2024/1/17-2024/1/21
▷「そんなら、政党助成金を増やそうぜ」ということを言っている市民はどれくらいいるんだろうか。
▷単なる作者の声にキートン山田を当てた、当時のアニメスタッフの頭の中を聞いてみたい。
▷『思考を耕すノートのつくり方』を読んでるんだけど、紙の本にはめずらしく、「小さいフォントで脇の情報を書く」ことをやっている。 strongな部分を太字にするのではなく、マーカーっぽくしていることも相まって、すごくアナログな感覚になる。
▷(このマーカー部、白黒でよかったのかは、意見の分かれるところじゃないかな)
▷コーネルメソッドの説明が手書き
▷eMAXIS SlimはeMAXIS Slimなんだけど、先進国と新興国と日本をそれぞれ持つ運用にしてしまってる。4:2:4くらい? オールカントリーではなく……
▷ツイッターアプリがTLを読み込めなくなったので、投稿専用の単機能ウインドウみたいになってる。 ある意味気が散らない(ぉ
▷KPOPのダンスって、ダンスだからもちろん身体表現なんだけど、アメフト部の主将&クインビーみたいな身体感覚ではないよね。例外は例外でいるのかもしれないけど。
▷「人生ゲームでは、なんでお金を集めるのがいいことなの?」って、あんなもん、筐体STGのスコアと一緒だよ! 意味なんてないよ!
▷プレイヤー全体が、「あれをスコアとして扱えるよね」って一応納得してプレイスタートできるのなら、PV数だってRT数だって、なんだっていいんだよ。ただの比喩だよ。
▷総石高でも論文の引用回数だっていいんだよ。
⇒駅や空港の乗降客数だって、視聴率やレコード売り上げ枚数だって、株価の時価評価額だってよい。
▷※「人生ゲーム+令和版」は生産を終了しております。
いつものお札にかわって「フォロワー」を集めることがゲームの目的です。
スタートもゴールもありません
▷私が物語が好きすぎるのか、前衛的な文体、実験的な文体、みたいなものへの評価がかなり低くなることかある。読みにくくなるだけじゃん、って。
▷まあ、ギリでありなのが『ハーモニー』のあれかな。
▷「『最大多数の最大解釈』を、みんなが意図した結果、言語表現や文体が民主化してしまった」っていう状態、あるとするならそれでいいじゃないですか。
▷脳に電極を指して、そこからGPTに脳内イメージを伝えてから「これを言語化して」と頼むことができるようになれば、人類にとってまことにけっこうなことだろうし。
▷たとえそれが、最大公約数的すぎて、叩き台としてしか使えないものなのだとしても。
▷芥川賞、なんのかんの言って、発表された作者名・作品名を「覚えておこうとする」身体反射は直木賞よりもずっと強いんだけど、同時に、純文学ラベルが付くことで、「あ、これは私には関係ないな」という記憶カテゴリーに入ってしまうデメリットも発動すらよな。
▷まあ、知られすらしないよりはいいんだろうけど。
▷@hazuma ありがとうございます!迷いが晴れて没頭しやすくなりました!
▷2,3,4,6,7,11,12,13,15,16,19,20,21,22,27,29,残り4,残り3-1,残り3-2、あたりは正解できたしほぼノータイムだったな。 1とか5とか、だいたい覚えてても、ちょっと表現が不正確にしか覚えてないな、というのも多いかんじ。
▷ちょっと、『僕ヤバ』(7巻)を読んでいてこのまとめを思い出した。>ロングヘアの女の子のお風呂シーン絵で男性作家か女性作家か分かるらしい【お風呂に入る女性キャラが髪の毛をまとめてない問題】 togetter.com/li/909317
▷こんな感じで湯にひたってると。 pic.twitter.com/qJhjs1nQBc
▷ただ、その次のページではまとめようとしてるので、ある意味、むしろ止揚しているのかもしれないが。 pic.twitter.com/yqiFs0JWzv
▷そういえば、うちの子らはドラクエやFFをゲームとしては履修していないんですよね。 それで最近のなろうを含めたアニメなどの、ファンタジーパロディな世界を本当の意味で味わえるのか、とちょっと不安にはなりますよね。
▷ダイの大冒険くらい履修を薦めてあげるべきだろうか。
▷RT 文鎮、せっかくなので、180°左右対称のものだけでなく、120°くらいで(中心近くはより鋭角)、片方はカーブがよりきつく、他方がより直線的、という、「厚い本の初めの方のページ又は終わりのほうのページを読んでいるとき用」があったらより助かるかも。
コクヨ、「本に寄り添う文鎮」 分厚い本を開いたままに
▷いや、派閥解消ったって、徒党を組むのは人類文化的にそ🎯当たり前に生まれるので、いずれ戻ってきちゃう気がするな。
▷刑事罰って、広く見れば公権力による市民の自由権への侵害と見ることができると思うんだけど(正義の遂行という見方だけでなくて)、騒乱罪、国家転覆罪みたいなもの以外での、「市民同士で危害を与えたことの裁判を民事でなく刑事でおこなう」ことって、どう位置付けられてきたのだろうか。
▷つまり、それもまた、否定という態度で入らないほうがいい、と。
▷「目標」って、危機感を整理したものであっても、夢や欲望に駆動されたものであっても、イメージした瞬間に、少し体が「うずっ」とするじゃないですか。モチベーションがわいちゃうというか。その覚醒度の上昇がもう、ちょっとこう、体に毒になる瞬間というか、人生の局面がある。
▷「チルになれる新年計画」とかあればいいのかもしれない。普通にただすごすよりも、さらに「チルになる」目標とその立案活動。
▷しかもそれが、断捨離みたいに、何かを減らすために、エネルギーはしっかり使う、ということではなく、認知資源を、オートパイロットモードよりもさらにマイナスにもっていける行為だと、本当はよい。信仰みたいな領域にいってしまうかもしれないが。
▷東京ガスの推し活CM、超強ええな。
タンバランがイラヒタにやって来てからは、以前であれば、邪術をかけられたせいだと思ったであろう多くの死の原因を、村人たちはタンバランの神々の怒りーー儀式執行の義務を怠ると人々を襲うと信じられている神々の怒りーーに帰するようになった。それによって、人々の疑念が、仲間の村人たちから離れて、神々へと向けられるようになった。こうして、この新たな超自然的な信念が、共同体の崩壊へとつながる主要な導火線の一つを取り除いたのである。
⇒無駄な儀式と害多き神が、結果的に共同体の結束とそのサイズの拡大を支えることに貢献する。めんどくせえな。おもしろいけど。
⇒その意味で、私が最近思う、「政治家の悪口を言わないようにしよう」という態度は、結果的に住民同士の利害対立を見える化してしまう可能性は含んでるんだよね。
それにしても、イラヒタのタンバランはどこから現れたのだろう?
