2024/2/21-2024/2/25
光る君へ、を、ちらっと見てたんだけど、屋敷や殿中が意外と原始的というか貧乏というか、過剰にきらびやかに見えないのが謎に良かったな。その一方で、着ている服はカラフルさがかなりある。当時の紡績や染色の技術で、あれだけできたのだろうか。
▷黄蓋だよね。
最近ちょっと、Xのおすすめタブを見ちゃってたけど、やっぱりだめだね。
関心や価値観の近いものは確かにあるけど、あれをあさるのは、充実感や落ち着きがどうしても削られる。
▷RT @CTsuchinoko: 会議が控えてると、その20分くらい前から「集中力を要する作業」ができなくなる。 なんでって?集中してると会議すっぽかすからだよ!! もちろんプログラムもできない。
▷「どうせ分かり合えっこなんかない」という思いを、わかりあう。
▷第3回。番組内でも、『虐殺器官』を引用するのか。
▷でも、暗号化通信で会社のネットワーク内のファイルを操作させるのはありだけど、外部サービスがメインのAIは持ち込ませようがないから、会社側がお金を払ってセキュアAIを準備するしかない気がする。
▷ブリングユアオウンai(BYOAI)、なんかヨアソビ感がある。
▷RT @rootport: 功利主義のバグ技の1つとして、「俺は感受性が強くて、普通の人の1000倍強く幸福や苦痛を感じることができる。だから、たとえば500人を不幸にする方法でも俺1人を幸せにできるなら、人類の幸福の総和は増すよ」という主張が可能だ……って話を知ってゲラゲラ笑っている。「功利の怪物」と呼ぶらしい。
もちろん「プラカードを掲げる型の政治的振る舞い」というものの重要性が無くなったわけではないんですが、一方で、「応援するチームが延長戦でコレ失敗したら敗けるというシーンでファーストダウン更新に成功した」事で狂喜乱舞”してみせる”ということもまた『非常に政治的な』振る舞いなのだ、という視点が重要なのではないかと。
そういう部分でラポール(相互信頼関係)を築いていくような活動を積み重ねる事によってのみ、「重要なタイミングでほんの一回だけ」の政治的メッセージが深い意味を持ったりもする。
中国で肥満と前段階の過体重の総人口が米国を抜き世界最多を独走中だ。国内メディアは6億人と推計し「全国総肥満の勢い」と注意喚起する。
⇒黄色人種は太りにくい、ってわけではなかったのか。
モッズとは元々イギリスで生まれたファッション文化のことで名称は「モダンジャズ」から由来します。 モッズたちは深夜のクラブにバイクで向かうのが日課。その際にお気に入りのスーツが汚れることを嫌った彼らは当時、流通していたアメリカ軍の卸品であるM51を泥除けとして羽織っていました。このことから「モッズコート」という呼称が誕生しています。 ちなみにモッズコートは米軍M51モデルとM65モデルとの2デザインに分類されることが多いのですが、両者の主な違いはフード。フードがボディについたままのものがM51であり、新型であるM65はフードが脱着できるのが大きな特徴。
次に内省的であることです。何かを話すことに時間をかける人、あるいは自分が話したあとに「うん、そうだ」とか「いや、違うな」と判断できる人。言い換えれば、自分が何をいうのか、自分が何を言ったのかに注意を払っている人です。概ねそういう人たちは、論理が必要とされる場合には論理的になりますし、情感が必要なときには情緒的になります。コンテキストに合わせた発言が選択できている、ということなのでしょう。
この二つが揃うだけで、かなり「頭のよさ」感が出てきます。
もう一つつけ加えるとしたら、行動的であることがあります。別の言い方をすれば「決められる」こと。
あるいはそれが「賢い人」の最初の入り口であり、ずっと続く門だということもあります(稲荷神社のイメージ)。
何かへの反応なら、「ここまで言い表せば十分である」というラインが見える。対象と程度が明らかになる。そうではなく自分の中から出そうとしている場合には、対象があやふやな上どこまで言うべきかも自明ではない。
何かをきっかけとして、その後たくさんのことを自分の中から取り出せることはある。思いがけない規模になることは少なくない。そういう時に「自分の中から取り出している」という感覚が強いと、小さくともきっかけが確かにあったことを忘れてしまうことがある。いつでもそのくらい自分の中から取り出してこれるような気になる。
