2024/1/12-2024/1/16
▷落ちるじゃない「おちる」に、「堕ちる」と「墜ちる」がある。さらに「陥ちる」なんかもある。前2つが、変換候補の中からでも見分けにくい。あらかじめ「見分けにくい2つがある」って気にしてないとミスしそうな。
▷怠惰 堕落 妥協 打算 駄目
書いてみて、「ダ」の漢字が全部違う...(だからなに
▷そういえば、この歳の差婚はOKなんですかね。
▷もはや炎上芸ははやらないので、初めから明示的に大喜利募集にしちゃえばいいわけだな。
本日は共通テストがあったらしいですね。それでは私が「漢文なんて現代社会では役に立たないので入試科目から外すべき」と言つので、そこで皆さんは「文化」や「教養」といった言葉を使って何か仰ってください。はい楽さん早かった。
▷さらにいうと、私はときどき、作品名・ジャンル名で検索して、二次創作イラストを眺めたり、そのいくつかはツイートを開いて画像を保存してたりもするんだけど、そのジャンルはあんまりおすすめタブに入っていなかった。 まあやっぱり、お気に入りやRTをする、という行為が大きいんだな。
▷あらためておすすめタブを見てみた。 私は、フォローはしていないんだけど、リストに入れておいてときどき見て、ドワーとお気に入り付けるようなツイーターの方々がいるのだけど、その人たちのツイートが出てくるだけだったなw
▷津波とか地震とかのキーワードは定期的に外す必要があるし、 「犬猫ペットかわいい!」とか「絶景を楽しめる旅行!」とかつぶやかないといけないかもしれない。
▷興味と関心のキーワード、確かに、軽く200を超えるほどあったな……
▷まあちょっと、これ、上下巻を図書館の2週間期限以内で読み切るのは無理かもな。でも、面白いことはわかったし、読める文体でもあるようなんで、いずれKindleで買って続きを読めばいいだろう。
▷まったくの思いつきですが、 「フォロワーが1000人いたら、誰かや特定の属性/集団にヘイト感情の向いたツイートをしてはならない」 「10000人を超えたら、特定の利害の対立のある政策や外交方針に、反対を表明したり推進を要望してはならない」 みたいなニーズはあるのではないか。
▷(「アーティストは」とか「スポーツ選手は」とかの属性ではなくてですね) (数字は思いつきの中でも、さらに適当です)
▷で、この「二種類の数字がある」というのは、ダンバー数を連想するな、というところまで含めて、ジャスト思いつきではあるのですけど。 ミームの寡頭政治をやめようぜ、とか、処理できないほどの情報を集めないようにしようぜ、という感じ。
▷じゃあ、地縁血縁の時代に戻れ、と言われて人間が戻れるわけもないのですが。
▷(当たり前に言って、捨てアカウントをフォロワーとしてぶら下げたら、論敵の発言を封じられるわけだから、ルールとしても穴だらけっすわ)
▷THINK BIGGERとWEIRD上下と並んでると、蛍光カラーで目がチカチカするなw
▷「いつか読めるかもしれないし、セールだから難しい古典を買っておこう」にも危険信号か……
▷iPhoneを大容量にし、新しい端末を買っても、古い端末に極力ダウンロードした状態でそれを維持していく、必要が出てくるのか……
▷RT ”購入から1年以上経過したコンテンツは端末から削除すると再ダウンロードが保証されない”
西洋の(Western)、教育水準の高い(Educated)、工業化された(Industrialized)、裕福な(Rich)、民主主義の(Democratic)社会の出身
・罪の文化と恥の文化←菊と刀の人々が特殊だったのでなく、カ・プ キリスト教世界のほうが特殊だった。
非WEIRDな人々の場合には、たとえば、自分の娘が社会的ネットワーク外の誰かと駆け落ちしたら、世間の批判的な目にさらされて「面目を失った」と感じるだろう。一方、WEIRDな人々は、ジムに行かずに昼寝をしてしまうと、それが義務ではなくても、また誰も見ていなくても、罪悪感に苛まれるかもしれない。