むしろ、タンバランは、代々受け継がれていくなかで進化を遂げ、セピック地方の各地に広がるにつれて多様な形に変化していった。
避難民たちが語るタンバランについての話をつなぎ合わせて、イラヒタは独自のバージョンを作った。
極めて重要なことなのだが、イラヒタ版タンバランは確かに、アベラム族のタンバランと似たものになったが、再現していく間に意図せずして、いくつかの重要な「コピーエラー」が入り込んだ。
⇒明治維新が西洋のコピーにならずに、ヌエ的接木になったみたいなものか。
重要なエラーが三つあった。
第一に、儀式グループの編成がイラヒタの氏族構成に「ぴったり合わなかった」がために、偶然にも、横割りと統合の度合いがより大きくなる結果となった。たとえば、イラヒタ方式では、兄弟を別々の儀式グループに配置して、氏族を分割した。それに対して、アベラム版では、兄弟を分けることはせず、氏族全員が一つの儀式グループ内に収められていた。
第二に、ちょっとした勘違いから、よりビッグで強力なタンバランの神々が生まれることになった。タンバランの神々にはそれぞれ名前がある。アベラム族にとって、それらは諸氏族の祖先神の名前でありーーしたがって、タンバランの神々とは、祖先神のいわば集合体にすぎない。イラヒタでは、各氏族がすでにそれぞれ独自の祖先神を祀っていた。アベラム族の神の名前のことなどよく知らないイラヒタの長老たちは、タンバランの神々を諸氏族の神々より上位に置いたため、事実上、それまで何も存在しなかったところに村レベルの神々が生まれることになった。神のサイズを測るというのも変な話だが、このコピーエラーによって、タンバランの神々のサイズは三九倍になったーーただ一つ氏族の頂点に座するのではなく、三九の氏族を統轄する神にまで格上げされたのだから。
⇒いかにも、人間のやらかしそうなこと、だ。
⇒P181に、《閻魔帳》という語があって、文脈はもちろんキリスト教なんだけど、原語はなんだったんだろう。
いつも耳にしている声なのに、それでもやはり、礼拝への呼びかけは彼らの行動に大きく影響するのである。
このような埋め込まれたプライムは、キリスト数徒にも影響を及ぼして、日曜日効果を生み出す。
⇒「推し」ではやはり、宗教の代わりにはならないな。
こうした能力の違いを調整すると、神やその他の超自然的な力の存在を宿じる傾向に男女差は見られない。多くの集団において女性のほうが宗教的仰心が篤いのは、共感能力が高いことの副産物なのかもしれない。
⇒メンタライジング能力。つまり、人間関係能力が低い人は、信仰心も低い、という近似線が、ありえるわけか。
日本の先住民族は、“賂としてヒエなどを原料にした酒を神々に捧げた。事態が好転しなければ、酒を捧げるのをやめてしまうぞ、と神を脅した。
こうした神々は、超自然的な力で人々を罰することもあったが、それはたいてい、神が拗ねて癇類を起こしたせいであって、道徳的な断罪ではなかった。
私が調査を行なっているフィジーでは、祖先神が「暗い場所」から村民たちを見守っているが、その祖先神には、全員を同時に監視したり、他の島に出かけた人々を追跡したり、人々の心の中を見透かしたりする力はない。
よそ者に与えるコインの数は平均で一二・五~一三枚にまで落ちた。
⇒理想値15-15分配。神が罰をちらつかせなくても、この程度は穏当に分配するんだな。
十分という気もするし、それくらいの身内びいきはあるでしょうとも。
・部族主義が強い文化だと、(フリーライダー的な者への)処罰が協力を促さず、単純に復讐の拡大だけを招いてしまう⇒なんて世界だクソが
・キリスト教が広まった地域のほうが、人々の独立心・個人主義的傾向が強い。なんか、「神は死んだ」とか、わざわざいう必要がなかったのかもしれんな。
⇒以前読んだ誰かの本で、現代人的だか経済人的だかな反応をしない人たちのアンケートサンプルを得ようとして、未開の地に行かなくて済むことがわかった、むしろ同じ国内の貧しい? 地域の反応を聞き込みすればよかったんだ……! という記述を見かけた気がするんだけど、なんだったかな?
この本では、地域差が結局大きい、ということになって興味深い。
⇒全然関係ないけど、イタリアの形のことを「ブーツ」っていうんだな、日本人以外でも。(P336)
⇒地獄に行きたくない、死時の寄進で、教会組織に土地が集まっていき、共同体の共同所有が切り崩されていった、なるほど。
⇒この、ページを開いたときに、「あっ、本だ」じゃなくて「ああ、これはいい紙のノートだ」って感じる紙感はなんなんだろうな。
⇒ちょこちょこ使用されている手書きメモ、きれいに背景が抜けているから、これiPad産の手書きデータだよな。
また、そのように責任を無効化することが、いま苦しんでいる人々にとって救いになるとも限りません。責任という概念には、自分の人生を自分の人生として引き受ける、という側面もあります。もしも責任概念が成り立たないなら、そのように自分を引き受けることもまたできない、ということになります。それは、「自分のことなんかどうでもいいいという自暴自棄を引き起こし、自分を尊重しようという気持ちを起こさせなくするかも知れません。
自己責任論を批判する論客の多くは、責任概念そのものを無効化することが、かえって人々の自己肯定感を低下させうるということを、忘れているように思います。確かに自己責任論は間違っています。しかし、だからといって、責任概念そのものを捨ててしまったら、そこには別の問題が出現してしまうのです。
苦境に陥った人々が取る宿命論は、社会で成功した人々にとって、その功績を否定するメッセージになりえるからです。
つまり、親ガチャ的厭世観を乗り越えるための根本的な課題は、どのようにして社会の連帯を作り出すか、という点に帰着するでしょう。
⇒最後はローティとアーレント、か。
⇒哲学からだけ語ると、あるイメージが伝わりにくくなる。それは、生物的な遺伝子多様性と性による配合がなぜ生まれおこなわれているかという、鳥瞰的イメージ。「多様な配合が行われるのは、その中で特に優れた形質が偶発的に生まれてくる可能性を得るため(人類種全体として)。「人類同士の競争とマウンティングには、特定の才能(だけが、ほとんど)有利なのに、それ以外の特質も生まれてくるのは、ある伝染病がその「有利な才能」に特異的に強く害を及ぼすとき、絶滅しやすくなってしまうから。
ただ、それが分かっても、人類集団や社会の中で不遇をかこつ苦しみが消えてなくなるわけではない。なのに、そういう役割をなくすことに賛成できるほど、振り切った考え方もできない。
