2024/3/16-2024/3/20
▷そういえば、海と瞑想の比喩でいうなら、「瞑想を始めて、海面の上の嵐から離れると、それまで深海に蓄えられていた不安や汚い感情がぶくんぶくんと、泡のように浮き上がって怖くなるフェーズが一段階、挟まることがあるんだよね。それをやり過ごしていくと、だんだん水がきれいになってきます。
▷@norixnori 瞑想が、意識を感謝の方へフォーカスさせていくわけじゃなく、海面の嵐が鎮まると、海の底には実はちゃんと綺麗な魚がおりました、って感じかな?
ひとくちの政治論(非徳治)
▷「民度以上の政治を持つことができない」 みたいな言い方があるけど、 「民度以上の議会を持ってはならない」 という言い方もできてしまいそうだ。
▷社会が歪んでいる場合、同じ方向に同じ強度で、国会は濁っている必要がある、正しく社会の縮図になっている必要があるのではないか、という仮説。
⇒まあ、大臣クラスはまた別かもしれないけど。「人の上に立つ者は〜 」という、東洋思想的な考え方や、リーダーシップ論がすべてとは言えない。
▷同じ意味合いで、金にがめつい人も、しがらみや泣き落としなどの情や人間関係に流されがちだという人も、同じようにいる必要があるんだろう。
⇒性にだらしない人や、小心者で保身に走るような人も。
▷変に厳しい政策を考えてしまったり、対策が穴だらけになってしまうかもしれない。 「甘いものって、ついつい手が伸びちゃうよね〜」という人が国民にいるのと同じ比率で、議会にサンプリングされている必要がある。
▷私は食に執着ないし、体質的に痩せやすいし、もともと少食だし、筋トレも継続できる。 でも、たとえばそういう人が国会議員471人を占めてしまうとあとで困ったことになりそうだ。
▷あたまん中、感情で大いそがしだよ!
▷世間話で他人を捕まえちゃう人って、「自分という境遇と立場で、自分という体に、自分の意識が入っている」というだけじゃ退屈というか暇だ、ということなのかなー。
▷他人をじろじろ見るのは失礼 ↓ 私生活を詮索するもんじゃない の派生バージョンで ↓ 関心を持つのは失礼 みたいな内的感覚って、ないですかね。そうですか。
▷みたいなことを、朝、「アップルパイ」に関連するポストを読むなかで、いろいろ頭に浮かんできたので、自分へのメモ代わりに。
▷所持品に言及するなら、 「それいいね、新しいやつ?」 って、最初に肯定の旗色を示しちゃってほしいし、 「今の生活で十分だけど、たまにテレビで見ると憧れるよね」的な但し書きを言葉で聞いておきたい。
▷あと、世間話の初手って、結構被害妄想入るんだよね、私。 新しい服着てて、「それ新しいやつ?」って言われたら被害妄想入るし、 テレビ見てて、妻が「素敵ね〜」って言ってるの聞いたら被害妄想入る。
▷だから「この前、○○があってさ」とかだと、「ほう」とか「ふん?」とか「はあ」とかそんなリアクションになってしまう。 そして、自分からの身の上話はまずしない。愚痴なんて言っても仕方ないしね。
⇒生返事には聞こえないように気をつけたい。
▷リアクションもたぶん、基本薄い。 「あ、ここがオチだったのか」というところでは、「なるほど〜!!」と強めに反応したいと思うけど、そこまでのアップダウン・紆余曲折にうまく乗れないんだよね。腰を折りそうで。
▷私は、「寒くない?」って言われて窓閉めないけど、沈黙を気まずいと思ってても、それを埋めるための話題探しも質問もしなかったりで、本当、音声会話(というか拘束時間・共有時間会話)向いてないというか、申し訳なくなるな。
▷RT @thithi075: 話す事なさすぎて、ただ目についた事をただ口に出すしかなくなることよくある。あの家の屋根青いね。とか、鳩がいるね。とかは、キーワードやるから何か話し広げてくれ!助けて!であって、テーブルのパイとか言われたら、食べたいのかな?の前に私の話はつまらないのかな?を先ず疑ってしまうわ。 twitter.com/mamechaaaaaaa/…
▷RT @kipikumin: でっかい独り言と捉えられるのは少々ニュアンスが違う。髪型変わったら褒めろって言うやん。今までなかったアップルパイが存在したら「美味しそうなアップルパイだね」って言う。え、欲しいかどうかは違わない?それとも「その髪型かわいいね」って言ったら「私にもやってくれよ」って捉えられるの…?
▷RT @Milky_Mark_: 不安な民なので目に見えたものを確認の共有をしたいのだ 「美味しそうな」 (私には美味しそうに見えるけどあなたにも美味しそうに見えてるかなどう見えてるかな) 「アップルパイがあるね」 (これってアップルパイだよね?パンかな?てかリンゴかな?) これに「そうだね」が返ってくると安心する twitter.com/mamechaaaaaaa/…
▷RT の並列リツイまで含めて面白すぎる。
▷RT @anpirika: 多分だけど日本語は 客観→主観 抽象→具体 の順に言うから 「あのアップルパイ美味しそうだね(主観)」で終わるのは自然だけど 「美味しそうなアップルパイがあるね(客観)」だと「食べたい(主観)」と続くように感じるんだよな
▷@norixnori まあなんか、簡単な本を読んだり自分でやったりはしてたですよね。シュルツの自律訓練法(だっけ?)の「自己暗示」とかに、オカルトっぽいルートで入っていってたりとか。90年代はそういうのがなくもなかったので。
ウヨクとサヨク■
▷妻さんが、ちょっと前に、「職場の近くに街宣車が通ってうるさかった」みたいな話をしてくれてたときに、「ウヨク? サヨクだっけ? の車が来てさ」みたいな切り出しかたをしていて。
▷一般の人の感覚としては、「極端なものは同じに見える」どころか、そもそも「右/左という分法」自体に馴染みがなさそうってことがわかる。 「ウヨクが天皇なんだっけ?」とも言っていたので、
▷あの拡声器が、なんの政治的主張をしているのか、右翼と呼ばれているのか左翼と呼ばれているのかも認知されず、ただ「先鋭化していて、行動を迷惑なものを含めてしてしまう、ヤバくて怖い人達」としてしか知ってもらえていないという、彼らからしたら脱力的状態。
▷「しばらく会わないうちに、親がネトウヨになっていた」みたいなことも妻さんは怖いらしく、「この間も“安倍さんの国葬反対デモ”に参加しようとしていたらしくて」みたいなことを話してくれたんだけど。うん、それ右じゃないね。
▷(しかしまあ、妻さんはごく一般的な感覚として、「弱い人、困っている人が助けられるといいのに」「庶民の怒りだ!」「軍国主義や原発って怖いよね」という感覚があるから、偏りや嗜好性がまったくないわけでもないんだけど)
▷このあたりの、「生活感から離れて先鋭化したり、思想を他人に対して行動に移すこと」をヤバい、隣人として怖い、と感じる感覚は、すごく日本教的だと感じるし、日本は宗教国家、ではないにしても「善意支配の国家」だなあ、ってことは思ったりする。
▷たぶん、外国における政党支持や宗教コミュニティってのは、地域共同体や職能ギルドなんかと同じく、「そこに所属していかないと相互扶助にら組み入れてもらえない、食い扶持を稼ぐ方策が身に付かないから、入らないわけにいかない」ものだと思うんですよね。そういうものを日本人が嫌う・恐れると
▷いうことは、つまり「目の前の相手の心情や空気に合わせることに全振りしろよ」という教義があり、そういう同調圧力そのものをメタな教義にした生活共同体が、生活そのものについてはほぼなんとかしてくれる、からこそそういうものが入り込まないのだ、ということを考察できる気がする。
▷ニトリって、広さの割にはワクワクしないよね。
▷そういえば、scrapboxの新機能って、ある意味「Roam的抽出」の、sc的実装ということになるのだろうか?
