2024/3/21-2024/3/25
▷日常生活というか家事というか、分岐する要素があるでしょう? 袋の口をハサミで切り捨てて、その中身をどこかにあけるとか。そのときに、中身のほうを連続的に注意を向けると、切り捨てた袋のかけらをゴミ箱に捨てることを忘れちゃうんだよ。そこに出しっぱなしになっちゃう。
▷それで、共用空間をふくめた家が散らかった状態になるわけなんだけど、知るか! そういう注意構造の脳なんだよ! 「忘れずにすぐ何かする」が、できないの!
▷私は姿勢が悪くって、これには「背筋や内臓周りの筋肉に、常に0.1%くらいの神経を通しておいて、動的にバランスさせたり重心を整えるほうが全体として気持ちいい」みたいなことがよく実感できず、「0.1%? んー、よくわからないから0%にします」っていって筋肉を放心させてしまって骨の圧迫で立って
▷いるから、というようなところがある。
▷ところで、似たような内的感覚というのは、姿勢の筋肉に限ったことではなく、自我や思考の神経そのものにもどこかであって、そこが0%になって、100の危機感で外的状況に対処すると、どこか感覚が気持ち悪くなってくる。(こっちは感じると
▷人間がドーパミンに支配されるのなら、ワクワクしないことをやったり、ワクワクすることをキュイーンと来ることをやらなかったりするのは、イドラに対する抵抗になりえる。
▷まあ、享楽に準じることもまた「システムに対する抵抗」なんであり、逆走すりゃ良いってもんでもないのが難しいところだが。
▷Tボーンステーキといえば?
味っ子
カイジ
バキ
JOJO
▷「思考プロセス」を議題にすることそのものは、間違っていないというか、有意味なことだとは思うので、見出しの立てかたはもう少し調整してほしい。
▷「旅先で色々な池や川に出会う。そこに住む魚の生態も違う。それでも、その場その場で“魚の獲り方”を編み出せるようにならないといけない、それが可能な脳内配線になっていないといけない」という指導要領は存在すると思うので。
▷@akizukid こぼれ出る愛嬌
▷自分で作れるご飯のレパートリーや味付けに飽きる、という領域を超えて、なんか「自分で食事を作ると、そのあとそれを食べる行為も作業になってしまう」感じがあって、それはどう説明できるかと考えたときに、「就職活動で落とされた会社の製品は買いたくなくなる」に近い感じなのかなと思った。
▷別に提供される商品やサービスの価値が、就職活動の前後で変わったわけではないのに、その悔しさ感が蘇ってしまう。 それと同じように、任務やタスクとして食事作成を行うと、その準備した食事そのものに「やりたくねー、めんどくせー、逃げられねー」という、作業行為特有の感情が結びついてしまう。
▷どうなのかな、普通の人は、曲がりなりにも「やっとできたー、さあ食べよう!」という食の喜びは、作るという作業を越えた後でも、維持されるものなのだろうか。
▷北陸新幹線、まだ延びるよねそこで終わりじゃないよね、と思って見てみたら、西に海沿いを進んで小浜、そこから南に京都大阪というルートで輪になる予定っぽいね。 琵琶湖北回りルートとも言える。米原に乗り入れて南回りルートでもいいようには見える。地図だけなら。
▷ガンバレンバ
「人間」という観念は、命のリスクを冒してまで他人を助けるには抽象的すぎるからだ。現実に共感の引き金として働いたのは、このひとは同じミラノ人である、同じユトランド人である、同じ職業組合に属している、同じ幼な子を抱える親であるといった「細部への同一化」だったのではないか。(中略)イタリア人がユダヤ人を助けたのは、隣人が同じ幼な子を抱える親だからだった。ゆえに別の単身のユダヤ人は平気で見捨てた。確かにそういうことはあっただろう。けれどもそれは永遠の限界ではない。そこで手を差し延べた経験は、彼らの「わたしたち」の範囲を確実に変えていくからだ。
⇒この「動的」感はとてもよい。
公共性を閉じた共同体(国家)と対立させ、開放性として定義するという齋藤の立論は、じつはそれ自体が、リベラルが保守からこの言葉を奪い返すために行なった企てのひとつだと解釈できる。実際そのあと、公共や公共性といった言葉はすっかりリベラルのものになり、二〇〇九年に誕生した民主党政権は「新しい公共」を政策の柱に掲げるまでになる。
それゆえ、保守が閉じた共同体を好み、リベラルが開かれた公共性を好むという対立そのものも、本当のところは最近つくられたものにすぎないといえる。
