2024/3/1-2024/3/5
▷英語の講義やスピーチを聞いていると、最初は「おっ、なんだ興味深いこと、言ってるじゃん。聞き取りやすいし」と思っても、聞いているうちに、ずっと理解エンジンを高トルクフルパワーしてないといけないことに疲れてくるし、ちょっと脳が他ごとを逸脱して考えた瞬間についていけなくなる。
▷これ、非オタクがアニメを見れないことの相似形だったりするのかな。 人物エンジン、物語エンジンを、ずっと回し続けていないと、場に参加資格が無くなっちゃうという。 実写なら、風景とか、美男美女をとりあえず眺めていられるもんな。
▷超熟マフィンの貝柱って、なんで中心からずれたところにあるんだろう。
▷むいて2つに割ろうと指をかけたときに、割りにくい方向が、円周の中に一箇所ある。
▷「この人、どんな人と結婚することになるんだろうか?」ってことを考えたことはなくもなかったけど、実際に実在の人と結婚しちゃうと、驚くほどどうでもいいな。 まあ、私が他人に関心がないってことだろうが。
⇒あと、日本人で、数年前にで、と聞くと、「アメリカに日本人がいたってこと?」ってことは浮かんだな。
▷RT @RN_himazin: @schwarzmonolith @pengomk2 @rockfish31 大谷の1年分の給料>自民党の全裏金 ↑これホント草
▷RT @pengomk2: @rockfish31 むしろ結婚報告を大事にしないため 大谷「やれ」 岸田「はい」 で裏金問題が出てきた可能性もw
▷RT @pokkaripon: 理屈を言って嫌われるのは、「見てみたが虫はいないから毛づくろいの必要はないぞ」とか「虫がいるならお湯に入ったほうがいいぞ」とか言ってるようなもので。 「あいつら毛づくろいばっかりしてるよな」って、ボサボサぐずぐずの毛で言われても…みたいな。
▷RT @pokkaripon: あれはね、毛づくろいみたいなもんなんですよ。本当に虫がいて困る時の療法みたいなものじゃなくて、ちょっとした毛の絡まりをほぐしてお互いフワフワになるようなやつ
▷RT @cicada3301_kig: 逆の立場で言えば「男性は愚痴と宣戦布告の区別がついていない」というところではある。
▷RT @Afurederun: @cicada3301_kig そう思います。「部長が全然分かってくれなくて」に対して期待する回答が「そんなことないのにね、頑張ってるのにね」なのか「部長本当に分かってないッスよね」なのかの違いは本当にあると思います。
▷いや、皮肉とかではなく。統計補正できるような調査方法があるなら、関心があるし。
▷ひねくれた感想としては、「いや、自分の収入や精神的タフさでは子供を育てるなんて無理だな。子供を育てるつもりがないなら、結婚する必要も、相手を無理して探す必要も、まあ、ないかな……」ってなっている心理は、棚上げできるくらいに少数ですかね? とは質問してみたくなる。
▷「結婚している夫婦に対する子育て支援が必要なのではない。結婚した夫婦に生まれる子供の数や希望する子供の数は大きく減ってはいない。結婚する数を増やすような対策こそをするべき」という理念は、一応賛成なんだけども、
ボローニャ大学は、学生の自主的な団体として設立されたもので、学生たちが独自に教師を雇い、自ら市当局との交渉にもあたった。
パリ大学は、司教をはじめとする地元の宗教的権威が教育に干渉しようとするのを受けて(教師もやはりそれを嫌った)、教師たちがいわば同業組合ーギルドーを結成したところから発展していった。
⇒明治とかの日本は、「自然発生的には日本に生まれなかったもの」をトップダウンで作ったから、どうしても由来や本質として違うものができ、それを海外と「同等の組織」として交流することになるので、所属する人にモヤモヤを与える。
⇒ただ、そうはいいつつも、ある種の双方向性が日本にはあるので、トップダウンで作られたものが、永遠に純粋なトップダウンでいることもないと思う。「純粋なボトムアップ」に転じることはもっとないだろうけど……。
学生もまた大学を選ぶことができ、大学に所属するとたいてい、現地法の適用を免れた
⇒??!!
