2023/07/22-2023/07/27
ツイッターが名前を変えロゴを変えたことで、結構な人が「今までありがとう、さようならツイッター」的なことを口走っていて、おかげで「本当に死ぬ前に記憶と感情を整理して、ちゃんとお別れを言っておくことができた」みたいになったのは、運命の皮肉というかなんというか。
何かをしようと思ったらあたまを下げなければならない。大きいことをしようと思ったら、さらに深く頭を下げていなければならない。身の回りにいる、威勢のいいことを言う人、溜飲の下がることを言ってくれる人をミュートしよう。
▷ある種、“意識”に対して、不注意であることを許容するために、前重心になっているのかもしれない。
▷いやでもさ、一般の姿勢のいい人って、かかとに重心を乗せていて怖くないの? おでこを突かれたら、後ろに転んじゃうじゃん。かかとより後ろには足の裏がないんだから、押し返すためにふんばることができないじゃん。
▷私は姿勢が悪い。背中や肩も丸まっているんだけど、それ以前に、前傾姿勢というか、全体に前重心になっているんだよな。重心が、足の裏の、つちふまずよりもう少し前、母指球とかで囲まれた前アーチのあたりにある。
▷ノケモノたちの夜(1)
星野真
(少年サンデーコミックス)
▷君と悪いことがしたい(1)
由田果
(少年サンデーコミックス)
▷7/31までブラウザから無料で読めるっぽい。
最近、TL広告から読んでみて、楽しかった漫画。
▷なんか、少女漫画のキャラとプロットを、少年漫画のコマ割りで書いてくれている感じだろうか。
すごく読みやすい。
▷ここまでヘキに刺さってくると、ちゃんとウェルメイドしてくれるだけで、それがすでに脅威。
▷リツイート履歴が、タイムラインだけでなく、自分のプロフィール画面にも残らなくなっているのか?
▷基本的に、単発な予定は、“当日になってから、「あ、あれ今日だっけ」ってなってから対応する(慌てモードでやる)”ほうが、トータルでの精神的負荷が小さいです。
⇒そのほうがアドレナリンが出てテンションが上がるから、というのもあるけど、価値観の衝突が起きなくなるから、というのもある。準備ができないのは事実だけど、不安になることの9割は起きないから、あるレベルで「余計な準備」を防げるから、というのもあるだろう。
老人の死を悼み、静かに執り行われる儀式と、そんなものとはまったく無縁に元気いっぱいの赤子。この二つが交錯するところに、人間の人間たる複雑さがある。どちらかだけではダメだし、それぞれを中途半端に行えばよいというものでもない。片方にはまったく厳粛に儀式があって、もう片方にはそれを壊すものがあって、互いが互いの存在を排せつしないようなそのような場。そのような矛盾した場にこそ、人間文化の源がきっとあるに違いない。
自他ともに認めるコミュ障なのに司会が抜群に上手い(何度も司会を務めるということは知人の間でも定評があったのでしょう)というのはとても面白い。組織を引っ張る立場でもまれながら鍛えられたのか、あるいは司会は通常のコミュニケーションとは使う筋肉が違うからなのか…?
団塊世代が紙の保険証に異常にこだわるのもこれかな。「慣れ親しんだ体験は、自分の満足度を低下させるリスクが少ない」/「最後」を意識すると、人は新しい体験よりも慣れ親しんだものを選ぶ - ナゾロジー
人間関係の中で『所有する』がある程度正当化される関係性ってある。それは、契約。
契約が成立している間、2人の間に所有する・されることが正当化される。
この関係性が健全な場合、お互いが合意の上で所有関係が継続する。
所有という感覚を持つと、どうやら「言うことをきかないとイライラしてくる」ようだ。
そして、この問題の背景には、『支配者が、責任転嫁する」ということもひそんでいるきがする。
ためこみ症は、『所有』に関する独特な感覚を持つ。『人はどこかにいく。ものはどこにもいかない。だから、ものを所有することで不安を紛らわす』この感覚。
でも、この『所有』っていう感覚って意外と日常の中でもよく出てくる。
⇒記憶はどこかへ行く。だから物で所有したい、みたいな。
美容師「歴史好きなんですか?」
ワイ「まあ…」
美容師「私も結構好きですよ!好きな時代は?」
ワイ「源平合戦とか」
美容師「大河で人気のとこじゃないですか」
ワイ「『大河』見るんですか?」
美容師「去年は話題になったので。お客さんは?」
ワイ(こやつもしや)
美容師(同好の士なのか?)