要はほどほどの距離の多様性が必要だろう。思考の相性が良く(つまり言っていることがすんなりわかり)、かつ自分では思いつかないような話をしてくれる存在。そういう人や場、読み物を見つけておいて日常的に巡ることが自分を停滞させないためのひとつの要になる。^_^
原作の学園祭ライブ掲載後、後藤ひとりの2本目をパシフィカに設定した理由は学生価格・22f・トレモロ・P90合わせ等の条件からです。アニメ放送前にYAMAHAさんが一度ぼざるを話題にして下さっていますが、今となっては作品名を挙げ、作品も楽器業界も盛り上げてくださるの感謝しかありません
独身女性、40代に突入してもう結婚出産はしないんだな、と会社に判断された途端に”みなしおじさん”として扱われるんだよな。このみなしおじ状態になった女性はほぼみんな現実を受け止めきれずに挙動がおかしくなる。下に異様にきつくたりだしたり自分探しに会社を辞めて大学に入りなおしたりする。
さらに言うと、「暴力装置」は、un appareil deviolenceで「appareil」という言葉には、「準備」、「装置」、「器具」、「機構」、「組織」、「調合」などの意味があり、料理においては、「材料を混ぜ合わせて作るもの」という、アレです。
従来の自由恋愛というのは、ほとんどの場合、関係性のなかに波乱を持ち込み同意を(時に事後的に)
「調達」していく作業だったわけですが、今やその種の行為は危険かつ野蛮と見なされつつあるので、リスク回避傾向の高い個体の選択肢には上らなくなっていくのでしょう。
マッチングアプリはアルゴリズムお見合いだとすると、お見合いの時代の復権ですね。
今やマッチングアプリで相手を探す方が倫理的に正しい時代なのかもしれませんね。私の世代の直観には反してる気がするんですがもろもろ考えるとそういうことに。自分の時はそうじゃなくて良かったと心から思いますが
そんな現実的な話じゃなくて、衣食住に不安がなくて生活に一切の不安がなければ皆政治にも選挙権にも興味もたない、ぐらいのイメージで話してました
まあそのレベルなら僕も同意するとこもありますが、実際アメリカはまあまあ好景気で世界一の経済なのに分断激しくて困っちゃってるわけなので、何かこういうコミュニケーションが必要だよね、というのは無理もない話なのではないでしょうか。
山崎正和とか浅利慶太の謎の偉さと同様に、文藝評論家がどうしてこんなに偉そうに天下国家を語っているの?というところからして現代から見ると分かんないところがあるらしく若い人にはなかなか入っていかなかったりするのですが、こっちとしても「そこがまあ20世紀なのよね」というしかないのよね。
「妊娠中の恨みは一生忘れない」ってよく言うけど、夫が「妻のつわりが酷くて心配だから」って飲み会や趣味のお誘いを断ってたのも、「いざというとき車を出せないと困るから」って禁酒してたのも一生忘れない。自分事で考えてくれる姿勢や「2人の子どもなんだからたり前」って考え方が嬉しかった。
今となっては謎扱いされたりこっぴどく専門家に批判される文藝評論家の「偉さ」(これは「知の巨人」にも通じている話だと思います)が今や殆ど全く消失してしまったことは、19世紀中頃から20世紀末まで続いた近代のメディア構造が最早消え失せている証左でもあるのでしょうね。
藤子F不二雄先生か星新一先生が偉大過ぎるって話
宮台さん全盛期にオタクとかセカイ系とかいうのもいろいろ大変だったんだぜ
とか記すと、昔は「おまえみたいな甘えたマザコン優等生くんには宮台さんの男の魅力がわからんのだ、まずはナンパしろ」とか言われたものですが、それって単にグロテスク。キャンセルとかフェミとか以前に、日本の言論はそういうくだらん美学とは手を切ったほうがいいですね。
宮台真司さんのいいところは別にあって、彼のナンパ自慢を持ち上げた環境は彼にとっても不幸だったと思ってます。
僕は確かに宮台真司氏の読者ですが、彼のナンパやセックス自慢を賞賛したことはないと思います。その点ではむかしから彼への態度は変わっていなくて、そっちは違うぞと思っていた宮台さんの部分が退官時点でも目立ち続け、残念だなという思いです。
「ADHDは狩猟採集文化において利点があったのではないか」
theguardian.com/science/2024/f..