⇒いやすごいな、僧兵を抱えた比叡山かよ。
⇒ただ、日大アメフト部みたいなものが、外界の良識や司法と切り離されて運営されていたら、国民国家としては腹立たしいわけで、それはもう無理だろうな。
人口が黒死病(腺ペスト)によって著しく減少した時期に急成長を遂げたことは注目に値する。黒死病によって、当時の人口の三〇~六〇
%の命が奪われた。ということは、こうした任意団体の成長は、人口増加が反映されたものではない。人口は減少したにもかかわらず、任意団体は成長を続けたのである。
マドラサは、イスラム教にとって都合の悪いことは探索してはならないという、法的な規制も受けていた。ということは、イスラム科学者たちが成し遂げた偉業の数々は、監視の目が届かない、中心から離れた場所でなされたものなのだ(その事実が、こうした業績をいっそう輝かしいものにしている)。
人間関係そのものが、女の子たちの闘いの武器になることも多い。
⇒武器というよりは、戦場というか凶器というか。
攻撃性を認められず、「完璧な人間関係」を続けるいい女の子であることを期待される女の子たちは、ほかの子との衝突をうまく解決するすべを知らないのだ。結果として、ささいな不和から人間関係全体がこわれることになりかねない。
つまり、二人の人間が対立した場合、ふつうは言葉や拳などで決着をつけようとする。問題はいさかいの原因となっている事柄であって、二人の関係ではない。しかし、怒りが言葉にならず、対立を処理する技術をもたないとき、肝心の対立点に取り組むことができず、関係そのものが問題になってしまう。
社会学者アン・キャンベルによれば、男性は、攻撃とは環境を支配するための手段であると考えているが、女性は、人間関係に終止符を打つものと考えているという。
⇒いや、支配しようと欲動するのもどうなの。
⇒相手が悪い、あるいは相手の主張が自分にとって悪い、ということのほうが、相手と私がつながっているという、この関係性が私に有害、と感じることのほうが問題だ、ってことだろうか。
毎日のささいな摩擦すら、大切な人たちを失うことにつながるかもしれないと恐れ、どんなレベルでも人と対立しようとしない。いかにも簡単な等式である。対立=孤立。女の子たちはいろいろな言葉で繰り返した。「私が本当はどう感じているかはいえません。そんなことをしたら、友だちでいてくれなくなるかもしれないから」。その結果、「私はみんなと友だちでいたいから、誰も直接傷つけたくないんです」。
孤立するかもしれない、という恐怖は圧倒的な力をもっている。実際、いじめの犠牲者が最もよく口にするのは、孤独だった。実際にさまざまな残酷な仕打ちー嵐のようないやがらせEメールや匿名の手紙、ひそひそささやかれる噂、机や壁やロッカーに落書きされた悪口、冷笑、罵倒ーを受けたにもかかわらず、何より気持をずたずたにするのは、ひとりぼっちということだった。ささやきあい、一緒にすごす相手がいないことが、気が遠くなるほどの深い悲しみと恐怖を引き起こすのだ。
「休み時間に、ひとりで歩くのはいやです。秘密を打ちあける相手も、助けたりとかする相手もいなくなるし」
女の子は成長するにつれ、ひとりでいるところを見られるかもしれない、と思うだけで怖くなる。「完璧な女の子」は「完璧な人間関係」とセットだと知っているからだ。リンデン・スクールの九年生がいった。「廊下をひとりで歩いていて、みんなに見られている感じがするのは最悪です。ひとりでいると憐れまれるけど、誰も人から憐れまれたくはないでしょう。それはつまり、まわりから孤立しているということ。何か変なところがある、ということなんです」。
⇒男にとっての、無能の証明を世界から突きつけられる恐怖みたいなものに、相当するだろうか。 女の子のいじめは成長段階でくぐりぬけるべき嵐のようなもので、受け入れるしかない、と思いこんでいる人は多い。
ら示唆されるのは、いくつかの介な前提である。第一に、これは成長段階なのだから、こうした行動を防ぐためにできることは何もない、これだけ多くの女の子たちが裏攻撃を経験しているということは、もともとそういうふうにできているにちがいない、という理屈である。
第二に、いじめを通過儀礼とすると、女の子たちがいじめ、いじめられつつ、つきあい方を学ぶのは必要なことであり、積極的な意味があることにもなってしまう。この通過儀礼は、女の子がのちに大人になったとき自分を待ちうけるものを知るためにある、といってもいい。大人の女性はこのようにふるまうのだから、自分たちも受け入れて準備すべきだ、ということだ(話をしたいじめ被害者の母親たちの多くは、「どちらにしても、女の子は大人になったら、いやでもこういうことを経験するのだから」と思って自分を慰めていた)。
この二つから、第三の前提が引き出される。女の子のいじめは普遍的に存在し、役に立つのだから、社会構造の一部として容認すべきだ、というものだ。
ここには、女の子どうしの関係について、次のような二つの価値判断が見てとれる。まず、女の子どうしの問題はささいなもので、女の子たちが男の子とつきあうようになれば自然に解決するだろう、というものだ。もうひとつは、子どもの成長における友だちの役割を軽視し、子ども時代は人生そのものというより人生の訓練期間であるという見方に同意するものだ。
結婚会見で「プロポーズの言葉は?」って質問があるけど、あれは本当にそのセリフが知りたいわけではなく「"'プロポーズの言葉”をもう一度口にさせて相手が恥ずかしがる様子が見たい」が主たる目的であり「どんな色のパンツ履いてるの?」とイタ電する変態と同じだと思ってる。
⇒まあなあ。二人でいて、照れあったりするところがみたいとか、虚を突かれて、ここでしか見られない表情が去来する様子がみたいとかあるかもだけど、別に見せ物じゃないわけだしなあ。