社会的ニッチの数が減り始めたとしよう。選択肢が減ってくると、外向的でかつ神経症傾向の強い人に適したニッチ(映画スターなど)ゃ、内向的でかつ冒険心旺盛な人に適したニッチ(フィールドワークを行なう霊長類学者など)はもはや存在しなくなる可能性がある。こうして社会的ニッチの数が減っていくと、既存のパーソナリティ特性間の相関がしだいに高くなっていくだろう。なぜなら、ニッチやスペシャリストの数が減ると、誰もがみなジェネラリストに近づかねばならず、
⇒個性とか選択なんてものは、結局は規模によって支えられている。
チマネ族のデータからは、二つのパーソナリティ特性しか認められなかった。
生産活動に精を出して狩猟や機織りのようなスキルに磨きをかけるか、あるいは、濃厚な人間関係のネットワークを構築するために時間と精力を注ぐかすればいい
⇒男らしさと女らしさみたいなことだね。二分法。
⇒ただ、そういう社会であろうと、「落ち着きがない」とか「不安を感じやすい」とかの脳特性はあると思うんだけどね。それは単に能力として「欠陥」とか「才能」ということになってしまうのかな。「絶対音感」みたいに。
個々人が、持って生まれた特性にぴったり合う社会的役割、人間関係、職業を選び取る自由度が増したのである。時が経つにつれて人々は、自分にとって最も重要な資質に特化し、それを際立たせるようになっていった。
こうしたプロセスのコンピューター・シミュレーション結果から示唆されるのは、このような社会的・経済的な発展によって、個々人が異なる社会的ニッチや職業に専門分化していくにつれて、ますます多様な個人属性が生み出されたであろう、ということだ。言い換えるならば、はっきりと異なるパーソナリティ特性の数が増え始めたことだろう
⇒増加との相互作用。
人々は、当時増え続けていた団体やギルドに加入し、見習い期間を経て、さまざまな仕事に就くことができるようになった。
⇒結局、人はスキルを身に付けなければ生きていけないし、取引先を見つけるか引き継がなければ、やはり生きていけない。それが原始的な社会では氏族に閉じた機能だったし、発展した後も、徒弟制やギルドに所属することが必要で、そういったことも人々が共同体を求める原動力になっていたのだろう。
狩猟採集だけで生活しているが、そのようなハッザ族は、基本的に合理的に行動し、ほぼ五〇%の確率でライターを交換した。一方、市場統合が進んでいるハッザ族は、矢や弓やヘッドバンドを自然体験観光客に売って生計を立てるようになっているが、コーレンがそのようなハッザ族で実験を行なうと、参加者たちは七四%の確率で元のライターを所持し続けた。
これは驚くべき結果である。市場統合がほとんどなされていない狩猟採集民は、授かり効果を示さないのに、
⇒「すでに持っているものを手放すことを嫌う傾向性について。あれ、市場主義なのか。いやでも、常に村全体で分け合っていたら、「自分の持分」という意識は育たないか。そうか。
一定の侵すべからざる権利を賦与されており、その中には、生命、自由、および幸福を追求する権利が含まれている」。人間にそのような抽象的なものが賦与されていると聞いて、確かにそのとおりだと思うならば、若干WEIRDであることは間違いない。「侵すべからざる権利」という主張を自明のことだと思えるのは、次のような人間だ。@物事を(関係性や出自ではなく)内なる永続的な属性に照らして、分析的に説明したり理由づけたりする傾向がある。b.別個のカテゴリーや階級(「地主」「人類」など)にも広く適用される公平なルールを好む。
しかし、人類のほとんどの共同体に暮らす人々にとっては、各人が、社会関係や先祖伝来のものとは切り離された固有の権利や特権をもっている、という考えは自明なものとは言えない。
⇒やっぱり、「人権」に普遍性なんてないよね。
合意さえあれば、その他の儀式は何もせずとも、効力を有する神聖な婚姻が成立するようになった。契約法においては、口約束であっても、拘束力のある義務が生じるようになった。つまり奥約者の意図が重視されるようになったのだ。刑法においても
たとえば、鍛冶屋はその翌週に(毒を盛って)助手を殺害するつもりだったのだが、強盗だと勘違いして、図らずもその前にハンマーで殺してしまった場合はどうなのか?鍛冶屋が有罪かどうかは、その時どんな精神状態にあったかによって変わってくると彼らは判断した。
研究チームは、行為それ自体(殴打)とその結果(鼻血)を一定にしたまま、次のような五つの軽減要因について探った。加害者は①正当防衛だった。②状況を誤認していた。③移住してきたばかりの共同体で、道義的責任の認識に齟齬があった。④精神に異常をきたしていた。⑤必要に迫られた行為だった。二番目の状況(状況の誤認)では、加害者は攻撃行為を止めに入るつもりだったのだが、「闘っている」人たちは実はふざけているだけだっだ。三番目の状況(道義的責任の認識違い)では、加害者は、根性のない若者を殴って鍛え上げることこそが、尊敬に値する正しい行為だと考えられている社会の出身者だった。五番目の状況(緊急性)では、加害者は、危険な火を消すためにバケツの水を取りに行かねばならないのに、人がごったがえす騒々しい部屋の中で、行く手を阻む男を片付けないと手遅れになりそうだった。
調を行なった一〇の集団のすべてにおいて、正当防衛と緊急性は重要な軽減要因だと認識された。したがって、精神状態を全く無視する者はいなかった。しかし、一部の社会では、考慮されたのはこれだけで、状況誤認や精神異常といった事情は一切動酸されなかった。
それとは全く逆に、ロサンゼルスに暮らすWEIRDな人々は、
正当防衛と緊急性であり、それに次ぐのが状況誤認、その次が精神異常だった。興味深いことに、WEIRDな人々は、道義的責任の認識違いをしている加害者に対して、より厳しい裁きを下した。つまり、相手を故意に殴って自分は正しいことをしたと思っている者は、故意に殴って間違ったことをしたと思っている者よりもたちが悪いということのようだ。