⇒言われてみれば、そういう流れがあったんだな。
『人間の条件』という著作の全体は、公と私という二項対立に基づく公共性をめぐる議論と、活動と制作と労働という三項県立に基づく人間的営為をめぐる議論のふたつの柱から成立している。ふたつの論点は必ずしも重ならない。にもかかわらず、アーレントは両者を強引に重ねようとし、活動は公的な領域に開かれた営為で、労働は私的な領域に閉じ込められた営為だという単純な対応を採用したため、
アーレントは公共性を開放性のみで定義したのではない。開放性と持続性によって定義した。開放性としての公共性は活動によって可能になり、持続性としての公共性は制作によって可能になる。
ひとは自分がつくったものに守られて生きている。そのような「工作物」には道具や彫刻のように物理的なものもあれば、法や文学のように抽象的なものもある。いずれにせよ、それらは個人が死んだあとも共通のものとして残る。だから公共性の基盤になる。アーレントはそう考えた。彼女は不死と公共性の関係について、「現世における潜在的な不死性へのこのような超越がないかぎり、いかなる政治も、つまり厳密にいえば、いかなる共通の世界もいかなる公的領域もありえない」と記している
ひとは私的な領域では隠れている。そして公共においてはじめて「現れる」。それこそが人間が人間らしく生きることの根幹だが、そこで「現れる」とは必ずだれかがいる空間のなかに現れるということである。ひとりきりで「現れる」ことはできない。
「現れの空間」が機能するためには、まずは、現実に多数の多様な人々を受け入れている「共通の世界」が用意されていなければならないのだ。具体的には、古代ギリシアの都市国家に必ず併設されていた広場を想像すればよいだろう。広場という空間があり、それを囲む彫像や石碑があるからこそ、ひとは他者と触れあい、歴史を知ることができる。
ひとは自己を開示するが、じつはそのときも自分がなにものであるかは知らないし、どのような「だれ」を暴露することになるのかもまえもって予測することはできない」
⇒このあとに続く論述では、語り手が彼らを批評する、ということが述べられるわけなんだけど、「受け手がどう感じるかを究極のところコントロールすることはできない」というシンプルな反証も存在しうるのではないだろうか?
アーレントは革命の熱狂を評価しなかった。その理想が新しい制度に定着しなければ評価しなかった。同じように開かれた議論があるだけでは満足しなかった。読者や観客がいて、未来に伝えられなければだめだと考えた。
⇒観客も? すごく無責任に聞こえる言葉なのにね。
傾向の弱い人々は、自ら選択したり支配権を握ったりする機会を与えられても、特に意欲を掻き立てられることはない。
中国の農村部で、男性たちに公共財ゲームを用いた実験を行なったところ、寄付金額が最も高くなったのは、自ら票を投じたときではなく、外から「掟」を課せられたときだった。
心理的な面から見ると、権威に従う傾向が強く、支配権を握ることへの欲求が弱い人々は、外から掟を課せられた場合には協力度が高まる一方で、民主的な投票の結果を受けても協力度は高まらなかった。
⇒「自分で決めたという実感を持たせると納得感が高まる」ということすら、一般法則じゃないのか! という驚きとともに、感覚としては分かる気もしちゃう。
雑草で土の状態をチェック
・一番最初に生えてくるのがパイオニアプランツ
・人の手が入っていない荒野に生える
ヒメジョオン、セイタカアワダチソウ、ヨモギ、ススキ、クズ
・養分が少ない酸性土に生えるクローバー、カタバミ、スギナ、ハハコグサ、アザミ、ギシギシ、スイバ、イヌタデ 続く
・ほどほど栄養がある生えてくるツユクサ、スベリヒュ、カラスノエンドウ、アオビユ、シロザ、アカザ、スズメノカタビラ、ノボロギク
栄養価がたくさんあると生えてくるオオイヌノフグリ、ハコベ、ナズナ、ホトケノザ、ヒメオドリコソウ、ハキダメギク 続く
生える草で土壌診断できます
レベル1(荒れ地)
ススキ、セイタカアワダチソウ、ヒメジオン、メ
ヒシバ、エノコログサ、チガヤ、ヨモギなど
レベル 2(やせ地)
スギナ、カタバミ、イヌタデ、ドクダミ、ハハコグサ、レンゲソウ、クローバー、カラスノエンドウなど
↓続きます
レベル3(普通の土)
スベリヒユ、ギシギシ、ツユクサ、シロザ、アカザ、ノボロギクなど