・自分が何であるか、と聞かれて、職業や性格でなく、「誰々の息子」と答えるのが氏族社会の文化。役割や責任。
⇒そういう意味では、「○○son」 という姓や、さらには「fisher」という職業の姓すらも、流行や役割を終えつつあるかもしれない。「いっき・ザ・オタク」とか、そういう名乗りのほうがすっきりするもんな。
・カトリック時代が共同体を解体し、プロテスタントが識字率を押し上げた。
・個人主義的世界では、人間関係は「探し・惹きつける」ものになる。対して氏族社会をうまく渡るには、
①内集団の仲間に合わせる、
②年長者や賢人などの権威に従う、③(よそ者よりもむしろ)自分に近しい人々の行動を監視する、
④内集団をそれ以外からはっきりと区別する、⑤機会があれば必ず、身内ネットワーク全体としての成功を後押しする。
⇒ウェイビジネスマンでもあり、昭和でもあり、現Xランドでもある。
⇒部族社会は、生存に不確定性の高かった時代には合理的だったが、新規なアイデアが必要な時代には適さなくなった。
・リベラルと裕福は双方向に影響がある
⇒が、豊かにすれば民主主義国家になるわけでもないことが、わかってきてしまったが……
⬐(非WEIRDな社会では)
重要なのは、他尊感情(「面目」)であって、「本来の自己」に根ざした独自の個人属性を伸ばせているという自尊感情ではない。
⇒承認欲求と部分的に重なるということでいいかな? 名誉や面子主義のような狭いニュアンスに限っているだろうか?
恥感情には、それとはっきりとわかる普遍的なディスプレイがある。目を伏せて、肩を落とし、(身を届めて)全体的に「小さく見せ」ようとするのだ。このディスプレイは、生活共同体に対して、この出来の悪い人間は、自らの違反行為や欠点を認めて寛大な措置を求めています、というととを知らせるものだ。
⇒これ、健康に悪いんだよなー。ますます仕事が進まなくなるし。
そして、他人の失敗を、自分のことのように恥ずかしく感じることもある。親族関係に統制された社会では、ある人間の犯罪や不倫が、その親、きようだい、さらにはイトコやその他の遠縁の親族にまで、恥感情をもたらす可能性がある。
⇒これが「共感性羞恥」の源泉?
たとえばいま、あなたがかつてはリベラルだったのに、少しずつ保守的なことを言うように変わってきたとしましょう。
そのとき頭の硬い読者は「リベラルだとじていたのに保守になった、がっかりだ」で終わりです。他方でいわゆる「信者」は、「どこまでもついていきます」となってしまう。これは両方とも意味がありません。望ましいのは、「あなたのことはリベラルだったと信じていたが、じつは保守でもあったのですね、そういえば過去のあの発言やこの発言もそう理解できるかもしれない」と、「じつは……だった」の訂正の論理によって、あなたの一貫性を再発見してくれるような人々です。そういうひとがいないと、安心して変化できません。
社会学では親密園と公共圏という対立で世の中を捉えます。その対立に強引にあてはめるならば、訂正するひとの共同体は「親密な公共圏」とでも言える両義的な存在です。
⇒この距離感は興奮する。
ドイツの法学者、シュミットの有名な定義にしたがえば、政治の本質は「友」と「敵」を明確に分けることにあります。
それが全面化するのが戦争です。(中略)
戦争はまさに政治の延長なのです。
⇒このあたりの技術の進め方はドキリとする。戦争のことではなく、「政治」の段階で友と敵を分けるのか……。
⇒ここでさらに、私は「権力」、特にフーコー的な大衆個々人の中から、自分の思いを他者に影響させたいという欲望の、集合やうねりとしての「権力」を連想する。それがニアリー「政治」なのではないかと。
⇒そう考えると、戦争は民衆のなかに刻み込まれていることになって、暗澹とするが。
たとえば日常の生活で家族や友人と会話を交わすとき、ふつうはスポーツや音楽の話で喧嘩にはなりません。どんなチームが好きか、どんなミュージシャンが好きかという判断は、政治性を帯びずに語りあうことができる。裏返せば、それができなくなったときは社会が政治的緊張に満ちているときです。