⇒私は「反省」を重視する裁判が嫌いで、それを「前時代的」と感じるけれど、実はむしろ、近代的なのかもしれない。
多くの社会では、調和を取り戻して平和を維持するために法が存在しているのであって、分析的傾向の強い人々が考えるように、個人の権利を守り、抽象的な「正義」の原則を貫くために法が存在しているわけではないのだ。
⇒即物的に言って、本質は治安と調停だよな。個々人の自由や愚行権を認めていくと、取り締まりの目や手の及ばないところがでてきて、そこが公的コストとの兼ね合いになるから。高い理想を法律に求めても仕方がない。
中世の法学者は、神聖で普遍的な法ー神の法ーを大前提にして、そこから結論を導き出しているのだと考えていた。そのような法が(どこか彼方に)存在しており、それを見つけ出すのが学者の務めだと信じていた。ということはつまり、中世の支配者たちは、ゲルマン法やローマ法の時代の支配者たちとは違い、その法の支配下に置かれることになった。大法は、どんな皇帝、国王、王族よりも高位の権威に由来するものであった。こうした考え方は、プロトWEIRD心理をもつキリスト教徒にとって直感的にわかるものとなっていったが、まさにこれこそが、執政権を制限す
⇒「権力を縛るのが憲法」「国王に突きつけるのが立憲主義」という発想や歴史はそこから来ているのか?
⇒日本人の、「お題目・精神主義」としての憲法に対する理想の高さも大概だが、本家本元の、「神聖で普遍的な法」への憧れも同じく狂信的だな。
まず第一に、伝統を捨てることをいとわなくなった近世の知識人たちは、アリストテレスのように偉大な古代の賢人でもやはり間違えることがあるのだと気づき始めた。実際、古代の賢人たちは、実に多くの事柄を誤って理解していた
第二に、精神状態への注目度が高まったことで、知識人たちは、新たな思想、概念、知見を特定の個人と結びつけて考えるようになり、可能な限りそれを、初めて提唱、発見、発明した人物の功績と認めるようになった。私たちは発明品と発明者を結びつけて考えるのを当たり前と思っているが、それは歴史的に見ても、通文化的に見ても稀なことなのだ。
ところで、職業に適応していない個性、ということを考えるとき、TRPGをやっていた頃のことを思い出した。 あのキャラシートは、私が一番に「顕現させてほしい」と思っているイメージを、固着化させてけれない。
「豪放な力持ち」「好青年な主人公騎士」「寡黙な戦闘技術の求道者」みたいなものが、すべて「ファイターLv.37」にされてしまう。シート上に個性が表現されない、規定されない。シートからだけでは読み取ることができない。
まあこれは、「ゲームを進める上で、調停が必要な場面というのは、戦闘やダンジョン探索くらいのものだから、ルール化するのはそこのみにして、システムを軽くしている。それがプレイヤー(演者としての)への縛りも減らすことになる」という反論は想定できるし、分からなくもなんだけど、私としてはむしろ、「優しいみんなのまとめ役」「みんなが不安で決め手がなくなったとき、「行こうぜ」って言ってくれる人」とか「貴重なツッコミ要因」とか、そういう役割のバランスが取れていることを、キャラメイクの段階で取り揃えたいというか、確約を得たいと思っていたんだよね、当時。
私がTRPGをやる欲望には、戦略ユニット戦で有利を取りたい、ってことだけでなく、「二次元的な会話を、自分自身でも繰り広げたい」ってことがとてもあったから。
で、「クラス制」(職業+レベル)に比べると、スキル制(スキル種×習熟度の束)のほうなら、若干はましになる。履歴書や職歴書みたいなもので、「こういう生い立ちの人なら(だから)こういうスキルをこれまでの人生で身に付けている。そして、こういうスキルを今伸ばそうとしているというのは、こういう価値観の人だから」というのをある程度感じられるからね。(それでも、表現としては、かなり難しいだろうけど)
クラス制での表現のさらに難しいところは、「臆病者の戦士」みたいな、内心の葛藤をまったく表現できないところ。
例えばこれは、「キャラクターの職業が魔術師しかなく、代わりに各々は属性を一つ選ぶことになっていて、たとえば炎の魔術師は攻撃的で派手好き」みたいなシステム・ルールを構想することはできる。性格を戦闘などの有利不利に組み込んでしまう。
でも、これでも結局、「気弱な炎の術士」というのを表現できないわけなんだよなあ。そこまで必要かどうかは別として、できないことには違いがない。
・家族の外にもまた家族の話、資本主義vs社会主義のような政治思想対立すら、その共同体の元々持っていた家族スタイルに規定されていたかもしれない話
⇒このへんの話は、『WEIRD』を読んでいると、すごくクリアに迫ってくる。 ページXの情報Aに、何かしら「自分の経験」パウダーを振りかけて、新しい成果物とするようなアレンジでもありません。
むしろ、情報自体に新奇性はなくても「この視点や観点から説明したら、もっと見通しがよくなるのではないか」という提案というのが近いでしょう。パースペクティブの変容です。
その変容の結果として、説明の順番などが変わってくることがあり、それはアウトラインの変化を意味するのですが、その変化は副産物でしかなく、主要なのは「視点の変化」の方です。
で、その変化した視点が有用ならば、そこにある情報が既存のものと変わらなくても、「新しい情報」としての有用性を持っていると言えるのではないか、なんてことを考えています。
⇒何かを誰かが「理解する」というとき、視点が自分のほうに移動してくるわけだから、そこに生産性が生まれて、結果「話したい欲」も生まれると。