茂みの中のベリーを探すゲーム(穫れば数が減って次の茂みに移ることができる)をやらせたところ、ADHDの人とされる人のほうがひとつの茂みを探索する時間が短く、結果的には収穫量が高いという実験なのだそうだ
マクロな問題を話しているのに「自分はこうして(自分だけ)その問題を回避している」とミクロな解決法を提案してくる人は多い。
逆に、局所的な個人経験を話してるのに、なんか社会通念の話をぶん投げられるケースもあって。
むしまる(本家) @fudesakisanzun・2日
貧困問題の話をしているところに、節約術の提案をしてくる人は本当に多い。
複座式のロボットって実は少ない。(例外はゲッターとかメカンダーとかの合体系)戦闘機ですら複座式なのに。より複雑な操作系となるであろうロボット兵器で複座式というのは説得力あると思う。
ポケモンとかゴジラとかマリオとかジョジョとか初音ミクとかドラゴンボールとかドラえもんとかナルトとか進撃が世界中の子供やら若いのに大人気だが、作った人らは地方の公立でのほほんと育ってて、特に富裕層でもなく、大学も行ってなかったりするわけで、これって日本の教育の質の証明だよな
アジア的な徳治観念で、憲法を契約の延長としてではなく、なにがしかの「道徳」の在り方として見てしまうみたいな辺りが、ズレを生む面はあるのあも知れません
王制というのは貴族があって成り立つもので、日本の天皇制を支えてるのは小規模な宮家と官僚と憲法だけ。王家の資産も実質、ないし。
ある種のカリスマ性はあったかもしれない。5.15や2.26の時は怒って譲らなかったし、終戦も誰も決断できないので、「御聖断」へ動いた。
「立憲」って王制のありかたで、まあ、日本は君主国だからそれでいいんだけど、なんか、しかし、そう理解されてなさげ。
⇒「この規定の中でいるのなら、引き続き王様でいてくれてもよい」と、人民議会が突きつけるのが、立憲政治か。確かにそうかもしれない。アテネの民主主義(奴隷や女性のことは置いておいて)に、憲法が必要だったかというとなくていいかもしれないもんね。なんなら、法律もなくてよく、都度都度に人民裁判を開いて解決するんでも成立するかもしれない。
18歳息子が友達に呼ばれたとホイホイ出かけたので進路決まった途端に浮かれてからに...と思ったけど、浪人が決まった友達を慰めるために集まって桃鉄100年やる会だと聞いてそれは止めるわけにはいかないねえ
ついでに言うと、僕はショウジョウバエの受精卵を一つ一つカバーガラスに乗せて実体顕微鏡の下で卵殻をむいてました。酸で尖らせた金属針を使ってむく。取り出した受精卵に蛍光タンパク質をインジェクトするため。この作業は、コーヒーを飲むと手先が100kmほど震えて、6時間できないことがわかった。
これは変な笑いが出るほど超絶技巧過ぎる。
でも、科学実験の最先端ってこういう個人の技能で進んでいくのがあるんだよね。私の分野だと、10umほどの微結晶を不活性ガス雰囲気下で固定してX線結晶構造解析しちゃうとか....(私には無理ですw)
どえりゃーことが、書かれてた。
「織田信長・豊臣秀吉と尾張出身者が二代続いたことにより、京都の言葉が尾張の方言と混ざって変化したとする史料(『名古屋方言の研究』p.9-10に引用あり)があります。」
レファレンス協同
データベース
Collaborative Reference Database
これ、80年代アジアに日本が工場進出したのとまるで同じ構図。
本当に貧しくなったんだよ。
あと、ちくま新書の本多真隆『「家庭」の誕生』
もあまり話題にならなかったのが不思議なくらい面白かったです。
現在は保守的なニュアンスさえ持っている「家庭」という語が、かつては進歩的・革新的な知識人たちによって、イエに支配されない、夫婦を基盤とする家族を示す言葉として使われていた→
イギリスでは政権交代を起きやすくするため野党にだけ交付金を支給。
民主主義にとって政権交代は必要。
長期政権は腐敗する。