そういう書き方を、「喩え」としてでも挟み込んじゃえば、劇的に伝わりやすくなるのでは? なんてことをお節介にも思ったりした。
中身の充実
知識を得たときに心も動かす。
心が動いたときに、頭も動かす。
ナチスが、西太后とか串刺し公くらいの知名度というか、口の端に上る頻度にまでマイナーになっててくれたら、別にこっちも「相対化できる何かが実はあるんじゃないか」という感情に突き動かされないわけですよね。
つまり、手軽に攻撃しようとして逆貼りする人の背景には、「都合よく、悪の象徴や悪の記号として、それを使っている人」が大量にいる。
学者さんとか学会の文化が、そっちのことも同じくらい攻撃してくれないものかなあ。
「よく分かりもしないくせに使うな!」
って。
まあ、人間の行動パターンはどうしても党派性を帯びるというか、若干のダブルスタンダードっぽさを持つもので、それは仕方ないとも思うけど。
海外にいる日本人、かなりのバイアスで日本経済を憂いたり批判する傾向にあるので、日本にいる人は鵜呑みにせず普通に前向きにやればいいと思うよ。米中比較で厳しい面があるのはそうだけど事実は超優良で頑張ってる国だから。課題は多いよ。でも他国も課題だらけだよ。良い面は大多数の国より多いよ
50音のひらがながあるほうがいろんな人が勝手に変態仮名を使うよりも利便性が高い。
という感覚を日本人は持たなかったと想像することに意味があるんだけど。つまり、現代人の「利便性」なるものが、歴史感覚で批判される。こうした感覚を育成せず知識で進んでいくのが略
これ系はゲームのシナリオ感想でもあって「キャラが怒っている同士だから戦い」「泣いているから感動」「恐怖を感じるから緊迫する」と捉える人がいて、そういう人はテキストを読まないので(伏線無視でも)感情の起伏が激しい場面が続くと「盛り上がる展開で面白かった」と言ったりする
単純に昔は馬鹿は黙って分かった振りをしてただけですね。馬鹿は馬鹿だと思われるのが一番嫌なようなので、懸命に馬鹿でない擬態をしていた。
ただ、今はSNSの影響で自分と同程度の理解力が大量にいると分かったので、分からないことが普通という安心感から声を上げるようになって可視化された。
聞いた範囲だと、別にキャラ萌えアニメばかり観ているわけではなく、普段からジャンル幅広く観る人でも、感想になると物語ではなく必ず特定のキャラの話しかできない人はやはりフリーレンわからないと言っているみたいですね。
ついでに『舗装』という概念も理解できず、山じゃないところは全部アスファルトだと思っていた。公園とかは花壇みたいに他所から土を持ってきたのかと...。
色んな所に住んで、ようやく関東平野が世界的に見ても異常であることを知ったけど、故郷の外を想像するのって難しいよね
私も都会育ちだったからイメージなかったんですけど、北スウェーデンの田舎町に行った時はマジで「町」→「森」→「町」→「森」だったので、レべ上げしないと最初の森抜けて隣町に行けなそうだった。
異なる文化や社会、言語に身を置くことで、どこまでが自分でどこまでが社会なのかを区別することができるのだ。
文明の中で生きる限り、自分と外界は混ざりつづけていて “真の自分”などどこにもないのだ。でも、異なる外界(枠?)を試すことで、自分の形を探ることができるのだ。
ゼミでバックパッカーの話をしたんだけど、みんなあまりピンとこなかったみたい。とくにそれが「自分探し」になっているということが。「どうしてタイとかインドに行くとホントの自分が見つかるんですか?」。たしかにそうだ。しかし30年前はそうだったんだよね。そこに「社会」を考えるヒントがある。
寄稿させていただきました。バッターボックスに何度も立てるのは才能。タイトルのとおりです。実家の太さもその一部ですが、決してそれだけではありません。何度も立てれば挑戦できる。この才能、磨いていきたいです。/"バッターボックスに何度も立てるのは才能"
粉塵爆発に触れた作品の数だけレベルが上がるといっても過言ではない。思いつくのは 10作品だからレベル10かな...
前の時代ではとある魔術の禁書目録が担ってた役割ですね
薬屋のひとりごと見てたら粉塵爆発が出てきて、この作品は多感な時期に触れるべきことをきちんと提供し続ける、本当に偉い作品だなと思った
さっきリツイートした「理想を言えば対象と
1対1で向き合って愛でたい気持ち」、「萌え」の時代にはたり前でしたよね。ゲームやアニメのキャラクターに萌えている時、ほかの人が同じキャラクターにどんな感情を差し向けているのか気にしなかったし気にしなくて良かった。(三次元は知らないけど)
さっき指摘されて思い出したけど、「萌え」の対象って、たとえばAさんとBさんとCさんがルリルリに萌えていたとしても、それぞれにとっては自分だけのルリルリとして体験され、ほとんど別個体だったのでした。同じキャラクターを共通の認識・ルールで「推す」のは当時の萌えオタの主流とは言えなかった
対策としては「なんかこれ過激すぎるな...」という記事に出会ったら、同じウェブサイトの他の記事をみると明らかな釣り記事があって「そういう場所」だと気づいたりする
日本だと風刺は皮肉に近いのですが、英語圏では堂々と嘘を通して茶化すみたいな文化があるんですね
民明書房のようにわかりやすく書くといった場合もあれば、真剣に騙しにきている場合もあるので最初は見分けがつかなくてとにかく 戸惑う
騙し方に虚構新聞みたいな可愛げすらなく、本物のニュースのようにちゃんと書いているんですよね
Onionとか Newyorkerの Borowitz Report
の記事は、一見まともに書いてあってもすべて嘘の Satire=風刺記事だというのは日本の記事に慣れていると気づきにくいんですよね
例えば Borowitz だと「イバンカ・トランプ、父の名前を忘れる」みたいな記事を大真面目に書くので戸惑ってしまう
教育には、結局、「良いハラスメント」という部分がどうしても残るのが難しいところなのである。教育しないのが一番簡単な解決法。
「悪をゼロにできないとしてもゼロにする意志を示すのが大事!」は正論のようで、その手の人が自分の行為が帯びる「悪」性を否認しがちという傾向は否めず、悪の存在を承認することでそこに居直ってしまう正反対の傾向性との「悪さ加減の選択」を常に行うしかない。
漢文も言語なので、「ある言語を学ぶことが役に立つかどうかはその人がどんな人生を送りたいかによる」という一般則が妥当するという以外には言うべきことがない。古典語が必要のない人生は普通にあり得るが、古典語が使いこなせる人生は楽しかろうと思う。