映画監督が、俳優の演技や表情を引き出すためにやるのならともかく。
誰かに何か伝えたいことがあるのかのどうか、というのがたぶん大切なことで、その内容の高尚さや貴賤は関係なく、自分でその「伝えたいこと」が明確である必要もない(むしろ書くことで明確になっていく)、的な。
あと、制度的な資格以外の、「資格」というコンセプトが自分の中では弱い感じ。
もともとブログで文章を書いていたので、本を書く「理由」や「資格」みたいなものを真剣に考えないままにこの仕事をはじめた感じはありますね。今も「何をどう書くか」は考えますが、それ以上はあまり考えないかもしれません。
「少しだけ本棚を見せる」ってハッシュタグを見かけるたびに、「ハイハイ、お前らインテリブルジョワ様は綺麗で賢くっておよろしいことですね」って
毒づくTwitterユーザーを想像してしまっていつも切ない気持ちになってまう。
『学校で育むアナキズム」は、学生自治で任せたらいじめがもっと加速するのではないかという素朴な疑問を検討してないのがよくないよ。現状の権力的(?)学校制度でもいじめを克服できてないのはその通りだけど、じゃあなくなったら改善されるってエビデンスもないでしょ。
しかも、自宅学習とかのオルタナティブな学習形態も、新自由主義的で自己責任論的な排除だから、包摂せにゃならんのでしょ。お題目は結構だけど、包摂される方は地獄だぜ。
「アナキズム」も「ケア」も流行り言葉として雑に使われていくたびに強度が下がり、結果適なとこるに落ち着くんじゃないかって予感はあるんで、個人的には特に意見ないんだが、昔からやってた人的にはどうなんだろうね。薄くても幅広い使用の機会があった方が嬉しいのかしらん。
地中海と呼ばれるに至った世界観がわかり、英語のseaとoceanの使い分けでよく言われる「陸に挟まれてなくて広大な海がocean」という不可解な区別にも説明がつく、2,600年前のギリシャの地理学者が考えていた世界地図
「n」だけ小文字。デザインするときは細かいところが気になるけど、見る側はまったく気にもとめてない。
曲線形だから選ばれるんだろうね
NだとINと3本の線が入るので小さくなった時に潰れやすいんです。
おれだってもはや娘の話しないもんな。
みんなそうなってる。
子どもの話をすること自体がリスク。
子ども作るのは辛い、子ども作るのはわがまま、子ども作るのはリスク、そもそも親子とか家庭とか最悪みたいに感じるひとがいちど多数派になってしまうと、空気を戻すのは難しいだろう。人間は周りみて人生決めるからな。
戦争でも福祉でもいいんだけれど、継続的支援というのは難しいね。支援される側が支援する側にどう接するべきか、あるいはその逆の問題がどうしても出てきて、初はシンプルだった「困っているひとがいるから助けよう」をこじらせていく。
Keyの初期の想像力は色々な点で結構ギリギリなので、今だと作品化は難しいだろう。裏返せば、そういうのが許される時代だったからこそ、麻枝さんは出てこれた。
とはいえやはり、泣きゲーの元祖はエロゲーであり、ONEもKanonもAirも基本的にはポルノだったことは記事内にもしっかり書いておいた方がいいと思うな。そういうのはすぐ忘れさられるからね。
(この投稿に対してすら、若い世代から泣きゲーはエロゲーとは違いましたとか「反論」がきそう)
「古典の授業が無駄」といった議論に反射的に反論するひとって、授業時間が有限だということを忘れがちだよね。そりゃ時間が無限にあれば古典でも何でもすればいいけど、それはたとえば外国語よりも有益なのか。あと反論するひとたちが、どれだけの古典に関する教養を持っているかを知りたいところ。
⇒この、「時間は無限ではない」って提言によって前景化される問題の構造には、真摯に向き合う必要があると思う。なんでもは詰め込めない。
まあ、習得されていなければいけない知識コンテンツとしての義務教育の内容はほとんど無謬だと思うが。
それが、主体的な探求の結果として体得されてくれたらいいよね、という願いはあるけど、まあ難しいよね。
⇒有用さとは何であるか、という別の問いの立て方はあるかもしれないけど、それを言い出したら、国語と算数以外はすべて不要(学び続けるための手法と、生体の持つヒューリスティックから一番離れたものとしての数字操作)となる可能性もあるので、多くの文化人にとっては、むしろ藪蛇。
フリーレン『チルチャック、その気持ちわかるよ』
パーティーに新規加入した薬師がやたらと毒や寄生虫に興味を示しすぎる件
岸田「やれ」
正恩「はい......」
岸田「やれ」
大谷「はい.....」
ギャグとしか思えないのだけど、陰謀論者さんは大真面目に言ってる。それどころか政治クラスタの一部まで本気でこの陰謀論をじている始末。
大谷の1年分の給料>自民党の全裏金
↑これホント草
大谷がもらってる額と裏金の額を比較するに、仮に買収してるとしたら大谷の方ですよね.......w
むしろ結婚報告を大事にしないため
大谷「やれ」
岸田「はい」
で裏金問題が出てきた可能性もw
大手企業が左遷した人を自主退職に追い込むため、
1日中書類をシュレッダーにかける仕事をさせたりするの聞くけど、
そんな簡単なお仕事で大手企業のお給料をもらい続けれるなら、
自分が代わりにシュレッダー係やりたいなって思ってしまう
RTしたツイート読んで、PTAなくなったら楽と前は思った。が、なくなったあとのトラブルは想像したことなかったなあ。
PTA、自分が小中学生の頃を思い出すとあり方を変えるべきだとは思うけど、存在を無くすと有事に保護者が徒党を組めないので終わる......詳細は控えるけど、PTAが無いことで前年度本に地獄を見たので.......