いつでも取って代われる政党を育てておく必要がある。
>子供を育てると親の子供時代の心の傷もえぐられる
児童精神科外来でよく伺う話です
かれらも新しい世代の人たちはネイティヴアメリカンという名前の方を普通に受け入れていくのだと思うし、より良い未来のために交代時の世代には苦しんでもらいますという態度もありうると思うけど、こういうことは基本的には暴力であることが理解されたほうが良い
アメリカ合衆国の先住民が「インディアンという名前がアイデンティティとして定着してきたところなのに、ネイティヴアメリカンへの呼び替えでまた名前を奪われた」みたいな話をしてるっていう話があったけど、本にそれでしかない
歳の差漫画を上げると拡散されるほど何とかこの漫画を消させようと色んな引用がつくんですが、まず創作物であることを理解頂きたいです。
こちらも様々配慮して描いています(性描写を入れない、お互い相思相愛である、両親も応援してる、他)
旦那と初めて会ったとき......うーん...
「中学生だからそろそろお付き合いというものを経験しておきたい。隣の席のこの人なら、趣味も話も合うから、いけそうだな....!」
と、失礼なことを考えてました。
「中学生なんて子どもだから、このうち別れるんだろうな。最初の1人だからそんなもん」
とも。
職場の先輩ママさんたち、1歳のお子の話を「可愛い時期よねえ~」「何しても可愛い歳よねえ~」
「うちにもそんな可愛い時があったわあ〜」「懐かしいわ〜あの可愛さはどこへ〜」って相槌打ちながら聴いてくれるけど全員顔に「なんてね、今も可愛いけど」って書いてある
前近代社会を群体として生きる人たちと現代社会に包まれて個人主義に生きる人たちが械闘したら前者の圧勝なワケでして現代社会側がそれを防ぐには公権力の介入しかないのでこれから本邦が向かう先には察国家or自自衛の二択という恐怖の予測、文化間コンフリクトから生じるコストは算出不能なのよぬ
前近代社会をヨーロッパの近代社会が圧倒したのはそのナショナリズムによる非人間的なレベルの圧倒的な動員力にあったので、その非人間性に疲れてナショナリズムを解体して個人主義を優先していけば
本来の強みが失われて前近代社会の動員力にすら負けるというのは普通にあり得るわけよね。
未知の状況に応用できるかどうかだと思います。たとえば「ボンゴレに大葉を載せると美味しい」「生牡蠣にレモン汁を絞ると美味しい」という個々の知識を持っているだけなのか。それとも「大葉やレモン汁には臭み消しの効果がある」と理解していて、初めてウシガエルを調理するときにも応用できるのか。
この見事さを見て思い出したのは、『ガールズ&パンツァー」のあんこうさんチームだ。みほの代わりに沙織が恋に焦がれる女子高生をし、みほの代わりに華が家元の娘として自立し、みほの代わりに麻子が歳相応の怠惰さを楽しみ、みほの代わりに由香里が戦車を愛でる。代演である。
葬送のフリーレンの作劇は見事だ。フリーレンの代わりにフェルンが成長し、女の子から女性になり、恋をし、怒り、感動し、戸惑い、笑う。フェルンの代演を通して傍観者であったフリーレンの人生に血が通い、実はフリーレンも事者であったことが「回復」されていく。
ここのキャラクターとして視聴者は観ているが、その心象には統合された人格としてのあんこうさんチームがある。これはフリーレンのような一個の実存の回復の物語とは異なるが、作劇のナラトロジーとしてこのような方法論が漫画やアニメで使われるに至ったことは大変に喜ばしいことだと思う。
「挨拶や礼儀作法は心理的充足のログインボーナス」これ本当にそうなんですよね。子どもの頃はこれにほとんど気付かない。心理的充足で最い強い人ってのは凄いアチーブメントをとおして充たされるタイプじゃなく、このログインボーナスで十分充たされるタイプだと思います。
そういえば、最近、小3息子が年に2〜3回しか会えない、両想いの彼女に会う日でして。手作りのチョコをいただきました...!