⇒そこに、話す場面、話す相手がイメージされると、それはもう、ほぼ生産。
⇒まあ、知的財産権的に新奇性があるかというと、ないことになっちゃうんだけど。
功利主義の立役者の一人であるスチュアート・ミルの著書『自由論』のなかに、こんなフレーズがある:「人間の場合もそうだが、政治や経済の理論の場合も、人気がないときは目立たなかった間違いや欠陥も、勢力が増すと表面化する」。資本主義や社会契約や個人主義といった、今日の礎となっている思想たちも、このミルの述べる「人気がないときは目立たなかった間違いや欠陥が、勢力を増すなかで表面化」してきているのではないだろうか。その表面化してきている現れのある部分が少子化であり、ある部分がタイパやコスパに急き立てられるように生きるしかない現代人のライフスタイルだったりするのではないか。
過去の共同体は今日のように長く生きることに拘泥する社会ではなかったから*1、野垂れ死にする/しないはさておいて共同体を飛び出すのはあり得る選択肢だった。
共同体を貫く思想や共同幻想そのものは現代に比べて厳しかったとしても、それらに基づいたルールを守らせるためのシステムが未発達で、その共同体の外側が存在するのが過去の共同体と、その思想や共同幻想を特徴づけていた。逃亡者・放浪者・流浪人といった人々が実在し、そうでなくても旅芸人や行商人のようなライフスタイルも(その生存率の高低はさておいて)存在していた。
かつてはその東京にも、思想とそれを支える諸システムが届ききらない、社会の隙間があちこちにあった。たとえばホームレスは解決すべき問題だったと同時にひとつのライフスタイルであり、法治の外側、現代思想とは相いれない時空間でもあった。
私たちは思想に生かされ、思想に沿って生きている:だったらそれは、思想に飼われているってことではないだろうか?
⇒これはだから、「ネットワークコンピュータ」のように、OSがハードの外にある状態ですよね。「本能は壊れた」的論。だから、文化を守ろうとする戦士の反応的行動が過激化する。それは自分の本能の一部(を外部化したもの)だから。
AIのテキスト生成では、いわゆるハルシネーションが問題になっているが、あれは小説の能力に他ならない。
若いときの現代思想研究は、現代思想的キーワードのコンテクスト読解とそのひねりだった。だんだんと、人間の暮らしに根ざした問題が研究対象になってきた。そして小説を書き始めたことは大きい。問うべきことがずっと具体的になった。
年取って幸せになるコツというか、多分だが、欲を持たないことかと、それと、後悔を諦めるというか。
二種深信については、機の深信のあとに法の深があるのではなく、機の深のままに法の深がある、同じもののの、往相と相なんだろう。
この世は一定地獄だが、それに抗ったり、それを克服することなく、そのままに彌陀の誓願にして十なのだろう。
還相回向については、自分が往相回向にたりえないし、それが苦の源泉かもしれないと気づく感じがあった。自分は救われない、なんにもならない、なにをしても虚しい、というのは、無理な相からであって、還相にあっては全てそのままに本願のほうに委ねるべきものなのだろう。
このところ親鸞のことを考えてて、いろいろ以前よりわかったことがある。とくに、還相回向と二種深信はあーそうかもと思う。ただ、「そうかも」は宗派によっては異安心てはあるだろうな。
とはいえ、自分なりわかった部分で、なんか御心をいただいた感もある。
人の人生というのは、意識と無意識の果てしない対話でもあって、そして、これに意識が勝つだけではない。
無意識というのもまた、日なので、まあ、自己実現というのは、本来の(ユング的な)意味では、無意識の己との統合だろう。
て、この無意識とは、端的には、(ユングが言うように)悪だろう。
「幸せ」という感情は、多分、「持つこと」に由来するのだろう。この世界にあって自分を支える物を持つ、記憶・思い出を持つ。
だがこの意味での「幸せ」は潰えるしかない。不安でしかない。
多分老いの幸福はこれらとやや異なる現前の直面ではないかと思う。
現前の直面というのは美といっていい。
たとえば、「知的生産学において、山田氏はその分野を独力で開墾した開拓者であった」という文があるとして、読解がうまくない人は、実際に鍬なんかを振るって山田氏が土仕事をしたんだと理解したりするのだろう。象徴がうまく扱えない。
反発ではない。
「寿命」に「それは老人のことではないな」と思う。若い人も幼い人も盛りにある人も、なべて。
そして老人に言われる、「遅かれ早かれ」の、「遅かれ」のゾッとする思いがリアルになる。
老人は意外と死ねないうえ、その間、けっこう、苦しむ。
九九って81マスあって最大値も81なのに36種類しか数がないの不思議だよな
小3の先日のテストに出た問題の一つ。大学受験でも解けない学生がいっぱいいるだろうし、数学好きを除き多くの大人は解けないだろう。
1から30までの異なる整数が一つずつ書かれた 30個の箱の中にそれぞれ10個ずつキャンディーが入っている。このキャンディーを出席番号1番から 30番までの 30人の生徒が次のような決まりで食べる。
決まり:n 番目の生徒はnの倍数が書かれたすべての箱の中のキャンディーを一個ずつ食べる。
1、全員が食べ終えた後にキャンディーが2個食べられた箱は何箱個あるか。
2、全員が食べ終えた後にキャンディーが偶数個食べられた箱は何箱あるか。
⇒これ、問われている内容としては、
前者は素数で、後者は平方数以外ということで、そこの変換能力をむしろ問われているよね。
書店に行っても、なるう系のラノベとか、スクエニやヴァルキリーとかの漫画のコーナーには老いた男女ばかりで、まるで着物や寺社
巡りの書籍コーナーかと錯覚しそうなくらい
7₫
■■アップルパイ
コミュニケーションの難しさを感じるな〜!