「地に足をつけて働く庶民」と「教養」を完全に分離してしまうのが貴族仕草なんですよ。庶民にも色々な趣味がある。僕はふだんは工事現場で働いていますが、SF小説好きで読んだり書いたりしてます。ミステリや歴史小説が好きな人もいるでしょう、絵画や音楽が趣味の人もいるでしょう
「古典は役に立たない」という言説に対して寄せられる、「古典があるから理解出来るジョークがある」「貴方が役立てるような地位につけなかっただけ」「教養は人生を豊かにする」的な言説は、結局は「地に足つけて働く庶民を見下す貴族仕草」でしかなく、それこそが古典不要論が唱えられる原因だと思う
リヴァイアサンは1巻の初めの人間論も現代学問に関係
欲求と意志の関係(行動発生直前の欲求=意志)、怒りと誇りの関係(突然の誇り=怒り)
→時間整合性問題や最後通牒ゲーム(行動経済学)
と関係
理性は計算過程であり、足し算引き算に還元可能
→AIと関係
まいきー @maiky__boo・19時間
『リヴァイアサン』、西洋哲学史の中でも指折りのめちゃ面白書だと思う。みんなもっとたくさん読んでほしい。特に3、4巻を読もう。
『リヴァイアサン』、西洋哲学史の中でも指折りのめちゃ面白書だと思う。みんなもっとたくさん読んでほしい。特に3、4巻を読もう。
ちいかわの「脳にパラレルワールドを植え付ける虫」、なんかめっちゃSF小説っぽくない?
アルフレッド・ベスターとかフィリップ・K・ディックとか、そのテのSFを初めて読んだ時みたいな訳分からんインパクトを覚えた
うつ病になった人に「頑張れ」は禁句とされがちだけど、それより「今後どうするの?」みたいに将来のことを聞かれるのが一番地獄だった
⇒チルな目標設定
安倍総理、なんだかんだでおぼっちゃまでしたし、育ちの良さが出ていましたが。
岸田総理は、見た目が官僚っぽくて誤解されがちですが、ありゃあ大久保利通翁と同じ、人斬り半次郎こと桐野利秋をひと睨みで石化させた、胆力の人ですね。
無から生まれ、一時的に意識なるものを獲得し、再び無に帰っていく。なんと奇跡的な出来事だろう。
そんなことがずっと前から繰り返し起こってきて、今私たちがここにいて、未来にも誰かがきっとここにいる。私はそれを尊いとみる
幼児期の男児に対する「アップデート教育」を推進している人たちが、「宗教2世は信教の自由を侵害されている!」みたいな話をしているところを見かけた。これが未法ってやつですかね。
J-POPの泣き笑い感って独特の文化だと思う。
気がつきましたが、自分の「こうしたい」も鵜呑みにすると失敗しますね。自分の「心の声」を聴かないと。
⇒「仕事やりたくない」とか「会社辞めたい」ではなく「要求ばっかり大きくて現実的じゃない提案ばかりを繰り返す業務パートナーと、その顔色をうかがって、こちらの作業内容に実績を繰り返すばかりの上司に囲まれていたら、モチベーションが低下するのは当然だろう? 今日は体調の低下も手伝って、デプレッションがハンパない。」と書かなくてはいけない。
「文学は人間の心から自然に湧き上がる」かあ。多分、そうなんだろうけど、なんか引っかかるものはある。文学って、とても、自然じゃない感じがするからだろうか。
自分の人生に必要なかった人が古文漢文いらないって言うの別にいいんですけど、そういう人に私は私の人生に逆上がりや跳び箱必要なかったんで体育い
らんねんって言うとキレられるかいじられるか無視されるんですよ。しかも世の中には体育いらん派が圧倒的に少ない。この非対称が納得でけへんのです。
そう言えば、学校で古典を教える時間をさらに半分にしてもいいから、文献学の基礎を教えるといいと思う。写本のこと知らずに古典読んでも仕方ない気がする。
直角三角形の合同条件・相似条件を教えて、そして、全ての直角三角形は、中心に直角をおくと、円を表現することになる。そこで、ピタゴラスの定理は正弦定理になる。
このことは、自分の子供四人には教えたな。覚えてるかな。
日本国語大辞典の「霑」の補註に、
<「しおお(しほほ)」、「しおたれる(しほたる)」などとの関連が考えられる。従来「(袖・袂の涙を)しぼる(絞)」と解されていたものの少な
くとも一部は「(涙で袖・袂を)濡らす」の意で、「しほる(霑)」の用例と見なすべきだとする説が有力になっている
これをどう考えるか?と、古典の教育で、「考え」させてもいいと思う。古典というものに、本当に、向き合うことになるから。
教科書に落書きすると、そのページを覚える。
試験のとき、落書きをキューにして、脳内教科書のページを捲った。
しかし少なくとも数学に関しては中学では二次方程式の解の公式を教えても複素数には手をつけず、高校では三角関数も微積分も手をつけるのにオイラーの公式には至らずで、「美しい」ものから目を逸らさせてるように見えるのですが?