⇒私はここまで楽観的になれないな。オタク差別の強かった時代に生きていたからね。嗜好や感性は差別や排除の土俵になりえるよね、って感覚かな。
⇒それを前段の「政治」とニアリーでつなぎたくなったりもする。そう考えると、平和とは、いじめとか粛清とか、そういうものはある世界だということになるかな。
社会に関心をもたず、虚構の世界に耽溺する。マンガやアニメの話だけで友人関係をつくる。
オタク文化のそのような性格は、欧米のサブカルチャーとかなり異なります。欧米では若者文化は階級や人種の問題と密接に結びついている。音楽にせよファッションにせよ政治と不可分ではいられない。
⇒「不可分になっている」の間違いかな? 流れで読んじゃったけど。 #二重否定 ⇒そう、リズムに乗って読んでいると、単否定で読みこなしてしまう。そう書いていないのに。ポストモダン哲学で言うところの、書き言葉を話し言葉的に読んでしまう、ということが起きている(うるせえ、カタカナは嫌いなんだよ! ラテン語の素養も古代ギリシャ語の素養もないから、丸暗記してもすぐにごっちゃになってしまうから。シニフィエとシニフィアンとか)。
⇒作者さんから引用リツイートもらったので、単否定で確定になった。
近年は格差やジェンダー、安全保障などについて発言する人々も多いですが、政治的なメッセージを含む作品はいまでも例外的です。その特徴はふつうは否定的に語られますが、ぼくはむしろ、そんな脱政治的な生きかたがかくも広がっていたということ、それこそが逆にいかに日本が平和だったかを示していたと考えています。
ハリーポッターを見ている子どもが、「ホグワーツの先生たちはハリーをひいきしすぎなのではないか?」と疑問を呈していた。
たしかに、いかにもレガシー枠での入学というあの感じは、日本的教育システムからは違和感を覚えても不思議ではないな。
こういうのを「ずるい」と感じるある種の平等主義が日本社会の強みであり弱みでもあるという気がする。
年の差婚が倫理的に悪であり、同性婚は倫理的に善であるところの包括的な道徳パッケージを他者にも強制したいという人は、要は「新しい教育勅語」を求める人々なのであると思っている。なお、私は他者の性関係・婚姻関係を倫理的観点から評価すること自体に反対(なので同性婚には賛成)である。
これはまことその通りで、ペットに限らず自己の死を含むすべての「ロス」への悲嘆や不安をこれで回避できるというのがショーペンハウアー哲学。 ショーペンハウアー、プードルが大好きで若い頃からずっとっており、しかも「ショー
ペンハウアーはすべてのプードルに「アート
マン」という同じ名前をつけていたともいわれている」(梅田孝太『ショーペンハウ
講談社現代新書)という謎エピソードまだ持っているのが突き抜けてて好きです
なお、この結論をミルのように、「で、でも、みんな人間になりたいじゃん、dignitas
あるじゃん.......」という風に功利主義を修正する方には向かわずに、そのまま「だよね、なのでこの世界はクソであり、一切皆苦」とするところがショーペンハウアーの面白いところ。
ショーペンハウアーの議論自体、ホッブズの
計算的理性論とベンサムの功利主義をよく咀嚼したものですね。快楽計算でいく限り、人間より動物である方が設計上、「幸福」(苦痛が少ない)であることにならざるを得ない、と。
なお、この結論をミルのように、「で、でも、みんな人間になりたいじゃん、dignitas
あるじゃん......」という風に功利主義を修正する方には向かわずに、そのまま「だよね、なのでこの世界はクソであり、一切皆さするところがショーペンハウアーの面白いところ。
ショーペンハウアーの「動物の幸福」論は結構面白い(おそらくニーチェもこれを受け継ぐ)。動物は「現在の権化」であることにより、人間よりは動物の方が幸福で、まさにそれ故に人間は動物を飼いたがるのだが、それは不正なのであるという。