年中の夏に引っ越しで離れ離れになってから、もう4年。
まだ、予定が合うなら会いたいという気持ちで双方いるようなので...。温かく見守っています。
両想いの女の子から手作りのバレンタインチョコをいただいた小3息子。
次回またいつ会えるかわからないので、公園での待ち合わせ前に書店に寄って、お返しを選ぶように言うと、しばらく悩んで
『葬送のフリーレン』一巻を選んできた。
「今僕が好きなお話だから読んで欲しい」とのこと。
G1サミットで沖縄に来ています。多くの学びがあるが、「メディアは権力から独立するだけではなく、大衆からも独立するべき」という言葉が刺さった。人々が喜ぶものだけを出すのではなく、伝える価値のあるものを出してもらいたい。
⇒「耳に痛い言葉にも耳を傾けなければならない」「厳しい現実を直視しなければならない」はそうなんだけど、人目を集めやすく、不安を煽ってバズを呼びやすいから、報じるインセンティブがかかっちゃうのもまた、ネガティブニュースなんだよなあ。
ガードレールには「車両用防護柵」と「歩行者自転車」があり後者は人が歩道から出ないようにするためでクルマの衝突を防ぐ力はない。知らなかった.....。/「歩道に突っ込む車を防ぐ"柵”」←違う!歩行者の巻添え事故相次ぐ 国民が誤解している日本の道路の作り方 trafficnews.jp/post/
「ポリコレによって過去の歴史を否定する」という最近の悪しき傾向への強烈な皮肉になってるよこれは.....。/GoogleのGemini Al、多様性に配慮して「黒人ナチスドイツ兵士」や「米国建国を率いた黒
人政治家」画像を生成してしまう techno-
edge.net/article/2024/0...