レベル4(肥えた土)
ホトケノザ、ヒメオドリコソウ、ナズナ、ハコベ、オオイヌノフグリなど
ドラクエの勇者だけじゃなくて、土もレベルアップさせましょう
正確には、スマホではなくSNSの普及によって「読解力がない人が目に付くようになった」「文章が書けない人が目立つようになった」ということでしょう。
つまりスマホとSNSによって、インターネットを使う人の数が飛躍的に増えて、以前は文章を書く習慣がなかったような人たちにまで、発信する力がもたらされた。これは情報発信の民主化ですが、同時に文章力がない人や読解力がない人がこれほどまでに社会にはたくさんいるのだ、ということが図らずも明らかになってしまうという副効用(あるいは副作用)があったのです。
どうかなあと少し考えた。
帝国主義時代の英国人は支配もだが、その土地の歴史風土な民衆をよく研究する。それが人類の資産にも、なってる。もちろん、「良いこともした」という文脈でもないが。
米国という国の倫理は、賭博とか(法で許されてなければ)悪いことをしたというのは罪の告白で案外すんなり受け入れてくれるけど、なんであれ、嘘をついたかつかないかという次元になり、嘘となれば、まあ、かなり圧が起きる。
「誰でもいいから殴りたい」だったら矛先が弱者に行くのは別に不自然でも何でもないよな。「何でもいいから何か食べたい」って時に料亭とか入らないでしょ。その辺のコンビニとか吉野家行くでしょ。
「『誰でもいい』なら攻撃対象が完全にランダムなはずだ」という考えの方がむしろ不自然なのでは
意地の悪い言い方をすると、「今を生きる男性諸君、涙を飲んでくれ」なわけなので、男性が不満を吐き出せるくらいの自由は残しておいて欲しいと願う。不満を言う事すら批判する女性研究者を以前見たもので。。。
チー付与のこれ
ネットの標語にしたいくらい金言だわ
他者が
『こうすればいいのに」
と思う時
そこには
できない理由がある
実際、「今のライトノベルは肌に合わないや、昔のラノベが好きだった」という層が現れてきているということは、【ライトノベル文化にも古典尊重が出てくるぐらい、文化的厚みが出来てきた】と寿ぐべき風潮なのです。まぁ大半の人は気付いていないですが。
これが終わったらどんなに楽になるだろうと思う仕事、実際終わってみると、なんか「スン...」ってなって、次行こ次って感じになるんだよな。
植田総裁「マイナス金利は解除しますが、金利は上げず緩和を維持します(家買うなら変動金利有利ってことだよ!伝われ!)」
マスゴミ「金利のある世界へ!日銀の鬼の利上げで 2026年には金利4%!固定金利にする人増えてます!」
アホ「固定金利にしなきゃ(確信)」
植田総裁「ダメだこいつら」
相場でよく言われるが、「儲けるには安く買って高いときに売るだけだけ」。
つまり、されができない。
単純なことは、できると思いがちだが、そうてもないことは多い。
⇒「トヨタで不祥事が起きたから、トヨタ株を買おう」くらいのところで転換しないといけないんだよね、本当はね。
各分野の歴史的経緯をしっかり継承し、時の文脈を復元できる人材を絶やさないようにしなければならない。学部のその役割はいわばコンセルヴァトワールである。その一方で、古代的あるいは未来的な学術のあり方を同時並行で走らせる。後者のためにも、前者を強調する必要がある。
頭の回転が遅く見える人がいる一方で、驚くほどすばやく物事を理解し反応できる人もいます。あるとき「遅く見える」人を観察してみたのですが、彼らは頭の回転が遅いのではなく「そのテーマを考えたことがないだけ」ではないかと思いました。付け加えると、日常で自ら考える癖がない、他人に問われないと考えていないだけとも思いました。
手前味噌ではありますが、自分は他人から「頭の回転が速い」と言われることが多いです。「いや、別に普通でしょ」と思っているし、頭の回転を速めるためのトレーニングも積んでおりません。そんな僕自身を振り返っても、即答できる質問とそうでない質問があります。即答できないものは、やはり時間がかかる。すぐに答えられるものは、事前に考えをめぐらせていたことばかり。そう気づいた時、頭の回転の速さとは日頃から思考を積み重ねているか否かだと理解したのです。
誰だよ?この働き方楽って言ったやつぜんぜんつらいんだが?
1度止めたエンジンをかけることがそんなに容易だって言うのか?