古文や漢文や三角関数の話題で、ふと思ったが、これらは、「美しい」んですよ。
で、その「美」というのが、通じにくいんではないかな。
若いとき義務的に学ばされてその後の人生で役に立つ機会がなければ、そして何者かになれなかった怨嗟は怖いのでしょうね。
何者かになった人からも発せられるのですから。
(いわゆる青春を返せというやつ)
ライフプランをたてる前の基礎知識として漢文や古文や体育があるのだと思うんだけど、その基礎すら要らないってのは選択肢を狭める結果になる。
弟がフランス語通訳で飯食ってた時に国語をもっと勉強しておくべきだったって言ってたのも何が活きるかは解らないから、基礎で学ぶべきだと思う。
強制的に学ばせる部分はなるべく小さく、漢文であれ体育であれライフプランに併せて選択すべしというのがリベラル教育論の基本だと思いますが、教育を受ける前と後で「ライフプラン」が変わりうるというのが基本的な難問としてありますね。
「他者の主張を要約しそれを論評しつつ賛否を表明する」という構造が全く取れず他者の主張の要約と本人のそれを混同する人がX上に絶えないところを見ると、悪名高い「著者の気持ちを答えなさい」系
問題は実際にはこの構造が理解できているかを問うているのだなと得心します。
たしかに、ご多分に漏れず私もレイプハルトから入った口なので、そうすると二院制が「連邦制次元」で片付けられるのは「なにこれ?」という感じで、二院制を半大統領制(執行権の分有)の反対側にある半議院内閣制(立法権の分有)として理解するとスッキリするというのはとてもよく分かるのです。
相談されたときに、すぐ答えを返すのではなく「相談したくなった原因」を一緒に考えてみるといいです。
一緒に話をしていると、相手の考えがまとまって、勝手に答えがでます。
納得度も高くなりますからね。
なぜ平成6年を境に急減してるか気になったのでググってみたけど、この年、村山内閣が保健所法を地域保健法に改正して、公衆衛生に係る責務が国から地方自治体に委譲されたのが原因っぽいな。実際この後、急速に保健所が統合・減少してる。
(おかげでコロナの時は保健所が酷い目にあったけど。)
これはヤバイ。90年代までは接種率100%近かったのに最近は70%にまで減少。日本は数少ない狂犬病の清浄国ですが、
⇒ツッコミとして、決定されたのは羽田内閣の時、というのはあったけど、いずれにせよ、国策として縮小されるベクトルがあったわけだ。飼い主の気分だけではなく。
古典というものは、現代にあっては、他者に向かって「学べ」というものではなく、それを学んだ人から醸し出される、品性というか、なんというか、その一端を感じて、少しづつ学びの道に入っていくものだろう。古典学習がつまらないというのの、まあ、半分以上は、教師の問題だろう。
「そんなに生活って偉いのですか?」すばらしい大至言だ「何気ない暮らし」を最上のものとすることは実のところ何かを得ようと藻掻く人たちに対する冷笑主義なんで染まらないほうが良いですよ
コツコツは努力を想起させるが、ちまちまは脱力を連想させる
確かに「ちまちま」は良い
「コツコツ」よりがハードルが低く感じる
コツコツには「着実に」とか「きちんと」というニュアンスがある一方、
ちまちまには「小規模に」とか「気が向いたときに」という雰囲気がある
陰謀論とかデマは問題だが、啓蒙的修辞というのも、それなりに問題だなあ。
啓蒙的修辞は、簡便化し、感情、是非に落とし込みやすい。
テキストをテキストとして読むことは、フラットで中立的な姿勢というよりは、意識的にじる姿勢が必要なのかもしれない。
ところで、そんなセダンのメリットはどこにあるのでしょうか。
まずは運動性能面です。セダンは重心が低いので安定性に優れ、旋回時や高速走行時の安定感が高いという物理特性上の長所があります。