注射の痛みがゼロだという医師は嘘をついてるし、「ゼロを目指す」も善意の嘘たるを免れず、「痛いけど、想像しているよりは痛くないようにうまくやる」が一番正直かつ誠実なのではと思う次第。
「事前にあなたが想像し同意した範囲の内部、受忍限度の内側に収まることを目指す」が誠実かなと。その上で、自身への異議申し立ての回路をオープンにしておく、公平な外部や第三者の相談先を示しておくということが求められるのだろうと思います。
決定においては、「決めすぎないで決める」ことがけっこう大切。すべてを決め切るのでもなく、何も決めないのでもない、決めすぎないで決めること。
「村文哲は自分が言ったことを平気で翻す。
話が矛盾だらけで、一貫しては聞けたものじゃないのだが.......。TikTokのようなショートムービーにはすごく向いているんだ。発言を切り貼りすると、すごいことを言っているように見える」
1990年から2000年にかけての商店街再開発にあたり、店舗の新陳代謝と市場への最適化を図るために土地所有者と店舗経営者を切り離した高松市中央商店街は、郊外に大規模ショッピングセンターが乱立してもなお衰える事はない。昼の商店街と夜の商店街の二つの顔もまた大きい。
地方の農業もそうですね。農地の所有者と農業従事者が同じという前提だから、行き詰まってしまう。これを遡っていくと、戦後占領下で行われた農地改革による大地主の解体によってできた、所有者と従事者を一致させることが正しいという文化をどう総括するかということになるかと。
兵站軽視は日本の悪しき伝統ですが。
2000人の部隊が動けば、毎日6000食の兵糧とが必要で、2000人分の糞尿が出るってことに、思いが致せないのでしょうね。
珠洲市が12000人弱の人口で、そういう地域に100人1000人が入るには、それだけの基礎体力が地元側にも必要。
増税クソメガネと言われても特に反応しないけど、被災者の命に直結する住居確保に関するデマを流された時には、「おいおい避難先は手配されてるぞ」と声を上げる岸田総理。
普通にかっこいいぞ。別に支持はしないけど、この難局をうまく乗り切ってほしい。
人間の「情」に任せたらなんでも死刑になるから「法」が生まれたのだなと再確認させてくれる親切なSNS
災害に関しては、逐次投入がデフォ。先ずそもそも常に二次災害の可能性有るところに全力投入していかんとする、被災地の霧は戦場の霧とは比較にならぬ程濃霧、何故なら外交政治も実は関わるが、その土地の地形気象社会文化しきたり等々ゆるものが複雑に交錯する。
正面展開出来る人数が限られてるので遊兵は現地の物資を消費して疲労も増す、最低限の予備兵力以外は後方支援基地から逐次投入が正解、進撃路が増えれば投入できる戦力も増えるの解らないのかな?
逐次投入云々と批判している人は年齢的に銀英伝を読んだ位の知識しかないのでは
能登の道が狭い事を地元の人は理解してるから、駆けつけたいのを我慢して道を開けてるんだという地元の方のポストを見ました。空いているとしてもそれは余裕の表れではなくて、地元の人達の救助を待つ人を助けて欲しいという思いと我慢あってのものですね。
また「逐次投入」批判ですか。戦争じゃないのだから順次投入しても問題は無いし、地形上の制約を無視して他の災害と比較しても的外れだし、なんですかね、無理矢理な批判をして...。
ハンガリーなどが話題になるが一番スコアが低いのはオーストリア。実は隠れたEU懐疑派。
そういう「伝統的極右」とは別に、最近はSNSでの極左と生き写しのようなタイプの極右活動が活発化しているみたいでそこは頭が痛いですね。「保守寄り」の一般人に突撃してくるのは極左ばかりですが、「左派寄り一般人」は結構そういう極右に突撃されてうんざりしているようです。
どちら側にも極端な人はいますけど、右側の極端な人たちは世間からある程度「そういう
箱の人たち」と扱われてる一方で、左側では大学教授や国会議員や新聞記者などが極端な言動を繰り返してもなぜか有識者の座は揺るがない、という印象はあります。
もちろんそれが一番理想ではありますね。でもまあ実際情報取りに行くのはある程度強い感情のエネルギーが必要だし、「現場にあてられる」側面もどうしてもあるから、受け手側が工夫して全体像を取り出していく事もできればもっといいんじゃないか、という話かなと思いますね。
その通りです。伊達さんは保管している自治体から相手先の自治体へ要請してもらってから、トイレトレーラーを運んだとも語っていました。元被災地から新たな被災地へ連携が凄すぎて、驚きました。面、被災地は雪や道路の崩壊で、一般人は直ぐには入れないと考えます。議論より支援金寄付が大切。
トイレトレーラーとかもうほとんど準「行政レベル」のプロの仕業ですよね。そういうのも全部「ボランティア」という同じ単語でくくってるのはかなり無理がある話なんでしょうね。
「複数の人に共有された移密は有用だが、ひとりだけの秘密は破壊的なものだ」
これもユングだが、深い。秘密があることで人は個人になるし、秘密を共有することで人と人は親密になる。秘密には健康な面もあるが、完全に1人だけで秘密を抱えざるをえなくなると、心は孤立し、損なわれてしまう。
「現代の心理療法にとって忠告は、現代の外科学にとっての包帯と同じような性質のものなのだ」
ユングの言葉。アドバイスは手術というより包帯であり、あくまで痛みを和らげる応急処置であるという深い理解。アドバイスの中身ではなく、存在したことに意味があり、最終的に時間が癒すということだな。
去年一昨年あたりに「もうすぐtemuっていう詐欺アプリがリリースされるから気をつけて。クレカとか個人情報とか悪用されるよ。」的なツイート見たから、今めっちゃ感謝してる。でもそこそこ有名なインフルエンサーがこのアプリ紹介してて情報収集って大切だと思った。
僕は、50代くらいまでかな、小沢一郎の国連軍参加構想が優れてると思ってた。もう本人も心酔者も言わないが。で、今は、まあ、無理かなと思ってる。国家安全保障にこんなにポンツクな国が立ち行けるのかと考えると不安だが、どうにもならないし、やばい事態には目が覚めるだろう。
中国という国は、虚を突いてくる国なんで、虚を作らないことが最大の防衛。
平安時代を知るには、いろいろあるだろうけど、意外に忘れがちなのは、仏教のお勉強。
現代仏教の感覚で水時の浄土教とか密教を考えることが、なかなか難しそうではあるんですよね...