裏の意味まで勘ぐるのは別にいいんだけど、たってたら気の利く人、その意味でなかった場合ただの思い込みになるから
あまり言外の意味を考え過ぎないほうがいいなって思うようになった。
なぜなら何も考えてない人も多いから
見ちゃったからとりあえず美味しそうだねって言ったら寄越されてしまって「要らねえとは言いにくい...」となったり、「そのグルメ番組見た〜美味しそうだったね〜」って世間話したら買ってこられて職場一同困ったことがあるので、あまり言外の意図とか勝手に考えないほうがいいと思う......
アップルパイあるとか言われたら「あー、食べる?」とかって派生するのが何より自然じゃないの
会話が苦手すぎるので無言より事実をとりあえず喋り出せばその後のラリーでなんとかなることもある、という経験でこれやってしまう泣
美味そうな飯来て、「美味そうだねえ
シ」だねぇ「だねぇ」とかしか考えてないし言わないかな....
生き物とか「このトゲトゲが厳つくてカッコイイ」とかまんましか思い浮かばねぇですはい
「で?」となってしまう言葉を発する人間不得意すぎる。
これ私「なんでわかんないの?」とか言っちゃうからめちゃくちゃ反感買いそう。ただの疑問としての「なんで?」なんだけど、これを責められている、馬鹿にされていると捉えてしまうタイプの人は怒ってしまうだろうし、一生相容れないんだろうなあ。
この方と同じ思考だから引用見てびっくり。
これで合点がいくのは、「いま何時だろ?」って言う夫氏に対し(なんでいつも自分でケータイ見ようとしないんだろ)って思いながら私がケータイをカバンから出して時間を確認して教えてたやつ。やっぱりこれは求められてなかったんだ
事実を述べるだけでも、気使ってアップルパイ渡した方が良いのでもどっちでも良いと思うこの論争。
アップルパイ食べる?▶ただ事実言っただけだからいらないよー▶そうなんだー
でいいじゃん
おばさま主婦達の『天気の話だけで10分近く間を持たせる』という『特に意味はないけど黙っていると気詰まりなので適当に事実を言う』系の雑談コミュニケーションというのがありまして。
角を立てずにご近所付き合いをするための、にこやか和やか雰囲気作りのテクニックでございます。
私も真実を述べるのみのタイプなんですが、普通に「そうだね〜」とか「美味しそうだよね」みたいな
共感みたいな感じでその場が繋がれば良いなと思ってます
さすがに「よこせ」とかは考えすぎでは..そう取る人がいたらむしろ面倒くさいですよねに人の言葉尻一つを色々考えてそうでお疲れ様で
事実を述べるタイプの私的には、例えばテレビに映ってる食べ物を見て「あれ美味そう〜」ってただ言ってるのと同じ感覚
だから、「おお~そだね~」みたいなテキトーな返しで全然okかなあ
でも、会話ひとつで色々考えられるのはすごく優しい方なんだろうな
これが「あそこに可愛いネコがいる」になるとナント
全ての議論が平和的に解決する」」
私の理想
「美味しそうなアップルパイだね!」→「一目惚れして買っちゃった!/焼きたてだったんだよ~!(本人が感じた魅力)」→「これおばあちゃんが作ったの!/駅前のお店で売ってた!(背景情報)」
→「だよね!明日のおやつに食べるんだ〜/これはとっておきだから私独り占めする!(本人の意思)」
これ、言葉以上の他意はあるはずだないはずだなんてどちらか一方で考えるんじゃなくて、その状況や声の抑揚や視線や表情である程度読み取るのが大体の人の聞き手の姿勢なのでは。
それを読み取るのが極端に苦手な人やないはずの物を見てしまう特性の人もいて、それは生育歴の問題かもしれないけど。
雨降ってるのに気づいた時に「うわ雨降ってる〜」
って言うのと同じ感覚で言ってるだけの場合もあるんで気にしない方がいいですよ
「雨降ってる~(だからお前傘買ってこい)」が当たり前だったら嫌すぎませんか
⇒(「家出る時傘持ってったほうがいいよ」)くらいのことは念じている人は多そうだがな。
ベルりんはこのタイプには「反応されたくないなら
いちいち口に出さねーで黙ってる」でケンカになるので記憶に残ってる
まぁ今までで2・3人程度ではある...。
「いるの?」ってことなら「いる」。
思ったこと全部口に出すタイプの人間というのは本にいて、「どこのアップルパイだろうね」などと応じるとむしろ「人の独り言に勝手に反応するな」のような反応を返されることがある。
全ての可能性があるので、諦めて相手によって変わることを念頭に
「そうですね、食べます?」もしくは「そうですね、〇〇さんが食べるみたいですよ」ぐらいが良い気がする。
事実を述べるだけ側だから、常に言葉の端々から裏がある意味があると捉える人との会話怖いな...。
例えば、家庭内の会話で「あの人の作る料理美味しそうだね」って言っただけなのに「私の作る料理は美味しそうじゃないってこと?」っていきなり言われるんですよ。いきなり殴られたみたいで怖い...。
います。私は言われたら「あ!食べる?」とかどうしたいか聞くのですが、「え?なんで?」と言われたり......。「見たまんま言ったの?」と聞いたことがありますが「そうだよ。それしかないやん」とか言われちゃったのでホントに見たまんまの事実だけが声に出ちゃうらしいです。ややこしい。
ハッ
お前と一緒に居るからこそ一緒に感じたことを言霊に込めて思い出にしてるんだよ言わせんなよ恥ずかしい
「電車の手すり、今日も銀色」「あの車、めっちゃ黒い」
「雨強すぎて視界真っ白」とかふと呟きません?