死の欲動とは、エネルギーが衰微して死に向かうことではない。まったく逆で、生きるためのバランス調整を超えて、どんどん自動運動が展開し、結果的に身体が破壊されることもいとわない、ということ。つまり、死の欲動が強いとは、めっちゃ元気だ、ということを意味する。
EUが今推し進めているリターナブルじゃない容器
全面禁止方針、高温多湿の日本でやると確実に食中毒祭りなので、絶対に日本には入ってこないし導入してはいけません。生鮮品の量り売りは、保健所が意図的に撲滅しました。ドレッシングでさえ、客の持ち込み容器に入れようとすると行政指導が入ります。
趣味(Hobbies)娯楽(Entertainment)食べ物(Food)環境(Environment)。環境はあれじゃなくあなたの周囲の状況のこと念のため。政治・宗教・環境問題は避けるのが賢明ですねえ。/雑談が苦手な人は、誰でもすぐ使える「HEFEメソッド」
を会話の糸口に
生きるということは、必ず何かに重みづけをするということ。重みづけをサスペンションにすると時間が止まるわけで(それを作品にしたのがルイス・キャロル)、それが思考なのだが、それは生きることに反するとも言えて、極論すれば、そこには「死的」なものがある。
人は、とくに若い人は、他人が価値観を提示するだけで反発する。僕もそうだったからわかる。それで根拠を掘り崩そうとする。それが任意に可能だということに気づくには長年の勉強が必要となる。それがわかると、ひとつの価値観を言うのは、まあ、しようがないとなる。
e-Tax、PCにリーダー繋げてやると本当にクソなので残念ながら税務署行った方がマシなので、文句言ってる人に共感できてしまうんですよね。税金返して欲しい。スマホのマイナポータルアプリでマイナンバーカード読み取り+QRログインはそこそこ
スムーズなので全ての確定申告する人に知って欲しい。
短期間で前任者のクビが飛ぶような仕事、実はかなり美味しい。まぁもうこれは好みみたいなもんですが。2000万超えた時も3000万超えた時も、そう言うポジションだった
短期間で年収上げるのは簡単で、誰も拾わない、みんなが誰かがそのポジションに収まって失敗するのを楽しみにしてるようなところに飛び込んで、2、3年生き抜くだけでいい。難しい?誰がやっても上手くいく仕事で目立つのとどっちが難しいかは結構
議論分かれるよ。
最近読んだ本で、「資本主義はリスクを絶対に取りたくない人から、リスクを取りに行ける人がお金を集めていく社会」って書いてあって納得した
政治や思想で疑問を抱いても、「どこに即死の地雷があるかわらからない」→「やっぱ触るのやめとこ」となってる人多いと思う。
知らないこと、素朴な疑問にたいする心理的安全性をもっと増やす設計にできればいいのにと思う。未知の即死スポットが多すぎることが、人を排除してしまっている
査読論文の一本もないけど、その人の語ることは(それへの賛否はともかく)一応傾聴に値するだろうと多くが同意するような人物がいるという感覚は、ある時期まで自明だったわけです。
アカデミズムとジャーナリズムと文芸界隈の三方の入会地というか汽水域が漸次縮小傾向にあり、そこに生息する生物が絶滅の危機にあることと、「知の巨人」呼称のインフレ傾向と(笑)が後ろに付いてしまうあの感じとは明らかに対応してますね。個人的には残念なことだと思っております。
小林秀雄、福田恒存、吉本隆明、江藤淳、柄谷行人...に対応する人は確かに存在しないかな。内田樹、東浩紀だとちょっと...
「謎の偉さ」で連想するのは、やはり戦後の一時期に"総理の指南役""政界のフィクサー"等と呼ばれてた人たち。裏金やヤクザ使えるタイプの方ではな
く、安岡正篤や瀬島龍三ら「何やら含蓄ある言葉をつぶやくと、勝手にひれ伏される人」の存在は、本に謎。教養がたり得た時代だった、ということか。
安岡正篤や瀬島龍三の謎の偉さは、政治学を考える上でもとても大事だと考えています。前者は権力者は孤独なので、ブレーンのみならず「メンター」をも必要にするという部分ですね。
後者については、もう少し政治史的な関心で、戦後政治史の「裏の総合調整」を誰が担ったかという話ですね。たとえば第二臨調を考える際には明らかに欠かせない人ですので。