バタイユも、「およそ動物というものは、水の中に水があるのとまさに同じあり方で、世界の中にある」というようなことを言っていました。ショーペンハウアー→ニーチェ→バタイユという系譜はいかにもありそう。
まあ、そう、官僚機構のデフォルトとしては最高裁まで争わないで勝手に負けを認めてしまう方が問題なので、こういう場合は「政治判断」(首長や大臣)で止めるしかないとこる、今回のような公安案件については......ということなのかなあ。
年の差婚が話題ですが、「社会的に望ましい性関係や婚姻のかたちはあります」みたいな
前提を強化しちゃって大丈夫なんでしょうか、とは思いますよね。
何が望ましくない婚姻・性関係のかたちなのかは、割と短期間のうちに頻繁に変化することを目の当たりにしてきたのが私たちの世代ではなかったのですかという。
ハウスルールなのでご自由にというのが大前提としてなのだが、とある駅ナカの(お酒も飲める)カフェで、一人で飲んでる女性への声掛けとともに、男性の集団での「猥談」を禁じており、いわゆる環境型ハラスメントへの配慮なのであるうが、利用者になかなか厳しい制約を課すものであるなと感服した。
たしかに、酒気帯びの中年男性集団があたりをはばからず猥談をしている傍に座を占めたいかと言われれば、それはご免こうむりたいので、規制の趣旨はよく分かるのだが。
そして、①の侵害についての認識不足もさることながら、②の侵害(名誉・プライバシー侵害と社会的制裁の扇動)をしたことへの十分な自己反省がない。さらに、②の侵害を回避するための慎重な報道姿勢が欠ける場合があること (そのことへの事後救済もない)
が、そもそもの元区。
犯罪報道の問題は複層的で、①後に有罪が確定する者への侵害、②後に無実であることが判明する者(起訴猶予含む?)への侵害、③公正な刑事裁判への悪影響、がさしあたり考えられるが、報道側は①に関する報道を絶対視する(許容性を緩く考える)ために、②の問題を起こしやすい気がする。
今の時代、こちらの言動が気に食わない人々がよってたかって事実無根の虚説を書き立て、それをお仲間で回し合い、それをもってある種の既成事実とみなし、「疑わしきは罰せよ」とばかりに自分の生活基盤や研究基盤を破壊しに来るという事態にリアリティを持たない人はよっぽど幸せな頭をされた方です。
逮捕や起訴はしたけど確定判決が出ていなかったら冤罪ではありませんみたいな話もそうで、だったら人質司法とか絶対に批判するなよなと思うわけですが。
これは職業病の一種だと思うけど、学生を前にしていると、大事なことを二回言う癖は本にある。微妙に言い換えたりしながら必ず二回繰り返してしまう。
社会的制裁に関しては「疑わしきは罰せず」
の無罪推定を守る必要はないといいたい人々、刑事罰に際してほど厳格に守られる必要はないという意味ではその通りとしても、「一手先を読む」能力に欠けるところがありそうなのが気になる。
メディア報道が報道対象者の社会的生活に与える影響の大きさに鑑みれば、「刑事手続きと違うので、無罪推定の原則は働きません、残念!」みたいな言い訳が通じないのは明らかで、それこそ第四の権力たるメディアの責任って何なのという話でしょう。「刑事手続きほど厳格ではないよね」というだけ。
「もし、そこの方、いま原文と言われたが、岩波文庫というのはね、そももはや原文ではないわけです。仮名遣いとか漢字とか......」とかそういうややこしい口はもちろん挟まなかった。
子どもが霜柱を踏むのはアフォーダンスではなかろうか。
私がその時に直感的に思ったのは時節柄「このおっちゃん、源氏物語を読みたくなったのでは!」ということで、と同時に「源氏の現代語訳、これは難しい.....」とも思った。おそらく店員さんも同じためらいを感じていたのではないか。
カネさえ稼げばいい、というのと、とにかく世の中に尽くす、というのは、同じことの裏表である。どちらにも、自己がいない。
現状、そういう古典的著作の現代語訳が普通にあるのは主に子ども向けで(なので、店員の案内は完璧に正しかった)、講談社学術文庫がたまにチャレンジしてるかなという程度だよね、たぶん。