発達障害とか関係なく。
ツイッターとかでもそんな感じに、そこから会話を広げようとか思ってはないですが。
⇒こういう、ツイッター的つぶやきは、リアルでやるなら3人以上いないとつらい。2人で向かい合っていると、なかなか。
いる。なんなら「その髪型かわいいね」くらいの気持ちで言ってる。「美味しそうなアップルパイだね、素敵なおやつタイムを!」みたいな。
「美味しそうなアップルパイがあるね」って言われると、自作なら私が作った事を強調して褒めて貰い、買ったものなら何処で買ったのかいかに美味しそうだったのかを事細かに説明するなぁと想像した。そう、私は値打ちをこく奴
「良い時計ですね」
話少しずれるけど
よくある天気の話とかも別に天気の話したくてしてるわけじゃないらしい
返事を求めてるふうなのに意味のつかめない発言は仲間であることを確認する仕草みたいに認識するとうまくこなせるようになった気がする
返事はさらっと流れてく感じのやつが良い
これはそうかも!と思ったけど、ドライブ行った時に「めっちゃ三角の山がありますね。」「空が青いですね」レベルのカスの事実報告するから全然ありえるかも
わぁすごい!くらいの意味合いで言うから「そうですねー」でいい
下手に会話膨らませるとケーキ好きで眺めていたい人からちょっと黙ってと言われます(実体験)
「美味しそうなアップルパイがあるね」(隣に人がいるのに独り言)(ちいかわ(地域の変わり者))
「表通りにアップルパイの専門店ができていたね」には別にどう返してもいいんですよ。こういうの、会話にも「正しい会話」を規定したがる人ほど詰む。ただ、いきなり「わからない発をするな」と怒るのは相手にしたら不条理でしょうねえ。たとえ自分には不条理な発言に感じられていたとしても。
LINEで「そうだね」と返されるのが嫌いです。
アップルパイ食べたいと伝えた時、(先に提供しておけば良かった、気が使えない僕)
(洗い物増えるし後で一緒にと思っていたけど仕方ない)
こういう気まずいやりとりをなくすために遠回しに言って相手に決定を委ねます。
配慮の頭があるかどうかでは
私はこのアップルパイを美味しそうだと思う感覚を持っていますが、あなたは私と近い感覚を持っていますか?という認識合う人かどうかを確かめてる感覚で、広げたきゃ一言二言付け加える気がする。
言ってないことはこっちが勝手に作りあげた妄想上での相手の返答で、極論失礼な気がしちゃう
「じゃあなんで言ったのか」
については
「アップルパイが目に入った」ことで何らかの情緒が動いた結果
「アップルパイがあるー!」と言葉にした......
としか言いようがありませんわ......
事実を述べ合うだけの会話、めっちゃある「ねぇ夫、ここ〇〇屋さんできるみたい」「へえ」
「〇月〇日オープンだって」「そうか」「近所なのに全然気付かなかったね~」みたいな
でも「買ってあげようか?」「一緒に行く?」を期待してるわけじゃなくて、なんか話広がるかなって見えたもの喋っちゃう
正直ちょっとした言葉に逐一裏を読んでしまう(仕事中とか特にそう)のも、生産性0の「あ、ネコチャン」
「ネコチャンだねぇ~」で終わるような会話が成り立つことも経験として知っている身としては「気持ちはわかるけどもっと適当に生きていいんやで......」みたいな気持ちになる
過敏というより、ある人の行動について、無邪気に質問したり「なぜ、どうして」って聞くのは、現代においてはもう乱暴すぎると思うんですよね
前置きとしてアイスブレイクや、心理的安全性の構築を、その場で都度行った上でやったほうがいいめんどくさいかもしれないですけど、その方がコスト低いので
海外で震度3だか4くらいの地震来て外人が逃げ惑う中日本人が余裕ぶっこいでたら「日本の(建築基準で建てられた)建物じゃないんだぞ!!」と言われて慌てて逃げ出したって話逢ったなぁ。
アメリカに来たばかりの時、あるおばあちゃんのお宅にお世話になっていたんだけど、仕事関係の人が家に来た時、私だけ挨拶されなかった事があって「アンタ
外国人の若い女の子にどう接したらいいかわからないのはわかるけど、それは人種差別に見えるのよ」と言い、握手をしてお互いに自己紹介をした。
当然その人は私にもおばあちゃんにも丁寧に謝ってその場は終わった。その人が帰った後でおばあちゃんに「あなたからは一言でも声をかけたの?」と聞かれたので「いいえ」と言った。「あなた、英語がわからないから知らない人と話さないようにしているでしょう?」と言われた。「避けてますすみません」
=時の私は、今よりずっと英語がわかっておらず、【ヘタに話しかけて相手に何か言われてもわかんないし...)と、アメリカ人にあまり話しかけて欲しくなかったし、日本人なら挨拶する所でも避けていたし、目線も合わせないように、今思えば自分の自のなさから意識せず【失礼】な事をしていたと思う。
おばあちゃんは「あなたも英語を避けた結果ように、アメリカ人もあまり接した事がない人種の人たちとどう接したらわからないで【瞬時に避ける】人は沢山いるの。あなたがやる事も、その人たちがやる事も結果として【人種差別】に見えてしまうの」私「わかりました」「本当に人種差別かどうかはどうでも
いいけども、あなたは今日みたいな時は【人種差別に思えるので、〇〇してもらえますか】とか【人種差別に見えるのだけど他に理由があれば説明して】と言いなさい」私「わかりました」「みんな必死で生きているんだから、自分が立っているだけで常に尊敬してもらえると思うのも良くないの、わかる?」
その後、おばあちゃんの家から引っ越した最後の日、空港で前の人たちはみんな機械から出てくるチケットをカウンターの人が手で取ってお客様に渡していたのだけど、私の時には立っているだけで渡されなかったので、めちゃくちゃ面倒くさい人と我ながら思ったものの、「私にも取ってくれますか?」と
言うと「自分で取って」と言われたので、本は「これは人種差別に見えます」と言いたかったのだけど、英語がつたなすぎて「あ、Racist?」みたいな感じになった&その人は慌ててチケット引き出して渡してきた。私が「Thanks」と言うと、後ろの人が「その人にお礼なんか言わなくていい」と私に言った
英語が今よりずっとわからなかった時は英語で話しかけられるのが怖いのでむしろ【空気のように扱って欲しい】くらいだった。でも私にはそのつもりがなくても、アメリカでは私を通じて初めて【日本】を感じたり知ったりする人もいるので、私が空気のように自分を扱わせる事で、【日本人】というものを