ニコラス・シュラディ『リスボン大地震』がめっちゃおもしろい。リスボン再建事業が始まると、今度はプロジェクトXになった。
キリスト教はユダヤ人に対して莫大な「負債」を抱えているから、アメリカを初めイスラエルによる強く言えないのかな。
1日の行動プラン=夢
頭の中のタスクを書き出したリスト=夢日記 のようなもの
夢と現実が一致しないのは然なのに、それを一致させようとすると夢日記の都市伝説のように気が狂う
現実に生きられず、現実が夢に取り込まれる
常世と現世の対比を最近よく考えるとこよはおもちゃ箱
うつしよは遊び場
>RT
魏志の「貿成稲、名日救急」に由来し、「穎稲で貿を成す、名して日く急を救ふ」と下す かと思うが、春秋の斉による交易の国富政策が原義だろう。続日本紀にもある成句で、この時点で急に急時の意味はあるようだが、意味変遷はありそう。あと、個人的には、「急」は古代医学の脈診の概念だと思う。
田辺聖子の『新源氏物語』は桐壺を立てず伏線回収的に物語に織り込んでいるがほかも、源氏物語の伏線構成の配慮が意外と緻密。踏み込んで解釈してる。源氏物語は桐壺から読むと案外わかりづらくなる面があるからだろう。瀬戸内寂聴訳は昭和の敬語が美しい。すでにこれ自体が古語かも。
荻原規子訳→こちらも敬語表現がなく、読みやすい。構成が独特。源氏の君と藤壺の宮・紫の上との関係を描いた「紫の結び」の後で、「つる花の結び」で全体の流れをスピンオフとして読ませる構成。著者らしい「源氏物語」。
谷崎源氏、大塚源氏を読まれた方、良かったら感想教えて下さい!
角田光代訳→敬語表現がないため、すらすら読める。「打橋や渡殿といった通り道に〜」など、それが何であるのか、文の中でさりげなく説明されているのも分かりやすい。高校生の娘に読ませたい。
・円地文子訳→六条御息所の描かれ方が印象に残った。制できない彼女の情念をひしひしと感じられる。
瀬戸内寂聴訳→「ですます」調の優しい語り、なのに艶っぽい。歌の訳が情感たっぷりで好き。
橋本治訳 →源氏の君の一人称。傲慢でナルシストな源氏の君。男の身勝手さを見せつけられ、目が離せない。人妻である空単を犯す時の台詞「私と不幸になりましょう」が忘れられない。
「源氏物語」各現代語訳 個人的感想です。
田辺聖子訳→会話文が多く、読みやすい。すべての女性に著者の愛情を感じられる。未摘花も不器用な女性として描かれている。「あさきゆめみし」に雰囲気が近い気がす る。
与謝野晶子訳→本邦初の現代語訳!が、文がかたく、私には読みにくかった...。
このあたりの感性は、多分最古参層のネットワーク活用者としてはピンと来ない。ネットの「匿名」と言われるのは、元来は、多分、アマチュア無線文化の「ハンドル」に由来し、言わば便宜的な呼称だった。「2ちゃんねる」あたりで、「匿名」が言われるようになったと感じた。
ときどき実名でSNSをすることを強要してくる人がいるけど、実名のせいでマフィアとかフーリガンに狙われたら、どう落し前つけてくれるのだろう。こっちは選挙に行こうとか公正な選挙をしようとか言うだけで問題視されるような国にアジア系マイノリティとして生きてるのに。
僕にとっての亀井勝一郎は中二病だったと思う。『愛の無常について』とか。
高二病は小林秀雄かな。
中島敦は中二病、夏目漱石は高二病、と、いう面があるが、両者、それで済まない深みがある。中島敦のユーモアは卓越してるし、漱石の人生観は中年向き。
昔は知らないけど、今の左派って権威主義が強すぎてあんまり自分の頭を使ってない感。
一度登り詰めたら全肯定されるので、本人も支持者も楽そうやなってW
左翼で知の巨人と呼ばれてる人が「実は原発は今回の地震で危ないのだ!自衛隊を政府が意図的に投入しなかった」とか叫んでも権威主義で大物だからリベラル界隈様がだれも批判しないの、本当にすごい上下間系厳しいのね。
この点、吉本隆明さんは、すごかった。全方位矢を浴びて、シンパに泣かれても、批判すべきは批判した。家族が音をあげたが。
どんどん積み重なっていって最後の氷山の頂点が表の世界に出てきた、というだけなんだわ
逆の見方をすれば、50代過ぎると皆結構暇になってきて、他の人達のやる事言う事が気になる...という一面もありますよね。
時間ができて仲間同士で集まることがまた増えて、そこで誰かを話題にする...みたいな。
「昔からああだった。けしからん!」みたいな
普段から気を付けないといけませんね
話が分かりやすいという理由で、セクハラを例に取ると、こういう立証の難しいものは、一発退場というのは珍しく、昔からずっとそういう行為をしていたのですよ。同じことは、言動やお金の問題にもてはまると思う。
50代に入ってしみじみ思うのは、階級や学歴や才能に関わらず、日頃の行いの蓄積が通信簿みたいな結果に出ますね。個々の例外はありますが。「時代が変わって昔は問題にならなかったけど今は駄目になった」というのとはちょっと違うと思う。累積アウトの結果でしょうね、50代~60代の破綻は。
「この人、人間できてるなぁ」っていう人、実は過去にメンタル崩壊した経験あり、
一方で、メンタルが強い人の特徴は「価値観をしっかり持った人」ではなく「人の気持ちを考えれない人」のパターンが圧倒的に多いらしいのだ
「変態」という語が、同時に「クイア」と「メタモルフォーゼ」の両方の意味で使われているところも、とても好きなところです。
いまユートピアを考えるとすれば、現在のマイノリティを含めたすべての人がアイデンテイティを認められる社会ではなく、すべての人が変態になり、さらなる変態を遂げていくことのできるフーリエ的ユートピアでしょう。
ごく個人的な実感としては、人文系の学問は、60代以降に重要になる気がする。
「ママ友とかこわーい!どうせドロドロしてるんでしょう?私は馴れ合いませんキリッ」みたいな人や、「PTAってめちゃくちゃ非生産的でヤバいところなんでしょ?怖っ!」みたいな態度は相手に普通に伝わるので、本当目の前の人をよく観察して人間関係大事にねと言いたい...