ともあれ、デフォルトで古文?や原文?のが普通に売ってるのはおかしくて、現代文のがずらっとあるはずだろうという感覚は馬鹿にしたもんじゃないというのは思わされた。英語圏はそういうところがあるような気もする
し。
いま、利他とか公共性という主題は、現代のテクノロジーと資本主義における、もはや自分自身としてやることが何もない、というニ
ヒリズムを隠蔽するキーワードではないかと思う。
互いが、互いのために尽くし合っていったら、人間の個体はなくなり、すべてはホワイトノイズになるだろう。
フィルターバブルとか言われる。同質的な意見だけを見て増幅されると。まあ、それもあるだろう。でもそれより、ツイッターによって、こんなに違う価値観があるのかと、知らなくていいものが過剰可視化されて、それへの反論が激化した、という方が大きいんじゃないかと思うな。
現状肯定から踏み出して、世界を変えていくには、まず、「端的な現状肯定」から始めなければならない。現実がまずそのようにあることを、何らかの理想論の影響下で「そのままに見ない」ことから始めるのではダメだ。
若い頃は、仏教において頭を空っぽにする、みたいなことの意義がわからなかった。いろいろ考えた方がいいじゃないかと。それは、若くて、考えるにしてもたいして考えられていなかったことがわかっていなかったんだな、と。
90年代末から2000年代後半にかけて、まずサーフ系、次にギャル男という呼称が生じ、その後お兄系という言い方が出てきて、
最初は安いものの組み合わせだったのが、だんだんハイブランドを取り入れるようになっていった過程をある程度覚えている。そのうち記録として書いておきたい。
70sの日本のマイナーな新左翼雑誌などを見
ると、やれ三島だ、吉本だ、谷だ、日本浪
曼派だと文学者についての議論がさかんで、「政治」=「文学」であるような一時期があったことが感じられる。昭和期の「政治と文学」とも、80s以降的「文学の政治性」とも少し違う何か。
森田正馬によれば、生きる欲望と不安は表裏一体である。積極的に生きようとするから不安も生じる。そして、不安があるところには、生きようとする輝ける肉体がある。だから、不安をなくそうとする必要はない。あって自然なことだ。不安と共に生きることが、生命の充実である。
現代社会に広がっている安心安全の徹底は、良い人生のためどころか、人々をニヒリズムに陥れていく。
英語と違ってフランス語のTHは歯音にならず、常にTと同じ音よ。なかなか英語風に発音する癖が治らない人がいるので気をつけてね。例外と考えられるのが「喘息」の意味の男性名詞asthme (lasm])で、「地峡」の意味の男性名詞isthme([ism])で、これらの単語、およびその派生語のTHは発音しません。
まあ、そうだったな。文学に情況を見ていたせいもあるな。
「〇〇は良いこともした」かについては、良いことの基準を最初に提示しなければ意味ない気がする。
会社に不満があってもいつでも転職できるような専門性を身につけようと思って生きてきた。いつの間にか、あまりに専門的すぎてどこにも転職できなくなってしまった。
24年2月のNHK「100分de名著」にて、口ーティ『偶然性・アイロニー・連帯』(全4回)をやります!なんと同番組では初のプラグマティズム、初の言語哲学(分析哲学)、初の二〇世紀アメリカの哲学者...だそうです。大役を仰せつかって震えてますが、楽しみに準備を進めております。ぜひご期待ください。
精神分析と言うと、いろいろうさん臭く思われるわけだが、フロイト・ラカンの議論の様々なパーツは、予測誤差をめぐる神経の興奮と鎮静の問題にある程度言い換えられるところがあり、少なくともそのモデルで脳科学を捉えるならば、ある程度は現代的に見ることができる。
(今から書く事チェック外しても復活しますが少し効果あり)
アカウントに「興味と関心」って設定項目があって
過去に検索したり発言したり
いいね、RTした物が自動で追加されていきます