そう扱っても問題のない存在、と捉えてしまう事もあるのだと思う。大げさだと思うかもしれないけれども、私自身が空気のように思われていいと振る舞っていれば、他のアメリ力にいる日本人が雑に扱われる事に繋がるかもしれないし、どこかで見下される事に貢献してしまうかもしれないのだなと思った。
いきなりできるようになる事でもないけど
【自分を雑に扱わせる事】は、他の日本人を雑に扱わせる事と同じになると思えば、文句はないにしろ指摘くらいはしようと頑張れる私のような陰キャは日本にけっこう多いのではないかと思う。日本を陰キャに誘引する事はしないよう気をつけるぞ、と時思った。
とても学びになるお話
特に「もしかしたら誰かの<人生で初めて出会った日本人>になる可能性」のくだりは目から鱗でした
バチェ1で、ゆきぽよがくぼりんに「ギャル初めて?」って言ったの思い出した。
私という人種が初めての人間、って人とコミュニケーションを取る・考えることって大切ねーー
丁寧に人と付き合える30代にすっぺ
⇒上記の温泉配信プラットフォームで、まあ、「女性管理職が仕事の依頼をするときには“頼るように”お願いする、注意するときなら“傷ついてる人がいる”という伝えかたをする」というような実体験を紹介していて。
まあそれは、昔から「男ってプライドが高いから、おだてて立てて使わないとね」って話なんだけど、そのエントリーにコメントがついていて、
前の職場は全員男性ばかりで、今の職場は自分と部長以外の皆女性なんですけど戦略が全然違うので苦労しました。女性の場合に「頼りにしてます!!」みたいなこと言ってもちっとも喜ばないですよね。それよりも「それわかります!」みたいな共感してます的なフレーズをいれたり、「〇〇さん昨日も夜遅くまでプレゼンの準備しててすごいですよね!」みたいな結果
じゃなくて過程に言及して相手をめると良い反応が返ってくるような気がします。
と書いてある。
⇒この、《女性の場合に「頼りにしてます!!」みたいなこと言ってもちっとも喜ばない》という話も重要な体験な気はするな。「褒められたら嬉しい、おだてられたら嬉しい」というのは、ある程度まで性を問わず存在する傾向だとは思うのだけど、「頼りにされる」とか「お前ならできる」では響かない、というのは重要な特徴なのかなと。
⇒まあ、女の人が、男の人から、「頼りにしてるんですよ」と言われても、目の前の男が情けなく見えて、イライラしてしまうから、というだけの可能性もなくはないけど。
あともう一つコメント。
この二つの戦略を使うと、、動いてはくれますが、勘違いされて口説かれたり、逆にマンスプされたりするんですよね。。
⇒まあ、気持ちはわかる気もしますw 好きになっちゃうよね。
「ギャハハ!オタクくん、またアレやって見せてくれよ!」
「ちゃ、チャラ男くん.......」「世界をまた救ってくれよ!前にも救っただろ!
......ゴフッ」
「チャラ男くん、もう喋っちゃダメだ!」
.....あー、みんなでまた、カラオケ、行きたかったな.......」
「チャラ男くーん!!」
なので若者が「中韓の起源はそもそも縄文人である」と言い出してる
国粋は日本の伝統文化を理解して純化を良しとする姿勢なので、やはり単なる「排外右翼」とか「日本起源論右翼」とかでは。
昔のネトウヨは経営者寄りだったんですが、最近再配分を唱えるけど日本人であることに誇りを持ちたい層が居て、これは従来の左右の枠では説明できないんですよね。現在のアメリカの共和党におけるトランプ支持層の主張にとても近いと感じます。
そう、端的に言って反韓はアホなんだけど国粋左翼は賢い。これは厄介な時代だ。
左翼ナショナリズムは、公正さや国民主権それに民族自決(「民族自決」は良訳ではなく、各文化圏のことは各文化圏で決定すべきという思想なので「文化圏自己決定権」とでも訳すべき)などの思想を生み出しているので法学の頂点に君臨していますね(なお、それは政治学の頂点とは通常仲が悪いです)。
法学の主流派から見れば、政治学は「理念や目的もない中で無意味な漂流をしている」ように見えますし、政治学の主流派から見れば法学は「リアリズムや現実を無視して理想論を唱えている」ように見えるんですよね。どちらも分野が近いのに、主流派同士がすごく仲が悪いんですよね。
イギリス国家の和訳が「神様お願い、女王様に加護を!」
みたいなんだった気がする
スイス
H
→神様のおかげでアルプスの山がきれい
ね
オーストラリア醬→我が国は自然と資源が豊かでキレイね。楽しく暮らそう
ジョージア®→神様と聖なる天により与えられた自由に栄光あれ!
スペイン →歌詞なんか要らないわ
アメリカの男性は男らしさにこだわる人が多くて、ピンクの物を使わないとか、トートバッグを持たないとか、ファッション雑誌を見ないとか、虚勢を張ってのしのし歩くとか、女性歌手の曲を人前では聞かないとか、相手がいないと思われるから1人では出かけないとか、人にどう見られるかとても気にする。
⇒外見を気にしていないように見えるように気にしている。
そういえば昨晩の富野監督とのトークで出渕さんが仰るられていた、逆シャアのシャアは嘘ばかりつい
てるの件。
あの後半40分の、ナナイの庇護欲を満足させ、クエスを黙らせギュネイを帰って、という一連の流れるようなムーブは鮮やかそのもので、もう赤い彗星そのもの。
面倒な諸々はサクッと片づけてから対アムロに向かうという、アレは器用なヲタクのムーブなんだわ。
雑事に興味がない。片づけて、やりたいことをやる。鮮やか。
もう明日からオールバックにしようかな。
女子のいじめっ子って、「被害者」っぽいふるまいで嫌がらせをしたりすることは、もっと知られて欲しいなあ。
車椅子の一件で「昔の人は優しくて皆手を取り合ってたのに日本人は落ちぶれた」みたいな同調しているのがいるけどさ、昔の障害者がどういう扱い受けていたか、って知っているんか。知りつつも目を閉じてるのか、あるいは都合いいところだけ抜き出しているんか。
→電動車椅子で、いちいち善意に頼らなくても独りですいすい歩ける街や施設もたまにはある。そういうところを独り気ままに歩いているときは、誰も私を気に留めてなくて、厚意の無関心が本当に心地良い。そこでは呼吸が楽になるし、いま私は自由なんだ一つ!って叫びたくなるぐらい解放感がある。
→