思想的だったり、批評的なことを書いているnote等の記事を見ると、問題が限定されていないケースが多いと感じる。思いつくままに書くのでも、もっとシンプルにした方がいいと思う。それはたんに、話題を減らすということ。いろいろ言おうとしすぎなものが多い。
これは本当にそう思います。たぶん似た話と思いますが、私の言い方では、つまみ食い、切り貼り、爪で拾い集めになってしまう。大学人論文にも割に見られて、切れ切れの連想/思い付き全部詰め込み。これだけお勉強しましたよ報告。語弊ありますが貧乏症(これは対面だけで使います)。
ヴィレヴァンの不調に関する記事を読んだ。
こういうカルチャーを知るべき、という押しつけがましさは今の消費文化に合わなくなった。しかし、共有文化資本で成立する世界は今でもあり、それはどうでもいいというのは、格差のごまかしでもある。文化はもはやすべて民主化したなんて、明るい嘘。
若い人は、だいぶ年長の人たちが、これは知っておくべきと見なしているものを、同世代がいくらバカにしていても、こっそり勉強しておいた方がいい。あとで差が出る。
それが学問の世界の基本。政治でもそうだろう。
新しいことを知っている人材は次々に入れ替わるが、以前のことに詳しい人材はいつまでも残る。
もちろん、そんなん知らんでいい、そういうのを価値あるものと見なさせようとするのが知識の資本主義なのだ、「現在先端の科学」だけでいい、というマオイズムみたいなものが出てくるだろう。さて、どっちにつくか。
知識において、あとで化けるかもしれない投資があるとしたら、先端知識の獲得より、昔のこと、ものごとの「経緯」を知ることだと思う。深入りしなくていい。歴史の教科書みたいな、こうなってああなって、キーパーソンは誰で、キーワードは何で、くらいでよい。淡々と整理して覚えておく。
一般論だが、組織にとって何より重要なのは人事なわけで、かなりの人数を擁する組織の場合、派閥間の対立・均衡のダイナミズムを善用するほかないでしょう、と思う。とかいう話を(ちょっと違うけど)もうすぐ配本される『社会秩序とその変化についての哲学』
第5章や第6章でも書いた。
人事やカネと切り離された純粋な政治討議の場としての政策集団であるべき、とかいうのは建前論として意味はわかるが、結果起こるのは政治討議のますますの空虚化、PDCA的な形式主義への堕落でしかないでしょう。
そうですね。「社会は効率化されて、国民は便利になり、私たちはよりよく管理されていく」としたら、その効率化や利便性や管理をなんとも思わない人には恩恵が、それらに鬱陶しさや引っかかりや不自由を感じる人にはより一層逃れ難い疎外、そして矯正が、与えられるでしょう......。
オタクはかつて〇〇は俺の嫁から〇〇にバブみを感じておぎゃるに変化し、更に〇〇は俺の推しにたどり着いた。推しという語には性的要素が〇〇は俺の嫁よりも薄い気がするが、それがクリーンな現代社会の「漂白」なのかはまだわからない
「モテる人の距離感は危なっかしい」みたいな話が今週は流通したけど、危なっかしい距離感のモテる人なるものを敬遠する人は確実に男性にも女性にもいるし、そういう危なっかしい距離感のモテる人も、そこは見てとったうえで標的を選んでいるようにみえる
例外もあるけど、距離感の危なっかしい男性を引き寄せやすいのは距離感の危なっかしい女性。逆もしかりで、距離感の危なっかしい女性を引き寄せやすいのも距離感の危なっかしい男性。「親密性の手続き」をよく訓練し心理的距離が元々こなれている人は、距離感の危なっかしい異性をそもそも驚戒する
手続きや手順をショートカットして急速に接近してくる異性に対して「これは親しさだ」
「これは愛情だ」とすぐ認識して、急速な接近を許す人も、それって異性との心理的な間 合いを制御する様式がわりと似ている人でしよう。いっぽうで、急速な接近に違和感や管戒感をおぼえる人も少なくない。
心理的な距離感がもともとは安定している人でも、急速接近する異性を近づけてしまうことは時々ある。たとえば危機に瀕していた時や、失意ややけくそのどん底に沈んでいる時など。心理的距離の制が甘くなっている時には、例外が発生する可能性が高くなる
異性の急速接近を許す/許さないの話と、「推し」や「いいね」の巧拙の話は、かなりのところまで、対象者が重なっていると思います。とりわけ破綻した「推し」しかできない人って、異性との心理的距離の取り方が根本的にわからない人、異性にハックされ放題で丸裸も同然の人、多くないですか?
そこから考えると、ナンパでリーチできる女性のほとんどは(一時的か、永続的かはさておき)距離感のおかしい女性である、ってことになりそうですね。恋愛工学でリーチできる女性もきっとそう。恋愛工学の提唱者は、愛を証明したんじゃなく、対人関係の距離感のおかしさを証明したんじゃないか?
「将来役に立つことだけ勉強したい」は、「大人になってもずっと友達でいられる人とだけ仲良くなりたい」みたいな意見だなと、最近思う。
これはその通りだよね。ナンパはこの「距離感のおかしい異性」に当たるまで大量の弾を撃ち続ける戦略。相手の性質を見抜く必要がないからある意味簡単。
これは距離感が近すぎる男女の話だけど、逆にどう考えても「イケる」距離感なのに踏み出せず恋愛の芽を潰してしまう遠すぎる方向に「距離感がおかしい」男女もいるわけで。
恋愛ってのは本当に難しくままならないものですね。
上司や先輩だって人間だから、自分のことを推してくれる後輩と、ひそかに軽蔑している後輩だったら、前者と付き合いたい・前者に便宜をはかりたいと思うもの。それに、推せる上司や先輩のほうが『よく見て技術を盗む』がやりやすい。リスペクトしている人からのほうが人間はよりよく学べるから。
遠くにいるインフルエンサーを推せるかどうかなんて、本当は大した問題じゃありません。対して、身近な上司や先輩を推せるかどうかはかなり重要な問題。たとえば学校や職場に、推しやそれに近い位置づけの人が一人もいない人はどうなるか。誰も推せない人と誰かを推せる人ではどう違ってくるか。
なので、承認欲求に飢えている人の問題点が、周囲がなかなか認めてくれないせいというより、当人が周囲を見下してばかりで誰も推せないせいってパターンは結構あると思う。で、これは見過ごされているとも思う。
そのあたりも『「推し」で心はみたされる?』に書きました。
承認欲求に問題アリと思われている人の正体が、実は所属欲求の問題、ひいては日常生活のなかで誰も推せないしリスペクトもできない問題ってことはあるあるだと思うんです。
自己愛でいえば、鏡映自己対象体験でなく理想化自己対象体験により大きな問題がある人。コフートの自験例でもあった。