そこでチェックマークを外すとオススメタブに出なくなります
その部分に「引くほど勝手に」単語登録されてます
熊本地震の設営したテント村のトイレ。巨大なテントの中に小さなテントを並べその中にラップポンを。このラップポンが導入されてから、テント村で生活されている皆さんの表情が明るくなりました。長期戦になればなるほど清潔なトイレは重要。
ちょっと前までTLがインプレゾンビを非難するツイートや地震に関するツイートで溢れていて殺伐していたのに、犬のツイートをRTしたら犬のツイートばかりTLに流れてくるようになった
これも同書の林氏の対談パートにあった話ですが、過疎集落へのインフラ維持は一般的に思われているよりも相当にコストがかかっており、例えば雪国では市町村道1キロあたり年間90万円(これは2016年段階の数字なので今はもっとかかっているはず)、例えば枝道を5キロ入ったところの集落は道路だけで年間450万円かけているそうです。
その他色々なインフラコストを積み上げる結果、過疎地域に住む人は予算を人口で割ると東京に住む人の一人あたり4〜7倍ぐらいの自治体予算を使って生きていることは珍しくありません。ざっくり言えば財源は都会の経済活動からの補填です。
「そんなことはもう許されない」と言いたいのではなく、同じ国を共有する仲間として、そして国土保全を担ってくれている人々のためにその程度払うのは容認できると私個人は考えています。
そうではなく私がこの数字から主張したいのは、「“現状維持”にもそれだけお金をかけている」ことが理解できれば、「攻めの集落移転」にだって大きなお金をかけてサポートすることが合意できるはずだということです。自力でなんとかしてくださいという話ではなくなる。
椎名林檎はいつか「国歌」を作りたいのだと僕は思っていて、『NIPPON』で大コケした後に(僕は曲としては好きだがあれは軍歌に留まった)『緑酒』で改めてそれを試みたのだとの理解。
ナンチャッテ枠だった鳥肌実や椎名林檎がガチ臭い感じになってきて、会田誠が真面目なことを話しだすという時代に来ている
IKEAのサメのぬいぐるみの、「水揚げ」されている感が好きすぎる
「東京は格差がデカい」という話があるが、地方の大した産業が無い田舎の方が差が大きいように感じる。地方の田舎の場合、そもそも稼げる仕事というのが無く時給が異様に安い。地方豪族企業はその人件費の安い豊富な労働力を自由に使うことができ、結果的に富が一局集中するのだ。→
・家に持ち帰っての練習などがない
・子供が習い事中に親がやることが特にないというのが主な理由なんだけどどうだろう?
上を目指す!みたいなハイレベルな子はまた別だと思うけど、「とりあえず週に一回行って身体動かしてきてくれい...」っていう意識が低い私みたいな親にとってはありがたい習
い事。
書道教室も、やるべきことが教室で完結することから候補に上がりましたしただ道具のお手入れの点から水泳に負けました!
水着は洗濯がラクなこともポイント高そう。
小さいしすぐ乾くし。
野球はユニフォームドロドロ、柔道空手などの道着はゴワゴワで乾きにくい、って先輩ママが言ってました。
まあ道着は浴衣みたいな薄っすい生地もあるんですけどね。
スイミングもやりましたが個人的にはダンス
(発表会は2年に1度しかない)が親の負担少ない&親子共に楽しい現在NO.1です
うちは同じような理由で体操教室です。スイミングのようにテストや進級がないから友達と分かれちゃったってこともなく行きしぶりがなくて、髪の毛乾かす手間もないですね。
学校の体育でやるようなことを習っていつの間にか出来るようになってるのでありがたいです。
FF外失礼します
低学年まではレッスン中、親が真剣に子の様子を見る必要があります。いなくなる親や居眠りする親は多いですが。絶対に推奨します。何故なら私は2回もレッスン中に沈む子を見ているからです。うち1回は親が異変に気づき怒鳴って知らせてました。
なので毎回気が抜けません...
自分の経験と子に経験させた中での1位はそろばんです!