⇒私も、以前は三連休懐疑派だったんだけど、今回はかえってあたまが混乱した。
もっと露骨に数字をあげると、いま出版社のウェブサイトで人文系の文章を掲載したとして、よほどツイッターで読者がついていなければ1000もアクセスがあればいいほうだと思う。それにいくら払うのが妥当か、というのは難しいのです。
息子を見ていると思うけど、子供が何より欲しているのはただ母親とダラダラ過ごす時間だったりするよね。現代の価値観では真っ先に無駄と切り捨てられそうな時間。
同性愛等を「性的退廃」に含めなくなったことについて、「過去の誤りを克服して素晴らしい!」と取るか、「どうせ中央の指令でまたいつでも変わる」と取るかは、党のこれまでの歴史をどう見るかによるのかなという。
とはいえ「中央の指令」がないと立憲みたいに原口
みたいな小物ながら陰謀論をまき散らす有力者に対処できないような事態や、社民党みたいに党機関誌にユーロマイダンをネオナチクーデターと出した後で慌てて取り消す羽目になったりするので、なんかしらの党のlineがないと問題続出なのではないか
引用先の「性的退廃」のなかにかつては同性愛やクイアも含まれていた。
金融業界の細かすぎる・陰湿すぎるルールの数々は全て「大金を目の前にした時の人間の良心はいかに
脆いか」という苦渋を舐めさせられ続けた業界が流した血で書かれている('*)
「頭のいい人だけで街を作りたい」「理系だけで街を作りたい」を実践した国があるぬ
満州国と呼ばれた東洋の夢、いい面だけ見ると本に本国より20、30年は先を行くシステムを作れたから面白い国なんぬ
なお
男性でもゲーム実況配者になれるし、真っ直ぐ線が引けなくてもマンガもイラストも描けるし、音楽のセンスがなくても歌を歌ったり曲を作ったりはできる それらが「できる」ということと「うまくできる」ということと「評価される」ということはそもそも別で、「評価されない=できない」ではない
⇒とはいえ、評価されない、1円にもならないようなことは、そうはやれない。まったくやらないのも、それはそれでよくないだろうけど。
あまり得をせずに生きていこうと決めていて、セールとかクーポンとか積極的には利用しないようにしています(積極的には、なので、たまたまセールだったら普通に買うしピザ食べたい時にたまたまクーポンがあったら普通に出すよ)。お得な税とか投資とかもやらないことに決めてます。
「心がこもった文章はAIに任せよう」と講演で話をしたら、会場は割と笑ってました
我ながらロクでもないことを言ってるなぁ...
・生成AIですぐに取り組めること、具体的な活用事例
・「箇条書き」を「自然な文章」にする、またその逆
・テキストを用いた「感情労働」に該当するもの
・取引先への丁寧なお礼等
・AIがハルシネーションを起こすのは、入力された文章に含まれていない事柄を「常識」に従って補おうとするため、誤った前提に基づいた解答が行われる
・入力の形式を変えるだけのタスクはハルシネーションを起こしづらい
・箇条書き、要約、翻訳、丁寧な文面、など
・情報を含まらせる必要がないテキスト仕事はAIにませたほうが良い
・「感情労働」は情報量が増えていないので、LLM向けのタスク
逆に激情のままにブチギレ文章書いてAIにビジネス文章に書き直しさせるのも非常に精神衛生に良い
この使い方ところてんさんも含め色んな方が提唱してる。そして、星新一も似た発想をしたよう。
ボッコちゃんの中の「肩の上の秘書」に似てると言及してる方が結構いらっしゃる。読んでたしかに。
AIに仕事させるとかでなく、感情労働を代替させるとは、、さすがの先見の明
思いついたばかりのアイデアはキラキラ輝いていてどこから見てもすばらしいように思えるが、実際は狭い範囲の「どこから見ても」にすぎないことが大半。
多くの場合、ツールの登場はそのツールが可能にするものを「democratize」するのですが、ツール自体はそれが生み出す問題に対して「透明」という性質があって、その辺りが燃えてるのかなと思った
「才能の民主化」の話題がどこからきてるのか、インプレゾンビだらけでわからないのですが(教えてくださらなくて結構です)、
英語のDemocratizeには「民主化する」という意味と、「万人にアクセス可能にする」という意味がある一方、日本語の「民主化する」には後者の意味が含まれないんですよね
⇒そういえば、民主主義というかデモクラシーという語は、歴史的には必ずしも良いニュアンスから始まっていないんだっけな。賢人政治、聖人政治に対する衆愚的な意味性を伴っていたはず。
⇒千葉雅也さんが、ちょこちょこそういう問題意識のツイートをしていた気がするな。
■ガルマ
宇宙世紀、ジオン勝利ルートがもしあるとしたら鍵を握るのはガルマなんだよな。
あいつやってたことの本質は地球「連邦」の分断/離断工作だぜ。真っ向勝負で勝てないなら相手を割ればいい。巨体ゆえに内部には様々な思惑がある。
そして存命中はかなり上手くいってた。北米がジオンにつきかけてたんだ
このルート、色々な考察で語られる「ジオンが勝てる訳がない無数の理由」を根底から突き崩すルートなんで、これが潰れたと察したデギンが心折れて老け込んで敗北を認めるような講和に向かったのも納得なんだよな。
デギンは明らかにガルマを使って地球連邦という巨大組織を割ることで勝利するシナリオを第一に置いてたんだよな.......実際、生きてる間は現地の実力者をめちゃくちゃ引き入れてた。夜会こそがガルマの戦場だった。
本人分かってなかったけど。
ガルマ死亡で老け込み、しばらく行動すら起こせなくなるデギンパパ......
