際より賢く見せなきや行けない社会的圧力が相対的に軽い社会ということでもあると思うが。
三流大学はともかく、不知や無知や馬鹿を自分の行為の免責理由にあげるというパターン、本邦の若者には実によく見られることは教育関係者には周知だと思うが、これって他国と比較してどうなんだろう。馬鹿を自称することが相対的に低リスクである社会という気がなんとなくするんだけど。
孟子のいう「自暴自棄」って割と重い言葉で、「まあ、救えないですね......」って感じなんだけど、本邦の場合は割とデフォルト設定が「自暴自棄」寄りの人が多めというか。ヘラヘラしたカジュアルな自暴自棄の人、見つけるのはそう難しく無いんですよね。これは昔から。
権威主義下ではわかっててもバカのふりしてはいはいと相手のいうことを聞いていた方が人生は楽そうですよね。人のいうことを聞いて生きる方が「気持ち的に」説明責任や応答責任から逃れられる感覚があって、自分を責めなくて済むことに魅力を感じるのではないかとみます。
このような意識が内面化される結果、人のいうことを穏便に聞いて生きてきたのに自分の行為の責任を問われても「申し訳ありません、私は不知や無知や馬鹿でして・・」と免責を求める態度となるのは自然ではないのか。そうした若者の何が悪いのかを論証し教育するのはかなり大変な作業になると思います。
美は作品を含む全体の作用と見てもよいのに、いつのまにか、美術作品という対象があり、そこにあたかも美が封じられているような前提になった。
このところ、ぼんやりしてると、何故、美術は美術作品として対象化されたかを、自動的に考えている。20世紀の前衛芸術はこれのアンチテーゼだったはずなのに。
『豊饒の海」は美の超越性と俗悪なるものの、神々の闘争みたいなもんで、最後に作者という意識の俗悪性を抹殺するしか、超越性(不死)が維持できず、まあ、自決した。ある意味、とても単純なことだった。
映画や演劇のインティマシーコーディネート的なもの、つらつら考えるに最後は悪役を演じる役者へのケアに行き着くだろうなと思っている。「差別者を演じさせられた」ことに伴う精神的苦痛を訴える訴訟が起きるんだろう。もう起きてるかもしれない。
宋代に隆盛した朱子学では明に最上級の評価を与えた。
また一般民衆においても唐代あたりから講談という形で孔明の説話が語られるようになる。
そう言うのを背景に『三国志平話』が生まれ、さらに『三国志演義」が書かれることとなる。
諸葛孔明は同時代においても非常に評価の高い人物で、死後は早い段階で伝説化している。続く晋の武帝・司馬炎からも高く評価されていた。
さらに普が北部を異民族に奪われ、南方に追い込まれると中原回復を目指す蜀漢に自分をなぞらえるように漢正統論が唱えられるようになる
劉備の善性はさておくとしても、諸葛孔明の大衆人気が高すぎて、孔明を悪役にするというのがそもそもあり得なかったというのがあるじゃないかね。
孔明が主軸になるなら、遡って劉備を主人公に物語が始まるというのがまあ至極然の流れかなと
徐州や官渡もそうですが
曹操がそう言った悪評を統制できずに死んでしまったのが一番デカいと思いますね
個人的見解ですが
曹操が悪役の理由
・徐州の大虐〇
・中国で重んじる道徳()よりも、合理的な手段を重んじたこと
・孔子の子孫を首チョンパした
↑多分これが一番大きな要因
筵売りのヤクザが主役の理由
・髭、ハルヒ、パリピ明と言った魅力的な仲間
・皇帝の末裔()
・平民→皇帝までのし上がった
曹操は人格の器っていうの、人の上に立つって面におけるキャパが一般レベルの人がエグいスペックで上の方に祀り上げられちゃった感あるなと個人的に思ってるし、袁紹は逆に頭のネジぶっ飛びすぎてるんだわ
劉備ってやたら人間性について過小評価されがちだけど、曹操や袁紹の伝読んだ後に見るとだいぶバランスの取れた人格してるなと思う
念のため言うけど俺は袁紹も曹操も大好きだし非常の人で英雄だと思ってるよ
純度100%闇の袁紹。あまりにも裏切り食らいすぎて諦観の域の曹操に比べたら劉備は比較的バランス取れてるといわれると確かに。
時々プッツンするとネジ外れる(贅郵への過剰暴行や許への超毒舌など)けど基本はそこまで異常性無い。
陳寿『三国志』の時点で領土や地位欲しさにその孔明ポジを死に追いやったというのが曹操の描かれ方である以上、普通に主役にしたら悪が栄えるという話になってしまうのよね
史実曹操や史実備を知るほど曹操と劉備では劉備
善玉しかないなって思うのではなかろうか
史実劉備を知れば知るほど、なんでこいつが勧善懲悪物語における善の側に属せて、聴衆の同情や共感を誘うことができたのかが甚だ理解できなくなってしまう...
晩年曹操がちょっと酷すぎる老害になっちゃってるのがかなりーかなと。
夏侯に戦下手とか禁の批評や徐晃で大丈夫?や
っぱり俺が行くべきでは......がどうしても主人公ポジションになれない気がする。
これにリポストした前後から、劉備の人柄についての解釈論が、おすすめに頻出するようになった。聖人君子でないとか、実際にも正義漢だったとか。
その辺はどうでもよく、自分にとっては、演義系の創作は劉備の戦の才を評価しないのが不満点。胆力と戦術眼の持つ戦争屋でないとあのキャリアは無理よ。