教室内で全て完結、宿題なし、学校帰りに教室行って帰宅するから送り迎え無し、学校の算数の計算がめちゃくちゃ早い=学校の宿題
早く終わるし、間違いも少ない。お金の計算が得意。そんなとこですかね。
スイミングは送迎のダルさと子供同士のライバル化と行き渋りで辞めちゃいました私の中で1位は公文→宿題自分でできる、学校帰りに行ける、年2回の個人懇談以外関わる事がない、と書道教室→道具貸し出し、書き方は学校の筆箱で良し、学校帰りに行ける、でした~
「創造の創が「きず」だということは意外に知られていないようです。(絆創膏という薬もあることです。)創造の創は、もちろん「物事の始まり、始め」という意味ですが、物事の始まりが「きず」だということは大変意味深いという気がします。」(吉野弘『詩のすすめ詩と言葉の通路』思潮社、P47)
艦上の甲板は狭いけど、周囲に電柱や木が一本もない開けた場所と言って良い。
それに甲板上はきれいに整理されているので、ダウンウォッシュで物が飛ぶこともない。
この写真を見て「こんな狭い場所に降りられる。」と言っている素人は黙っていた方が恥をかかずに済むよ。
一般にヘリコプターの離発着にはこういう制限があるので、海上やビルの屋上なんかの方が遥かに条件を満たしやすいのですよね。
(障害物があってはいけない範囲)
北海道旅行に行く中国人に理由を聞いたら情
(日本題:Love Lerrer)を見て憧れを感じたらしい。この映画は中国でメチャクチャ有名で、同じ理由で北海道に行く人はけっこう多いらしい。日本人のあなたは然に知っているでしょうと言われたけど、すみません、知りませんでした
また「逐次投入」批判ですか。戦争じゃないのだから順次投入しても問題は無いし、地形上の制約を無視して他の災害と比較しても的外れだし、なんですかね、無理矢理な批判をして...
ハンガリーなどが話題になるが一番スコアが低いのはオーストリア。実は隠れたEU懐疑
派。
「変態」という語が、同時に「クイア」と「メタモルフォーゼ」の両方の意味で使われているところも、とても好きなところです。
いまユートピアを考えるとすれば、現在のマイノリティを含めたすべての人がアイデンテイティを認められる社会ではなく、すべての人が変態になり、さらなる変態を遂げていくことのできるフーリエ的ユートピアでしょう。
ごく個人的な実感としては、人文系の学問は、60代以降に重要になる気がする。
イギリスは、フロイト以後に精神分析を引き継いでブーストした場所でもある。対象関係論とは何だったのか。ある種のイギリス的なものとして語るべきことがありそうだ。
ファンタジーというジャンルは、部分対象や移行対象の世界。それがイギリスで発展したのは、なるほどとも言える。 移行対象(いこうたいしょう、英: transitional object)とは、過渡対象とも呼ばれる、イギリスの精神分析医ドナルド・ウィニコットが提唱した概念であり、乳幼児が特別の愛着を寄せるようになる、毛布、タオル、ぬいぐるみなど、おもに無生物の対象をいう。
漫画『ピーナッツ』に登場するライナスが、いつも肌身離さずを持っている毛布(安心毛布)が、これにあたる。乳幼児は、移行対象を触ったり口にくわえたりすることによって安心感を得るが、ウィニコットによれば、こうした対象は、乳幼児が「自分は万能ではない」という現実を受け入れていく過程を橋渡しし、母子未分化な状態から分化した状態への「移行」を促すものである。
部分対象と全体対象
クラインによれば、子どもは外界を捉える過程は部分対象関係からスタートするとされます。部分対象とは、その瞬間に自分を満足させてくれるかどうか、つまり快-不快の状態と対象を結び付けて捉えることを指します。
ごく幼い乳幼児はまだ感覚器官や認知機能が十分に発達していません。そのため、常に一緒にいる母親という存在を1つのまとまりとして捉えることができないのです。
客観的に考えれば、お腹が空いて泣いた時に、母乳を与えてくれるお母さんという対象が欲求を満たしてくれていると考えるでしょう。しかし、未発達な乳幼児には、空腹を満たしてくれるという快と結びつき知覚されるのは、母乳を出す乳房のみなのです。
そして、発達が進むことで乳児は母親という統合された存在であると理解していくことになります。
自分の快-不快と結びついた部分対象の知覚から物事には良い面も悪い面もあると受けとめ、部分を統合して捉える全体対象関係への発達していくのです。