加えて、ワゴンやSUVに比べて車体を頑丈に作れ、これも走りの質を高めます。高速走行や長時間運転でも疲れにくいのがセダンの長所といえます。
もうひとつは実用面。居住スペースと荷物を置く場所(トランク)が独立していることで、荷室下側から伝わる音をシャットアウトしてキャビンの静粛性が高まるなどのメリットがあります。
かつての日本には「冠婚葬祭はセダンでないと」という風潮があり、それも乗用車の中心がセダンとされた理由のひとつでした。
他社は『予算はいくらですか?それに合わせて解体費用を計上しますよ』の一点張りでコスト推しでしたが、もふもふライオンさんは『本物件の解体費用で絶対にかかる費用は〇〇と××で、それだけは絶対に下げられません。理由は▲▲で、それ以上下げたら、雑な工事になって、御社に迷惑をかける。なお、工事を行う上で、発注者である御社にお願いしたいことは〜〜〜』とコスト面の限界値を教えてくれるだけでなく、発注者として気をつけなきゃいけないポイントを教えてくれました。
弊社では、今回のプラントの解体工事はトラブルなく進めるのが第一で、費用だけで判断するのは危険と思っています。
座ってやるレジとは基本的にベルトコンベア式であり、客がベルトコンベアに商品を置き、レジ係はその商品をスキャンして、そのまま横に流す(画像左下の台のところ)。
一方、ドイツでも薬局や本屋のレジにはベルトコンベアがない。
日本のスーパーのレジは基本、客が商品を入れたカゴを持って行き、レジ業務担当者はカゴから品物を取り出してまたカゴにしまうという上下運動。上下運動をするのなら、立ってやったほうがいい。
ちなみにベルトコンベア式は、客がレジでベルトコンベアに品物を乗せ、会計したあともレジで直接鞄に詰めるせいで、日本のレジよりかなり時間がかかる。
日本のスーパーの混雑具合はドイツの比ではないので、実際ベルトコンベア式にして座って会計したら、業務が楽になるどころか長蛇の列ができてよりしんどくなると思ったほうがいい。
寝てないと「自虐ユーモア」や「悪口」の言う頻度が増える
nazology.net/archives/146357
米OSUの研究で、自虐的ユーモアや乱暴な言葉遣いの使用頻度は寝不足で睡眠の質が低下している人ほど増加する証拠を発見。実はこれが眠気の疲労に対処するために役立っているという。
ベジータ襲来の後はズタボロの悟空さ無視して悟飯の心配してたから酷いと思ったけど、もしかしたら
悟空なら重傷でも生きてれば何とでもなるみたいなの頼の表れだったのかもしれない。ラディッツの時は失神したし
このシーンは本に好き&感動。過去にベジータと戦ってボロボロになっているのに労りもしないとか、チチが悟空を蔑ろにしている場面が多かったことが絶妙に味を効かせているんだなぁ。
マジで凄いのよ x.com/batapys1/statu....
チチは悟空が世界一強くてどんなことがあっても家族を守ってくれる男だと信じてるからどうして悟飯に修行させるのかわからなくてセルゲーム前イラついてるのよ。このシーンは死んだことがじられない、そんなに危険ならどうしてちゃんと話してくれなかったのだという後悔が2コマで伝わってきてすごい
ドラゴンボール、「ドラゴンボールで生き返る」みたいな命の希薄さが取り沙汰されるけど、ナメック星編までは争奪戦の様相を示しているし、ポルンガまでは複数回の蘇生は行えなず、本当に蘇生が気軽になったのはセルゲームくらいからだから結構的を得ておらず「舐め」に近い概念だったりするよね
そもそも鳥山先生は描こうと思えばこのトランクスの感情の爆発をノーセリフで描ける人なのである
中国で上野千鶴子著書が大ヒット ー 若い女性共感、社会現象に
中国で上野千鶴子著書が大ヒット若い女性共感..