欧米どうも日焼け(で肌の色がかわる)とゆう概念がないぽくて褐色の人に「日本人は肌の色が違うと怖がるでしょ?」「いや日焼けした日本人のがあなたよりよっぽど黒いよ」とゆったら宇宙レベルヘイトスピーチのあつかいされたことあるので「戦国時代に黒人がいた」もなんかかんちがいしてそう
取材で知り合った男性(車いすユーザー)に、礼儀正しいけれど「障害に関する手助けを受けたとき」だけは絶対に礼を言わない人がいる。私が食事を手伝ったり移動を手伝ったりしても、無言。でもコーヒーをご馳走した時なんかは「ありがとう」と言ってくれる。私は、彼のそのスタンスを尊敬している。
「子供ってほんとにうるせえな!!勘弁してくれよ!!」って気持ちと「でも、健やかに育てよ!!」って気持ちは両立していいんだと思う。ネット上では0か100かみたいな極端な思想の人多い
けど人間の気持ちってそんな簡単なものじゃないでしょう。
実際の関西弁もその『吉本共通語』に収斂して結構共通化してきてますよね。まあ吉本イメージが最近は良くない部分もありますが、こないだAbema出た後弁護士の南さんと『知的で柔らかくメンツに拘らない問題解決志向の言葉=関西弁』を一緒にブランディングしていきましょうという話をしました(笑)
ミルクボーイが特にそれを(もしかすると意識的に)明示的にやっているから目立つというのはあると思いますが、そもそもよしもとの「関西弁」はどこの地域も代表していない、不思議な「標準関西弁」みたいなフォーマットなんですよね。わかる気がします
人と出合うということは、自分の一部を受け渡すこと。
人と別れるということはとりもなおさず自分の一部と別れること
我ながら矛盾したふうになるけど、好きなものを極めようとすると心は老化すると思う。
問題は「極め」に心の拠り所を求めて、「好き」が実は枯れてゆく。
その30代くらいって、ある意味、身体成熟に向かうから、気がつきにくい。
自分の観察としては、精神や感覚の老化は30代前半くらいから始まる。
失うことを恐れたり、怒りに正当化を見出す人は、精神や感覚の老化が速い気がする。
そうなんでしょうね。そう思いたくないから、物語を作ってしまう。戦争の予兆は後づけて、因果性はなさそう。
難癖の意図はなく、単純に、恐竜の絶滅には定説はなさそうなんですよ。巨大隕石衝突説は結構有力で、してみると、予兆はないんですよ。
怒りはまた微妙な問題だと思うよ。まあ、自分についてなんで、一般論ではないかな。
何というか、年取って、慈悲心みたいなもんで怒りは減る感じ。
子供四人いたが中学受験の塾とかは使わなかったので中学までは公立。知性が活性化するのは思春期からだろうと思ってたし。
ぶっちゃけ「れいわ」とか「参政党」とか「日本保守党」とかああいう「現実離れしたポピュリズム全振りの政党」がでてきたら「ああ・・・・民主主義の劣化やな・・・」とか思うもんだけど、左派さんは「れいわは問題ない」とかやっちゃうんで、俺はこの三政党全部に好意的でない人は最低限党派性だけでダブスタしない人だと見て信用している。
逆に全部賞賛してる人みたことねぇんだよな。・。
その三つは「明らかに商売で政党やってる」と思ってる。維新や都民ファの「成功」を見て、より「合理的」に「議員の地位を手に入れる」ことに特化したのがれい新で、あとの二つはそのフォロワー。
民主主義の劣化というよりは、SNSの発明で以前より情報発信コストが下がったのとリーチ率が格段に上がってビジブルなのが大きい。ベビーブームで高齢低所得者が増えたんだね。
さらに言えば、メディアやいわゆる知識人の劣化、無知が、集合知と専門知が簡単に顕現して評価可能になったこともある。
フランスの旧国民戦線みたいに、最初はポピュリズム全開でエキセントリックに活動したけど、その後穏健路線に転向して現実と折り合いつけ、有力野党となった政党もあるから何ともいえないけど、、世界を見てもあまり例は多くないのかな
「誰かが言い出すまで絶対に変わらないけど言い出した本人は幸せになってはいけなくて腹を切って迷惑の責任を取り後世のための犠牲にならなくてはいけない」というのを繰り返してるこの社会。
腹を切る覚悟のある人が現れない限りは全く変わらないし、そもそも腹を切ったところで無駄死にの可能性すらあるけれどお上の思し召しのチャンスに賭けて命を捨てなければいけないという超高リスクローリターンの賭け。
倫理的な話は別として「しからば道連れにお命頂戴いたす」という某暗殺者の出した回答がこのシステムにおいてほぼ最適解というのが何とも...。
会社組織だって大抵そうでしょう。共通している問題は「上に立つ人間が責任を取らない」という点。それまでの失策を問われるべき側は知らんぷりで居座り、結果として変化が良い方向に向かおうが世間に波を立てた事者はその責任を取って死なねばならない。何世紀も昔からこれ。
みんな何が悪いかは分かってるけれど責任を取らされたくないから黙っているだけ。死ぬほど追い詰められた人が陰腹切って諫言してようやく物事が動く。
そしてそんな馬鹿げた儀礼を必要としたスローな変化を世界が待ってくれるわけもなく、どんどん置いて行かれつつも皆内心ぶ一垂れながら結局我慢するだけ。誰か俺たちのために腹切ってくれないか、お上が死んで代替わりしてくれないか、黒船が来てくれないかとひっそり期待しながら。
罠にかかったニンジャを助けたあと「一晩泊めてくださいまし」と現れた旅の女がそのまま居着いて妻となり、畑の書は減りたびたび嫌がらせをしてきた隣人は大人しくなり風邪をひいたら危険な崖でしか採れない薬草が枕元に届き悪代官は不正がバレて
罷免され、妻はいつも笑顔で幸福である。
息子が4歳で救急された時、ぐったりしながら「これはハイエースだね」と言った。救急救命士さんが「おじさんは前に自動車を売っていたんだよ、パジエロってわかるかな」と言ったところ、病児は「パリダカ!YouTubeでみた!」とカッと目を見開き、病院まで篠塚談義をしながら運ばれて行った。
家事してるわたしのところに、一歳さんが泣き顔を作って何か主張しにきて、こっち来てってやるのでついて行ったら、むすめさんがぬいぐるみ遊びをしてるやつを横取りしたいのに、むすめさんにダメって言われたから言いつけに来たようだった。お母さん、弁護士だから分かるけどな、それは負け筋です。
デスクトップ正義漢同士の不毛な言い争いではなく、本当に課題解決に真剣に取り組む事者たちの悪戦苦闘という感じだ...