自分にとって価値のあるものは、基本、マジョリテイに通じないというのは、子供のころからわかってもいたが、それでも世の中のほうに歩み寄ろうと、けっこう無駄な努力というか、空回りしたなあと思う。
まあ、別段、そんなの読まなくてもいいと言えばそうなんで、というか、そういうの読まない多数の人と生きるのが、この世に生きる事かと、改めて思う。
自分にとって、『カラマーゾフの兄弟』『失われた時を求めて』『源氏物語』とか、最近では『豊饒の海』とか、まあ、それを読まなければ、人生の意味とか考える前提として、そもそも意味をなさない前提のように思うけど、こんなの読む人とか、ほんと少ないんだなあと実感するようになった。
男においてもそう。たとえば、『おちんちんパワー』で失敗した男に対して、多くの男は「自制心が足りないだけ」と考える。でもそこには「そもそも自制しなくてはならない性欲の大きさ」という未知数の違いがある。性犯罪をしなくて済んでいる男は、もしかしたら「自制心がある」のではなく、「性欲がない」か「性欲を満たす環境に恵まれた」だけかもしれない。
そう考えると、一概に「自制心」で片付けられる問題ではない。シャブを気合いで辞められないのと同じ。このあたりの不理解が認識されないと、根源的な問題に対するサポートはむずかしい。
「わたしは女だけど努力してキャリアを積み上げた」というひとは、じつは生理がすごく軽かったりする。そして同時に、そういうひとほど「生理は甘え」と言じていて、じっさいにそう謳っていたりする。
「わたしは35歳でも子供が産めたし、子育ても体力的に問題なかった」というひとがいても、それは、そのひとがものすごく健康なだけだったりする。
「知性の低い陰謀論者のトランピアンをファクトチェックで掣肘しよう」みたいなムーヴメントを取り入れようとしたら、見事なまでに自分たちがファクトチェックされる側になり陰謀論者の特徴を指摘されるようになって、それを「息苦しい」とか言ってるわけですよ
「息苦しさの正体」って本、大まかにいうと「息苦しさ」という表現しかできないのが全てなんですよねえ。検関や言論統制だったらそう書くし嬉々として自分たちの正義を謳うわけですよ。自分たちが言いたいことを言いたいだけ言って、中身に批判されて反論に窮しているのを「息苦しい」と言ってる。
「うおー、全然眠くねー覚醒してなんでもできる!
明日も朝からやるぞ!!」
↓
「流石に健康にために寝よう...」
←
寝る
↓
起床
↓
「あー、なんもやる気しねー」
みたいな時はありませんか?
「どうか、もっと私がついていけないくらい、私があまりの気持ち悪さに吐き気を催すくらい、世界の多様化が進んでいきますように。今、私はそう願っている。何度も嘔吐を繰り返し、考え続け、自分を裁き続けることができますように。」(村田沙耶香
「気持ちよさという罪」)
ものすごい文章だ
J.S.ミルは、あの『自由論』の中で「統治者による専制への防護だけでは十分ではない」と驚告を発している。
つまり政治的権力だけでなく、社会による専制を戒しているのだ。
「だから、統治者による専制への防護だけでは十分ではない。支配的な意見や感情の専制に対する防護も必要である。→
→ 社会には、社会自体の考え方や慣行に従わない人々に対して、そうした考え方や慣行を行為規範として、法的刑罰以外の手段によって押しつけようとする傾向がある。社会の流儀に合わないような個性の発展を食い止め、→
→ できればそうした個性が形成されることを防いで、あらゆる性格が社会自体のひな形に合うように強制する傾向である」
私はミル的な自由主義が現代社会で通用するとは思っていない。
だが、2世紀近く前に書き留められたこの洞察には貴重な価値があると思い続けている。
推しを目の前にしたら「限界オタク」になるのが普通でそうでなければ愛が足りない...みたいに思ってわざとらしく「限界オタク」を装ってしまうオタクに、インターネットの誇張した表現を真に受けずあなた自身の正直な気持ちで静かに興奮しても良いんだよ、と誰かが言ってあげる必要がある
グローバリズムなんか白人が負ける思うたら止まるって俺の言うた通りになったな。