日常の人間関係のなかで、誰も推せずリスペクトもできない人は、先輩や上司とも仲良くなりづらいしそのぶん認めてもらいにくくもなる。誰かを頼ったり模倣したりして技能習得するのも難しくなる。そうやって「推し」の巧拙の度合いは社会適応を大きく左右する。ホストや有名人しか推せない人の悲劇。
労働組合全盛期の頃、「労使対等だー!」とか言いながら管理職側に食って掛かっていたおっさんがいたのだが、
対等と言いながら実は「資本家に食って掛かっている俺ってすごいだろう、なめてくれ!」という欲求がにじみ出ていたので
その仕事を辞めたらただの底辺アルバイターになってしまった。
組織や集団行動の時って、自分が認められることだけが行動原理になっていると上手くいかないですよね。上司でも同僚でも部下でも、自分以外をリスペクトしたり、推したり、認めたりすることがモチベーションの一部になっていないとうまくいかない。才能があっても孤立してしまう。
昔の日本企業みたいな組織じゃなくても、自分がめられたい・認められたい・上昇志向したいって気持ちばかり前に出ていたら、人はついてこないし、組織をつくる側には回れないし、後進を育てるにも向かない。だから承認欲求だけの人にできることの範囲は、「推し」も上手な人の範囲よりもやや狭い。
小説を書く営みって自分の人生とは関係のない話を書いているとしても、そこにある種の客観視に耐え得る(と自分の考える)連続性を生み出す行為なので、中年の危機に限らず、自分の心が砕けてしまった時、砕けそうな時に、それを繋ぎ止める膠の役割を果たすことがあるのだよな。
youtubeネイティブ世代、そろそろ「死とか殺とか言葉に出すのは問題無いけど文字にするのは慣用表現とかでもダメ」とかいう謎ルールを内面化しだす頃合いじゃないかなとちよっと危惧してる。
異世界モノという空想の世界を読み、都合の良い脳内補完するにあたって、自分の気に入らない情報・引っかかりどころにいちいち引っかかっていたらきりがない。誤字脱字が多すぎる作品は駄目だが、誤字脱字を適切処理できない読者にも問題がある。同じく、ハンバーグやジャガイモで引っかかっていたらきりがない。まあ、インターネットの人々のなかには「わざと引っかかってみせている勢」もいるんだろうけれども。引っかかれるのは「自分にリテラシーがあることの証明」みたいに思えるかもしれないから。異世界にそういう語彙があることに疑問をさしはさめること自体は悪くない。だけど、それぞれの作品をそれぞれの作品の湯加減や完成度に応じて楽しみたいなら、その能力はいったんスリープさせとくのも大事なことだと思いますよ。
Q.異世界なのに各種用語がラテン語由来っぽくなりがちなのはおかしくありませんか?
A.最盛期のローマが異世界にまで属州や交易関係を拡大していたのは明確であり、その証拠です。
成功者がよく言う「運が良かっただけ」って「釣り」と同じニュアンスなんですよ。
そりゃ努力はしてますよ、釣りで例えるなら釣れるスポットを探したり、良い釣り竿買ったり、餌の選別、竿の動かし方、色々努力はしますが「どんな大きさの魚が食いつくか」は釣る側には一切制御できないんですよね。
だから大きな魚を釣ったとしてもそれは「運が良かった」と言えるわけです。
決して謙遜してるとかではなく、事実運が良かったんですが、その運を掴むための「確立を上げる努力」をしたという意味で言ってるんですよね。
この辺が多分上手く伝わってないのでたまに批難されるんじゃないかなぁと。
有名クリエイターが「自分は運が良かった」としばしば言うのは、めちゃくちゃラッキーを引き当てたというより、「運悪く消えていった才能ある仲間を見てるから」というのもある。死んだり病気になったり、ロクでもない人間にまとわりつかれたり、世の中のそういう不運から自分はたまたま免れたという
米津玄師とかが象徴的ですが、ここまでタイアップ先の世界観に沿った曲や詞をつくるアーティストが増えてくると、以前のロキノン流のアーティストのライフヒストリーを読み解くことで作品を読み解く的なアプローチはできなくなってきますよね。
どちらが方法論として必ず正しいということはなく、研究対象との関係で妥当性が決まっていくので、まあドメイン知識(この場合なら、21世紀初頭の音楽シーンにおける米津玄師の位置づけ)がないとやっぱりだめなのよね。
下RTのようなことは、思想史でもあるあるでライフ・ヒストリー読み込みからの初期と中期の転が〜みたいな研究が、「いやそれって同時代の金主の意向では?」とか「法律が変わったからでは?」みたいなテクスト外在的な事情を重視する研究の挑戦を受けたりといったことがある。
「ちち~」呼びの件、引ポスが増えるにつれて、ついに三人称と二人称の区別がつかない人が出てきた。ここら辺が引ポスの醍醐味でもある。
昔のやんちゃを反省する不良くんメソッドの世代間正義版ということですかね。
その地位を後続世代に明渡せとまではいわないから、「ちゃんと反省していて偉い人」のポジションまで取りに行くなよあさましいとどこかで思ってしまうのですね。それこそ「二毛作」じゃん、若者の非難に首をすくめて黙ってやり過ごさざるを得ない惨めさに耐える「美学」はないのかと。
そう言う人が率先して反省を口にしてこそ世の中は変わっていくのだと思う人もいるだろうしそれはそれでいいと思うが、私はもし本水に反省しているなら黙って恥入っていればいいのにと思うタイプ。
すでに地位が安泰の人が「昔はああいう仕事の仕方はあったけど時代も変わったしもうダメだよね」と反省してみせるのは見上げたものだと思う一方で、同じポジションを目指す
後続世代には割り切れないものが残るだろうなとは。「私はズルしてここまで上り詰めたけどあなたはダメだよ」ってことだもんね。
もちろん、福田赳夫的なマヌーバーなのか理想論なのかよくわからん派閥解消論の焼き直しの可能性もあります。ここら辺、改めて識者の見解をじっくりと聞いてみたいところですね。
岸田文雄という政治家、55年体制というより平成デモクラシー志向が強い、実は小泉純一郎的な政治家なのかもしれませんね。顔が55年体制っぽいのでみんな勘違いしてしまう。
細かいこと言えば、出席要件厳格化とか少人 数講義の閉講やらで上記環境の出現は稀になり、結果、むしる自分の講義の聴講数の多さを(自虐抜きに)誇るタイプの教員も出てきているような気がするが、そういうのはなのでどちらかというとニュータイプに属するはずなのだ。
朗々と講義の声が聞こえる教室前を横切った時、ふと中を見たら学生が一人もおらず、虚空に向かって講義をしていた、などという話は、たしかにこの業界ではある種の「美談」である。
聴衆が少ないなかでめげずに話し続ける訓練、大学教員と政治家は割と積んでる方ではないかと思う。普通の人はたぶん心折れる人多いのではなかろうか。