ただの溺愛ではない。
「あ、勝ち筋消えた」だ。
ガルマは親衛隊・突撃機動軍・宇宙攻撃軍の3軍全てとの関係性が良い奇跡的な存在で、あいつを神輿にしないとジオンは統一行動取れないんですよ。北米駐屯の地球方面軍司令というどう考えて一番重要なポジションに居たのもそれが理由。ジオンの敗因はガルマの戦死。
ザビ家の中でガルマの一番優れた所は「話せばわかる」と思われる(に見える)点
上にこういう人が1人はいないとその組織はだいたい寿命は短い...
若さ故の未熟さはあれど人の上に立つ資質は兄弟で一番。
分類するなら
・ギレン:行政
・キシリア:司法
・ドズル:軍事
ガルマを象徴としての公王につけてこの体制なら割と回ったかもしれない。仲悪い兄弟たちもガルマがみんな好きだし。(ギレン次第)
実はクロスボーンの貴族主義が一番似合いそう
結局はガルマがザビ家の仲の良くない親族間の緩衝材になってたので、ガルマが失われたことでザビ家の内部崩壊が進むとデギン公王分かっていたので急ぎで講和ルートを選択することに。
おそらくは条件付き講和が成り立ったのでコロニーレーザーで焼かれなければ、もう少し戦後の混乱も少なかったかも
ナチスドイツも大日本帝国も戦争中はGNPは上がっていましたし、戦争中にGDPが上がるというのは当たり前のことで、そして悪い未来しか予想できないですね。
日本やドイツが敗戦後ハイパーインフレになったのは空襲で生産能力が激減していたからで、ロシアのように資源もあり自国通貨で経済が回り、生産能力も消費経済も健在な場合は全然違うことになると思ってます。
むしろウクライナはかなりやばいかと。
序盤
商人「このコインは勇気に反応して光るのさ」
主人公「なるほど」
中盤
主人公「コインが光ってる.....俺はまだ戦える!!」
中盤2
商人「ああ?コイン?あぁ、アレは温めると光るオモチャだよ」
主人公「............」
終盤
商人「おい馬鹿!!逃げるぞ!!」主人公「逃げない。だってまだコインは光ってるからな」
具体例ないけどこういうの好き
「嘘でも救われた」から「嘘でもじる」ってヤツ
金光教も天理教も黒住教も、明治初期は「宗教」だとみなされてなかったし、「神道」でもなかった
(「宗教」概念はまだ成立していない)。それは「病気直し」とでも呼ぶべきものとしてあった。人々は教祖のもとに集い、教祖が伝えられる神々のコトバ
や、禁厩や神水・神米などで「病気直し」をしていた。
幕末に登場した黒住教や金光教や天理教が明治期にどのように変容していったかを辿ると、「宗教」という概念は時代や地域を超えて人間が抱く普遍的な概念では全くなく、近代に新しく創作された概念であることがよくわかるので、以下この問題について少し述べてみたい。
ゆえに、言語化された教義体系を備えていない「病気直し」は「宗教」という枠にあてはまらないものとみなされ、「祠邪教」や「邪教」といった枠に乱暴にぶちこまれることになり、「文明開化」という名の抑圧を逃れるべく、「宗教化」し「神道化」していくことを強いられることになったのである。
「病気直し」の場に現れる神々も、関係的なはたらきであって、近現代人が考えるような「存在するかどうか」が問われる存在などではなく、神と人、人と人のあいだで「はたらくかどうか」が問われるものだったのである。
教祖たちの「病気直し」によって回復した人々は、今度は神々を媒介する者同士の新しい共同体(金光教で言う「神代」)を実現していくことになる。
「病気直し」は、自立した「個人」の病気が治るという話ではなく、共同体の刷新(天理教で言う直り」)をもたらすものとして実践されてい
卒業式の日だから公園に中学生が屯していてうるさいのだが、まあ、これが最後だからなあ。成人式も会えて半分。たとえ会えてももう雰囲気が違うし。
おっちゃんもここら辺が地元だからなんとなく分かる。地元の仲間が揃うことはもうないんよな。