大河ドラマじゃなく大河と言ったり、○○時代じゃなくて中世と言ったり、室町幕府将軍じゃなくて足利将軍(家)って言ったりしてる人はだいたいおたくだと思っている
過去の自分へ
読書メモを取るのをサボりましたね。
今の自分へ
そのとき何を感じ、何を思ったのか、何がわからなかったのかが残っていると再読した時に面白いので、今後は気をつけてください。
きっと忘れているのでまたフォローアップしてください。
現実の制度に対する尊重の姿勢も素晴らしかったと思う。嘘を交えたらドラマは割と面白くしやすい。嘘の量を少なくしようとすれば、ドラマは現実の延長になり、ドラマチックではなくなる。
原作は、嘘をなるべく小さくしながらも、きっちり面白く描いてくれたと思う。
以上が参勤交代の目的であり、その結果として大名が経済的に疲弊しました。目的と結果は別物です。受験に落ちた人に「君は大学に落ちる目的のために勉強していたんだね」とは言わないですよね。
筆算の線を定規でまっすぐ引くのは特別支援的観点でめちゃくちゃ有効なので学習のユニバーサルデザイン的に定規で書くように指示するのは当然だと思う。手書きのブレた線から視線がズレて計算がわかんなくなっちゃう子は結構いるし、出来る子まで強制はわからんけど一回目の指導では言うべきだと思う。
むかし精神的に辛いことが続いて体調もおかしくなったことがあった。そんな時何気なく目に入ったお笑い動画に励まされた。
今は、辛いときはお笑いを見て甘いものを食べることにしている。
自分の絵も、そんなふうに誰かの役に立っていればいいなと思った。
高温になるまで加熱せずとも食える、つまり自然解凍でも食える衛生レベルをクリアし、角の氷が一度も溶けないコールドチェーンをくぐり抜け、解凍モードを使わずとも、麺は加熱、具は常温、氷はそのまま、常温でみぞれ状に解凍するつゆと混ぜることで、安定した冷やし中華に。
対象についての周辺状況がよりわかることで面白さが増す、ということはありそうですね。
記録はあすけんアプリで取りました。
結果
・ふだん食べてる食事では、食物繊維が、あすけんアプリでは大幅に不足していた。かなり頑張って摂らないと、適正範囲に届かない
・タンパク質も、頑張って摂らないと、適正範囲に届かない
・「完全バランス栄養食」では、繊維質もタンパク質もたりない
それはそれとして、「希望が足りない」という感想はなかなかすごいですね。希望は他者から完全な状態で充填されるべきものである、みたいな感じを受けます。
⇒希望がないならわざわざ時間とお金を払ってまで読みたくなかった、というのはありそう。
目が合うメガネの作り方です
簡単なので夏休みの工作に作ってみてね
何回見ても見抜けない…😳
⇒凹凸が逆のやつ
内容も素敵なんだけど、アルコール飲料のCMのため未成年の演者を出せないという制約の中で、子どもの姿を一切出さずに親子の日常を描けていることが素晴らしすぎる。
本来なら企画段階で諦めてしまうところを、演出の力で乗り越えて見せてるとこに作り手のみなさんの気合いと工夫が感じられて元気出た😭
思わずあるあるとうなづいてしまうパパ同士の奥ゆかしい距離感が詰まってます😂🚲🛍️週末のごほうびまでお互い頑張りましょう‼︎💪✨
お腹の中に「おなかがすいたがある」
「ない」というのは抽象的すぎてまだ乳飲み子にはわからないのだ。
だが私たちにしてもときどき「ないがある」に振り回される心理に陥る。
わりとよく出てくるのが「既読スルー」だ。この造語の存在がもう暗示的と言えるかもしれない。
「返信がない」だけである。(中略)「読んでおきながら無視するという攻撃がある」のと「返信がない」のとは違う。