セル戦で悟空が死んだことを知らされたチチを描いたほんの数コマとか凄いからね(数コマで済ましていいくだりじゃないけど数コマに感情が詰まりすぎてる)
「大好きなじいちゃんを踏み潰して殺したのは自分自身だった」とかいうトンデモ真実を知らされたことによる感情の処理が1コマで終わってるの、ドラゴンボールの作劇の異様なドライさを感じる
式子内親王の「玉の緒よ絶えなば絶えねながらへば
忍ぶることの弱りもぞする」はなんと情熱的な歌であることよと若い頃は思ったが、歳とって、またこの歌の背景(題詠)も知るとなんとも芳醇なアイロニーを覚える。アイロニーの豊かさは、老いて知る文学的な価値の一つ。
浄土真宗の本質は、教義よりも、お聴聞の集会にあるんだろうな。
浄土仰全体にも、この集団性が重要なんだろう。
これやってると、「一人で生きていけないほど弱いのに限って人付き合いを避けたがる」があっという間に完成するのですよね。それでも大丈夫だよ!というのが20世紀福祉国家の最高の夢だったはずなのですが、どうもそううまくはいかなそう。
「わざわざお礼を言われるのも対応が億劫なので自分が何かした時にも特に挨拶は要らないとおもってるし、なので他人に何かしてもらった時にもお礼は言わない」みたいな性格、中高年に多い気がしますが、あっという間に孤立するので、本に気をつけないとなと思います。
ドラえもんの最新映画、「やっぱ良き政治秩序は礼楽とともにあるよな」というなかなか思想の強い内容でした。音楽が途切れると「ノイズ」が入り込み、世が乱れ、文明が滅ぶ。
人付き合いが嫌いな弱い個体の生存可能性、抽象的なナショナリズムに支えられた強力な福祉国家以外の場所では極めて低いのですよ。アナキズムが全面的に現実化したら一瞬で死ぬ(もちろんリバタリアニズムでも)。
♯皆知ってる感覚の絵
押入れのたたんだお布団の間に腕を突っ込む。
ヒヤッとして、やんわり押される感じ。
快感。
先輩「段落の先頭を字下げしてくれる?」
後輩「はい(ポチポチッ)」
先輩「スペースキーを押さなかったのは君が初めてだ!」
彼らのリアル(?)をいつも見ているからこその成長というか、思春期の葛藤がなんの説明もなくスッと読めるのがすごい。のび太がのび子になるのも何故か納得できるし、成績が上がる様も女子特有の真面目さみたいなのが納得できる(この辺の感覚も繊細)
F先生嫉妬するやつだな。
遠い昔に経験した気がして涙出てきた気じゃなくて確実にあった、私にも境目が
女の子だから気をつけなきゃいけないとか、今まで通りではいられないことが出てきて、なんで?って思った事のあるあの頃の自分を見て涙出てくる
中学生ぐらいから急に男女を意識しだす空気も、スカート履かないといけないのも、生理などの身体の変化があるのも、怖いよね。
この時期って本当にそう。
でもだからって心が男性とかじゃなくて、身体の変化と社会が求める女像が受け入れがたいって感じ。
自分もかなり悩んだなぁ。
ドラ退去後ののび太は二次創作としてはよくある題材です。出木杉にのび太に対する特別な感情を読み取るのは比較的標準的な原作の腐女子読解であるわけです。そこにやおいとしてはありふれた道具立てであるTSを絡めた、と整理すれば普通のやおいであろうと思われます。
あーこれどっかのスナックで歌うとママに千円取られるやつだ (」・(・)」
電通時代、上司に嫌々連れられてきた会食後の二次会カラオケ。本当に嫌だった。なので、周囲が入れて盛り上がった曲をカウントし、上位曲をメモしてやり過ごしました。その男性歌手
verがこちら。カラオケを予期したら、前日にこのリストの曲を予習して乗り越えましょう。
階級/階層に見合った社会的貢献の義務をめぐる文化が喪失された結果、「実家が太い」が単なる罪悪感になってるのは誰も幸せにならんなあと思う。降りる気もないんだったら罪悪感持つ前に還元しなよ。取り壊されそうな古い洋館を買い上げ、誰も買わない若手の絵を買い、誰も読まない論文を書きなさいよ
私ADHDでASDですけど、たぶん定型発達らしい人のほうが人間同士の距離感がどう見てもおかしい
ような感じでめちゃめちゃ気持ち悪くなることあるよ。私はお前のお友だちじゃねーのになんで私の内心とかを推測してアドバイスできると思ってんの?
そんなに他人に興味があるとか気味悪いぞ?