当てずっぽうにも上手い下手があることを全く認めないのも、確実な知見によって言える範囲があることを認めないのも、あまり健全な態度とは言えないように思います。
現実はある種のてずっぽうで動かざるを得ないところがあり、当てずっぽうの巧拙というのは社会に大きな影響を与えます。他方、どこから当てずっぽうで行くしかないのかを見極めるためには、確実な推論による知見で言える範囲を踏まえている必要がある。そういう分業は可能であると私は考えます。
他者からの依頼をただ全力で引き受けることを実践しはじめてから心が軽い。父関連のことでも以前のように気持ちが乱れにくくなった。世界は以前と変わらないだろうが、ある意味、自分の解釈で世界は変容し得る。
■Windows
その後、原理主義者は自分たちの世界の境界をkernelと好んで呼ぶようになり、あまりOSという言葉の定義で揉めることもなくなった。というのが傍から見てたOS界隈の様子。というか、OSの研究でlinuxとか使われ出したあたりでも世界が一度変わってた気がする。
あの頃はWindowsはOSじゃないって論調が確かにアカデミアの中にあったな。みんなWindowsについて理解してなかったし。NT以前がモダンOSという括りの住人でなかったのは確かだけど、その後のWindowsは知れば知るほど10年先の技術を使ったシステムだと気付かされるようなものになり。
Win32のすごいところというか、頭おかしいところは、下部のレイヤーをきれいにすげ替えてマイクロカーネルのOSにしてしまったこと。まあ、そう考えると、Wineが出来たのも無然じゃないとも言える。
電源いれて起動OSとしてMS-DOSのHDDのパーティション選ぶと、ひとまずDOSプロンプトが立ち上がる。そこに改めて「win」とするとWindowsが立ち上がっていたような記憶が。そして、Windowsを終了するとDOSプロンプトに戻ってくる。
UNIXはOS。ではX-WindowはOSか?という感じかも。
事業続けながら、負債化したOSを劇的に作り変えるの凄いことなんですよね。
「あの頃はWindowsはOSじゃないって論調が確かにアカデミアの中にあったな。」x.com/toyoshim/statu...すげえな。仮想メモリをサポートレノンプリエンプティブにタスク管理、APIを提供する「OSでない何か」、こんぴーた畑からすると「じゃあ何?」としか。3.1どころか/386時点でOSよねえ
おまけ。
「資本主義が問題ではなく再配分が問題」という考えもあるが、ロールズは、財産所有制民主主義というふうに、政治制度から考えた。
「資本主義は道具にすぎないから使いよう」という意見を見かけた。そういう考えもあるだろうが、マルクスは「制度」と見た。そして、それは本質的に、人間の本質を疎外するものであり、しかも歴史必然で生じたと考えた。
北海道がまるごとソ連下になった可能性はけっこう高かったと思う。
ならなかったのは、運がよかった、かな。冷戦構造が益した。ちなみに、この冷戦構造を決定付けたのが原爆だろうと思う。あれは、戦争の終わりのためより、冷戦構造の始まり。
日本はなぜ、外国侵略から免れたか?
自分の答えは、2つ。運がよかった。侵略されたことを都合よく忘れた。
ちなみに世界史を学ぶといいのは、って、ほとんど外来王だと知ることができる。
ちなみに自分の答え(自信はない)は外来王がなかったから。(実はあるかもとも思うが)
外来王がないと、権力交代の後も下部権力の基本構造(特に土地管理)が同じなので、これ混乱させるのを「うへ一面倒くさー」と日本人創意で思ったから。
「なぜ日本の歴史上の権力者が自ら天皇になろうとしなかったのか」というのは、前提が中国史とか。
実際の日本史における天皇は権力集団の表象(その意味で今も象徴)であって、そもそも天皇が権力の実態機構ではない。
正しい問いは、なぜそのような商標を日本社会は必要としたか?