昔の映画で、恋人同士になると必ずセックスシーンやキスシーンが入ったのは、肉体的接触をすることによってお互いを深く理解し合えるという幻想があったから
今はそんなことはフィクションだってみんな知ってるので、その行為を作中で入れる意味がなくなってしまった
みんなひとりぼっちだ
アメリカの偽善の深いのは今に始まったことではないとはいえ......まあ、全部分かった上でうまくやっていくしかないのですが、折に触れて「お前らのやってきたことは何一つ忘れてねーからな、なめんなよ」という態度を滲ませていくのは大事なことかと思います。
愚行権と生存権両方を強めに保証しようとすると、最終的にフードスタンプにたどり着くのが今なら何となく分かってしまうな。
合理性、効率性の文脈じゃなくて、理念の文脈で考えると分かる。
愚行権、当人の責任を取れる範囲で自由にしろという話なのに、何で自由にした結果の失敗や被害を当人以外の誰かに拭かせようとするのか。
日本で愚行権を擁護する人、愚行権で目茶苦茶やった結果訪れる害は行政がなんとかしるみたいなスタンスの人が結構いるんだよな。
それは違うだると。
⇒まあ、私自身に関して言えば、損害を補償してくれないのなら、愚行なんてわざわざしたくないですね。
ミルの危害原理を社会に導入すると、真っ先に外向性が槍玉に上がり犠牲になるという構造がある気がするんだよな。
RP
外向性の高さ問題な気がするな。
昔は他の徳目が多少犠牲になってでも「高い外向性」を目指す意思のような物が社会にも親にもあったんじゃないのかと思う。
これからの時代、どうやって「外向性の高さ」を社会的に正統化していくかというのが課題になってくる気がするな。
中高年の方が行儀が悪く若者ほど思慮深い......という感想を見かけることが増えてきたが、チュニジアでも同じく。若いタクシー運転手、売り子、飲食店員、ガイド.....みんなアラブ的なギトさが薄くなった。爺は相変わらずだけど。若者の洗練化は西欧化国家に共通する現象なんやろか。そして少子化。
工業的に大量生産できる物はフリーライダーに渡す事も可能だが(それでも何かしらの対価を取るべきだろうが)、スケールメリットも働かず大量生産も出来ない物をフリーライダーに分け与えるのはその集団を死を意味する。
人的リソースの不足が発生し、それを解消するには労働者をしばく以外になくなるから
社会というのはどうしても動かせないポイントが幾つかあり、そういうポイントに関わる社会改良は、かなり矛盾したよく分からない仕上がりになる。
これはもう仕方がない。
基本的にフリーライダーは適宜シバいていく必要があり(そうしない社会はリソースを食い尽くされ崩壊する)、これは組織や社会の根本的な性質なので動かす事は出来ない。
だから、弱者救済というのは、大抵は救済される側を一段低い所に置く事で、シバきつつ助けるという感じになる。
フリーライダー、リソースの有限性、あたりに無頓着な話は実現すると大抵破綻する。
量産化、標準化、大量生産の概念が存在せず、手作りで人の温かみが伝わる製品しかこの世になかったら我々はほぼ全員農奴か乞食になる
「量産化、標準化、大量生産の概念が存在せず、手作りで人の温かみが伝わる製品しかこの世になかったら我々はほぼ全員農奴か乞食になる」
RP だから、今の社会で全く量産化の効かない介護などの仕事が増えると、社会が苦役塗れになるとずっと言っとる。
現代日本はこの全く機械化されてない、スケールメリット、量産効果の働かない苦役みたいな仕事に就く人を将来的に300万人以上に増やそうとしてるわけですよ。
人間の生活を底上げの意味で向上させるのは、敢えて対比させるとしたら質じゃなくて量の概念が司っているのだ。質の話は土人でも人食い人種でもできる。量とコストの概念を測って初めて文明人になる。何にでも手作りを求める都会人は一見文明人風ながら、実質は土人寄りの存在である
男からすると「色々引き受けてる人」は強い人に見えるが、女性からすると「色々引き受けて背負ってる女性」はむしろ弱く映るっぽい。
「女の目で見れば明らかに弱い女なんだけど、男の目から見ると強い女に見える」これは『女の子どうしって、ややこしい』を読んでる時にぼんやり考えていたが、どうも女性の中だと「責任を拒絶する事」がヒエラルキーの高さを示してるっぽいんだよな。