心療内科の先生日く、
気分が沈みやすい人は、「自分のこと」を考える時間が長い傾向にあるらしいのだ。
小さい頃、中学・高校の頃、社会生活での辛い思い出を遡っては、ネガティブな感情に押しつぶされそうになるのだ。
病みたくないときは、「楽しいこと」「好きなこと」を考えてみると良いのだ。
ミツ夫がいなくなって1週間後のお仕事でした。
♯星野スミレ
♯パーマン
#藤子・F・不二雄
「学生の頃、友達が全くいなかったと言えばそういうわけではないけど定期的に連絡を取るのが死ぬほど苦手なので人間関係が消滅していく。最近、仕事以外でコミュニケーションを取ったのはXの人たちばかりで✕なかったら孤独死してた。」
今の人に多いらしいのだ
災害で壊れてしまった家屋や家財を「ガレキ」と呼ばれるのは被災者にとって辛いことだと神戸の時も東日本でも熊本でも聞いた。今回も聞いた。ガレキは直前までの大切な思いが詰まった家屋であり家財だったのだと少しだけ認識して頂けたらいいな。その意味で生まれた「被災財」という言葉は優しい。
TPOわきまえられない奴は何やらせてもダメ
サムアルトマンもザッカーバーグも日本政府と会う時はこれよ
これ逆に見たらブリッジしてるムスカにしか見えない
先制のスリーラン
⇒フリーレン……
ブライアン・グリーン「水が重力に引っ張られて、穴から吹き出てる。でもアインシュタインが正しければ、ボトルを落下させれば水は重力を感じなくなって吹き出るのをやめるはずだ。確かめてみよう。
3、2、1...」
万人が完全に遵守できないような厳しいルールを作ると、権力者(執行部)がダメージを与えたいという属人的動機が先にあってその道具としてルールを用いるというあり方(恣意的な法適用)が常態化するんですよね。国立大学の懲戒関連ニュースを見てのただの感想ですが。
⇒かといって、「普段は眠らせておく法律」という方法を取らない場合、「ずるく隙間をすり抜けていた人」を取り締まる方法がないというのが、村人的には気分悪いよね。
ソファー側の席に真っ先に座ろうとする息子に「まずは女性陣に勧めるもんだ」と注意したら、娘に「なに古臭いこと言ってんの!」と言われた(と言いつつ自分はソファー席に座った)。難しいものである。
同じX上だと争いになるが、さりとて鍵垢だと卑怯な感じがするので、その中間の距離感でみたいなことなんだろうか。
青空やマストドンを試みに覗いてみると、誰かのX
上の呟きを取り上げては批判をくり広げることばかりしている人を見かけるが、こういう人は結局Xが大好きなのではないか。
バズとかいう評価基準が蔓延したせいで他者の共感
だけが正義みたいになってるが、ワシらのような老いたオタクは誰にも共感されないような趣味や自分だけがわかる価値を大切にしてきたはずなのだ
僕らは創造せずにはいられないのだとしたら、特に過剰なエネルギーを抱えている現代においてその傾向がより強まっているとしたら、何かをつくることが抑制されている状態はわりと危なっかしい気もする。
世の中には「自分から言っても良いが他者に言ってはダメ」な言葉は多いが、それと同じく「他者なら言ってもいいが自分から言ってはダメ」な言葉もたくさんあるよな......
⇒注:他者に言ってはだめな元々の話題は、「男なら死ねい」とかだと思われる。
私は「やんちゃ」て言葉がそうだと思いますね。
あれは「幼さ故に人に迷惑をかけたこと」を周囲の人間が許してやる言葉だと思います。なので自分で自慢げに言うのはちょっと......。
で、考えのレパートリーを広げて相互理解の可能性を高めてくれるからこそ、ありとあらゆる教養(と呼び得るもの)は読書、アニメ、ゲーム、漫画、絵画鑑賞、いろいろなものにプラスの修正ボーナスを与えてくれる。通俗的な目的で教養を集めても、いつの間にか教養が集まっても、ボーナスは得られる
確かに、世の中で教養と呼ばれ得るものはなんでも(注:学問的なものには限らない)、考えのレパートリーを広げて相互理解の可能性を高めてくれますね。/"「教養は大事」と諭された日のこと"
ドイツ軍占領下のポーランド、レジスタンスが頑張れば市民の村が報復で焼かれる、頑張らないと一般市民がドイツ人の入植のために強制追放されてドイツの労働力になるか死ぬ、みたいな戦場なので、ソ連ほど人命を安く考えていない国内軍が積極的な抵抗に流れなかったのもうなずけるしんどさ
断定を避けながら、論述の手続きによって一定の説得性を確保した主張を行う。これが人文学の基本的運びである。
わかりやすく書いていないという文句はあるわけだが、他方で、十分なわかりにくさで書いていないという文句もある。しかしいずれにせよ、そんなことを気にしてもしょうがない。
中卒高卒大卒、全員と働いてて思うのは、
大卒の方が
犯罪を起こさない確率
勤務時間を守っていられる確率
文字を読める、会話が成立する確率が高い。
総じていうと雇いやすい。それだけ。
銀行員だった父が「皿は洗えば綺麗になる..」と言いながら皿洗いをしていたのを思い出しました。
父が「パパの仕事はおっさんの我儘と別のおっさんの我儘を仲裁すること。こんなことになんの価値もない。だから植物が好きなんだ。植物は何も言わないから...」みたいなこと言いながら花に水をあげていて
上司は「やる気」「自信」を見ているんだけど、事者は「理論」を伝えようとしてすれ違っているパターンだ
割とよくある
企業は約束(予算)を守れる奴を評価するわけで、そこにはコミットメントの宣言が必要
これが不確実性を前提とした議論と全くかみ合わんというよくある話
建物の倒れ方がゆっくりに見える理由、大きいものの動きが遅く見えるだけでなく、「スケールが変わると慣性モーメントは大きさの二乗に比例して増えるから」という要因もありそう実際に試してみたら、同じスケール比の球の落下速度の差より、直方体の倒れる速度の差の方がずっと大きくなってた