ネットで陰謀論が多いのは、学校で正解ばかり教えるからではないかな。正解ならいいじゃないかというかもしれないが、正解って、まあきっとそうだろうレベルであって、ちゃんと学問するときちんとした異説や異論は多いもの。
自分は正しいと思って社会的な迷惑を引き起こしてる人をどう扱うか、というと、社会維持の全体コストの枠内なら、放置しておくのが妥当。
創作ノートを捨てる話に反応がもらえてうれしいけど、パラパラ読み返して「箸にも棒にも」と肩をすくめるような記述ばかりなので、今となっては惜しくないのです。
物書きワナビーとしては、還暦を以て新たなワナビーに生まれ変わるのです(それでいいのか)
年取って、「何者にもなれなかった」ことにほっとしてる自分もいる。世の中の評価はそれほど気にしなくていい。できるだけ好きに生きよう。
年取って、世の中に関心を合わせることが減った。
若かったら、時流というかメインストリームの課題を研究するだろうけど今は単に自分の研究するだけ。
新井白石という人は、何者かになった人だが、なかなかつらい人生のように見える。晩年もくじけなかったかもいれない。
シモーヌ・ヴェイユというと、日本では哲学者のSimone Weil(1909-1943) が知られているけれど、フランスでは人工妊娠中絶法をつくった政治家のSimone Veil (1927-2017) の方が有名ね。哲学者のことを話す場合には、la philosophe avecun Wとか云った方がわかりやすいわよ。
「道徳」の教材って、それこそ「思いやり」や「友情」「感謝」みたいな話ばかりなんだけどさ、「social includion」や「protest」の話もちゃんとやろうぜ。
必要なのは「愛国心」や「従順」の押し付けではなくて、「市民性教育」なんだよ。
『嵐が丘』のヒースクリフも結局家と土地を守る装置でもあったなと思った。
『風と共に去りぬ』のヒロイン、スカーレットは文学史上なかなかない精神的クズっぷりを見せながら、女性として家族と家族以外の「無償ケア」を背負わされ、他方旧来の男性家父長としての役割も担わされ「家と土地」を守ります。今「介護小説」として同作を読み直す試みを漠然と考えています。
数年前、批評再生塾の課題だったので読みましたが、鴻巣さんの訳が時の若者言葉を意識して今風に訳されていて、とても読みやすかったです。そして、スカーレットのダメっぷり=逞しさは、先入観だった可憐な女性とはまったくの正反対で驚いた
町の本屋というのは、その地域の人の「あーゆーのが読みたい」と、本屋の「これを読んで欲しい」の関係で成り立つが、それが成り立つ町は、ごくわずかだろう。まず、大学は必要だし。学生文化と文化人生活がないと。
そう言えば、エスカレータもそうだな片側を私が乗ると後ろも載って待ち列が解消される。
書店の検索機の2台並んだ1台が不具合(暴走)してて、もう1台に待ちが生じてるんだが、待ち入らは不具合を直すことに関心なさそう。なので私が店員さんに呼びかけたら、お待ちくださいとは言われたものの無視された。あー、そーいう事態なのかと思ってると別店員が来て暴走機を再起動した。
すると2台の検索機を待ち人たちが使う。なんか、不思議の国に来た感じがしたよ。
電車の中で足組んで迷惑な外国人がいたので、やめて欲しいというと、It's non of your business とか返してきた。まあ、言ってわからない外国人かあと思った。周りはなんとなくばつが悪そうだった。
最近は杖をつかなくなったがまだ関節に不安があるので駅のエレベーターは使うことが多いが、なんのトラブルもなさげな若い一群の人がエレベーターを使っていて、載ると後ろ確認せずさっさと閉める。
あれは何なんだろうか?
まあ、偉そうなこという気はないが、公共空間における市民の応答的な自律性みたいなもんがなくなってゆく気はするな。そう思うのも、自分が老人になったからか。
他方、障碍者に席を譲る光景は頻繁に見る。
そう言えば、二十年くらい前は、電車で大きな声で話す中国人をよく見かけたが、近年はあまりない。
中国人も日本人くらいの小声で話してる。本土でもそうかな?