21世紀に入って「悪しき相対主義」の克服が言われつつも、相対主義を支える「ミクロの権力」観は残り続けたため、教条主義的進歩主義とフーコー的権力観の悪魔合体が起きたのかな。フーコー主義的な「純粋まっすぐ君」の恐ろしさ。司祭的権力の隔世遺伝。
色んな所に暴力性を見いだしていったあげく
自分の議論にも暴力性を見いだしてしまい何も言うことが無くなるという90年代後半の知的界隈の雰囲気もどうかと思ってたけど、ここまで「他人の暴力性は断固糾弾するが自分については完全に不問」が横行するようになると、あれはあれで誠実ではあったなと。
「文庫はむしろ相対的には無産者のための文化」も、「岩波文庫全巻完備は実は超大変」も正しいのだろうが、それはそれとして岩波文庫を読んだことはおろか見たことすら無い
学生さんに毎年春に大量にお目にかかるので、元ポストの言いたいことはだいぶ分かる気がする。
高校生くらいの私は、ポストモダンとは正典を読むな、作るなというメッセージのことだと思っていたから、これはすごくよく分かる。というか、『批評空間』とかはその意味で「時代」的な人々だと思ってたから、彼らが「古典を読め」と言っている文章を読んだ時にひどく裏切られた気がしたんですよね。
「派閥なき政党」という理想、「政党なき議会」という理想と似ていて、貫徹しようとすると意外と危うい。
高校数学一切使わず生きてる人はいっぱいいるけど高校数学教えなくなったら先進国的な産業維持できないし、古文や漢文読める人いなくなったら戦前の行政文書や言文一致運動以前の文学作品も読めなくなって日本の歴史や文化の蓄積がリセットされかねないみたいな話だと思ってる。
学校の科目や単元全般「不要だろ」って言う人たぶん「自分は役に立ってない」って経験から言ってるんだと思うんだけど、あれ各個人の話じゃなく一国の中でその知識持ってる人がほぼゼロになったらヤバいから広く教えて適性ある若者がちょこちょこ現れるようにするみたいな仕組みではないのか。
英語が小学生から必要か?というと、そうでもないだろう。市民知識の英語はCEFR A2くらいだろな。高校からは英語以外の選択肢をふやすといいだろう。
近代市民であるための基礎知識は何か?というのは、見直していいかも。小学校レベルは変化ないだろうな。
⇒しかし、「小学生の頃のマインドを変えたい」という発想を最初にする人が多分多い。
学校の古典で「ユーカラ」「おもろさうし」が出てこないのも古典教育がナショナリズムの産物である証拠だろう
日本の古典の授業では、ゼロでもないが、候文をやらないし、変体仮名を教えない。この二つは日本近代の基礎だから教えたほうがいいと思う。
ナショナリズムというのは、近代人の自然な感情でもあるので、まず否定という態度から入らないほうがいい。日本の左翼的な知識人の形骸的なナショナリズム忌避はそれ自体が歪んだナショナリズム。
日本の古典は、ナショナリズムというより、源氏物語を読むための体系が基本で、これに江戸時代に大流行した徒然草がくっついて、そこに出所のよくわからない枕草子のようなものがついて、できてる。
「春はあけぼの。やうやう白くなりゆく山ぎは、すこしあかりて、紫だちたる雲のほそくたなびきたる。」といった枕草子を学ばされるのだが、そもそも、「春はあけぼの。」の読点「。」は原文にないんだよ。ここに読点を置くと、日本語としては「うなぎ構文」になるけど、そう解する文法学根拠もない。
「ちはやぶる神代も聞かず竜田川からくれな
ゐに水くくるとは」と教わるけど、これ、「水括る」か、「水潜る」かは、わからない。この、「わからない」ってなんだ?というのが、古典の重要点なんだけど、古典教育はわからせようとする。で、この「わかる」というのは、つまり、現代語翻訳。
モーツァルトやフォレとか、天才で、天上の音楽を書き留める感がある。バッハは天上だだ漏れ感。ヘンデルとかベルディって、あ、人の音楽だと思う。ヴァーグナは魔界聴いてんだろうな。
古文漢文の授業って国語というより国語と歴史の中間みたいな立ち位置で、前もって「なぜ学ぶのか」をしっかり意識付けとかないとただの受験対策になって何も身につかないと思うんですよね
ええ、歴史感覚がないと、古典はわからないけど、この歴史感覚を養うのは古典、という矛盾。
「アンドのマーク(&)はラテン語の"et"「~
と」の筆記体が元なんです」と言ってもなかなか分かりづらいのですが、香港ディズニーランドのショーの看板にあるアンドのマークは、"et"の形が分かりやすくなっています。
つまるところ、生きるコツは、パスカルが言うように、divertissementしかない。自己の悲惨な運命から目をそらすことだ。
今、僕の目の前に、みかんがあるが、これを頬張れば、死の恐怖は20%くらい緩和する。
よし!
ポルトガル国王ジョゼ1世は、リスボン地震後、石造りの屋根の下で眠ることを拒否し続けたらしい。時、日本から、木造建築の技術を輸出できていたらおもしろいことになっていただろうと想像する。ポルトガルの王宮が木造建築となる世界。
自分の心に水をやる。たぶんそれも「自分の庭を耕やす」に含まれるだろう。
ジャーナルに、お水をやる。日にあてる。夜露をさける。
SLIMに限らず宇宙開発でミニマムサクセス、フルサクセス、エクストラサクセスと成功を何段階かに分けて考えてるの、改めてとても良い文化だと思うんですよね。ゼロイチではなく、成功にも段階がある。パーシャルサクセスの考え方はプロダクトづくりでも意識したい。
書きたかったことは、自分でいいねを押すとき、まさか相手がそれを認識してくれるなんて思いもせず、気楽に共感や応援、ウケるかわいい!で押しているけれど自分が受け取るとき勝手にびっくりするほど励まされていたり、いつも押してくれる方はなんとなくわかるのでサンキュ...という気持ちでした。
ごめんなさいね。ちっぽけな独り言が拡散されてしまって、必ずしも全てのひとが嬉しいわけじゃないですね。それは本当にそうだなと思いました。
ネット上の悲しい行き違いや、過去のかさぶたに触れて喜べない方も悪くないし、悪気なくいいねを押してそれを思いがけず拒否された方もお辛かったですよね
いつもいいねしてくれるなあ、とか、誰も見てなさそうなネタでも反応してくれるなあとかひっそり嬉しく思ってたりするものですよね。通知欄にぽこっとアイコンがあると「あ、嬉しいなあ。また見てくれたんだなあ」って一度も交流したことなくても勝手に大好きな方いる。たぶんみんなそうだと思う。
Windows11から盗難に備えてデフォルトでSSDが暗号化されていて、知識があってパソコンからSSDを取り出して他のマシンに接続して読みだそうとしても、BitLocker回復キーを事前にUSBメモリなどにバックアップしておかないとデータを事実上永遠に失いますので注意してください。