そう言えば、公共空間で知的障害を見かける機会が減ってる気がする。なんか不思議だ。
なくなってはいない。歩道を自転車で突っ走る人がいて危ないなあと見るに知的障害のようだった。
公空間で不な対応されて、「私は若く見えるかもしれませんが、高齢者なんです」と言ってみようかと妻に言うと、そんなギャグが通じると思ってんのやめなさい、と言われた。
実際時の日本人がキリスト教に改宗したら、祖霊が「神or仏弟子」から「罪人」にクラスチェンジしてしまうバグ、一体どのように乗り越えたのだろうか
日本の宗教は宗教戦争が無かったから理論面が弱いとか言われるが、実際は祖霊信仰のメリットと仏教のメリットだけを抽出して並立させる気が遠くなりそうな作業をこなしてきた実績があるので、けっして教義に関する論争に弱いわけではなく、おそらく類希な狡猾さをそなえていると思うのだ。
三業惑乱の歴史なども面白いですね。高校の歴史とかでは教えてないかもですが。
「私はあなたの意見にいくつかの点で同意できないけれども、なぜ同意できないかを具体的に伝えるとそれ自体であなたを傷つけてしまう事になりかねないので、言いません」みたいなタイプのコミュニーケーションを要求される社会になってきましたね。
「似ている」とか「どっちかというとそっち寄り」というものもどんどん極端な方に寄せてレッテルを貼り、それで論破した気になっていると途端に頭が悪くなる。五十歩百歩の違いをちゃんと認識するのが知性です。
学校に行きたくない子に「行かないでいいよ」と言ってあげる
その次の対応が知りたい
行かないでいいけど、それで???で????
沢山のご意見ありがとうございます
児童心療内科はなかなか予約が取れずつい最近やっと通い始めました。まだ今は待つだけでいいんですね。朝行きしぶりに付き合ってその後遅刻で教室まで連れていく毎日ですが、今はそれでいいと分かりました
これからもずっとこれが続く、または悪化した場合は休ませて家で勉強する手段を考える
そこまで悲観的にならないでいい
世界がこの子のペースに合わせてくれる訳では無いので、このままで大丈夫なのか不安でしたが私がこの子のペースに合わせることにします
行きたくない理由はいじめでは無いです
あとなんかそろそろ湧いてきたのでミュートさせていただきますめ
ブックマークをして行き詰ったらまた見に来ます。
ありがとうございます
「行かない」って自分で決めた日はなーんにも動かなくなっちゃうんだよ...jaあれもこれも勉強だ
から行かない日は夫の職場見学にでも行ってみたら?と思うけど自分なりに休んだ罪悪感があるからそれとも戦っていて内心は忙しそう...
あぁーーーーそうかぁ...罪悪感が...°^
行動することが罪悪感を薄める方向に作用するといいんですけどね
休む言い訳に体調の悪さを使うことが(一般に)多いから、体調が悪いんだから行動したらだめだ的に繋がったりしてるのか...それか単純に学校行けない時は既にメンタル限界だから、とかかなぁ
葬送のフリーレンは、人間に敵対する絶対悪を想定し、しかもそこに言葉の限界を置いている。これが物語の究極でどうなるかは、僕にはまったくわからない。
僕のような呑気な戦後民主主義世代は、絶対悪はないし、言葉は通じあえるものだと、じ込まされてきた。しかし、人生経験として、それに確できるかというと、わからなくなった。
しかも、「善」も「正義」もときとして人を苦しめる。そもそも「善」や「正義」に抗うことも出来ない。だが、それはおかしいと直感に思っている。『進撃の巨人』で「エレン、お前は自由だ」というとき、それは「善」や「正義」からも自由を意味している。
私小説にちゃんと世間が怒り狂う時代が再来したわけなので、自然主義文学の夜明けが近いのかもしれません。
某卒判不正疑惑エッセイ漫画、作者の分身であろう 〈わたし〉が、読者の共感を全く呼ばないタイプのいけすかない奴で、惨めで無様な行動をひたすら取り続ける様を描くというのは、ただしく私小説以来の伝統であろうなと思った...
某卒判不正疑惑エッセイ漫画、作者の分身であるう〈わたし〉が、読者の共感を全く呼ばないタイプのいけすかない奴で、惨めで無様な行動をひたすら取り続ける様を描くというのは、ただしく私小説以来の伝統であるうなと思った次第。
ちびまる子ちゃんも実は半分くらいはそれでできてる。
人に利用されたくない、というのは「低いプライドが高い」んです。
「低いプライドが高い」というのはうちの親父の言葉。そうなるなよ、と中学のときに言われた。
昨日は従弟とホテルに泊まった。少し距離をおく時間が必要だと思った。ただ巻き込まれるのが誠実さだとは僕は思わない。各人が自分を守る必要がある。ホテルの朝食を食べたいと思った。ホテルのバイキングは家族の時間だから。