私たちは「あるべきものがない」ときや「あってはならないものを目にした」ときに乳飲み子のような妄想に呑み込まれがちだ。
「ない」というのは「ただ単にない」のであって「あるべきものがない」わけではない。
⇒なんだったら同確率のガチャが別の日には当たっていることもあるし、嘆いているのとは別のものが手に入っていることもある。
⇒当初のコンセプト通りに牌が来ないからと怒るよりも、ツモの中から手を作る。
ブログ記事を書けるほど現実に能力をもっているなら「1万PVはアクセスされるべき」とのストレスに耐えられずに泣くだけではなく「30PVあった」とたんなる事実に意識をまとめたほうがラクである。
「できない自分」というよりも、正確には過去の振り返りであるから「できなかった自分」である。この言葉は精神分析の「不在の母親」と似たおかしな響きがある。
たとえば「毎朝2キロ走ることによって健康が保たれる」と信じている人がいるとする。しかし前の日はたまたま大雨で「走ることができなかった」。その人は「これでは不健康になってしまう」と不安に思うかもしれない。
これは「できなかった自分」によって何か被害にあったと感じていることになる。
しかし現実をよく考えてみると「走らなかった」ということはつまり「なにもなかった」だけだ。
⇒最後にハッピーエンドが付かなくても、唐突感がないのがいい。
第三に、認知より共感を本気で重視している点です。これまでの多くの広告の考え方は「認知を獲得するために共感を喚起する」というものでした。共感は認知の手段であり、広告宣伝の第一目標は認知だったのです。その前提には、「認知」が獲得できれば販売につながると言う暗黙の了解がありました。そして何より、認知は計測しやすいのです。
一方「共感」は、例え広告に共感しても販売に繋がるかどうか曖昧だし、何より計測しずらいのです。
そう、「無言の父たち」は「コメントをつけて」リツイートする必要があるのです。コメントをつける手間は意外とハードルが大きく、そのままリツイートに比べて引用リツイートの件数は大きく減少します。件数を増やし、認知を獲得するならコメントはつけない方がいいのです。
国家統計局は同月の16─24歳の失業率は19.7%と発表した。これに対し北京大学の張丹丹副教授は財新のオンライン記事で、家で寝そべっていたり親に頼る非学生の1600万人が統計に含まれていたら、失業率は46.5%に達した可能性があると指摘した。記事は17日に掲載されたがその後削除されている。
6月の公式統計では若者の失業率は過去最高の21.3%。これは就職活動を行っている人を対象としている。
ただの作家やイラストレーターを、いかにその技量が優れているとしても、「神」と呼ぶことはあまりに「大袈裟」で「過剰」であり、それ故に「アイロニカル」です。オタクが愛する者の「生誕祭」を祝い、自分なりの「祭壇」をネットに上げるとき、そこには「自分の過剰さを見てほしい」といった、照れ隠しの心理が働いています。
いかにも逆説的なことですが、この不透明さと流動性を強めた、たしかなものが何もない社会において、他ならぬ対象への没入性、即ち「好きという気持ち」こそが、船を港に留めるイカリのように人を現実にコミットメントさせてくれるからです。
さまざまな宗教もほんとうの意味で「ビッグ・クエスチョン」に答えているわけではありません。
いってしまえば、宗教は「ビッグ・クエスチョン」に対し天国とか地獄とか、神とか仏とか、救世主とか聖母といった「物語(ナラティヴ)」を提供しているだけです。
それらのナラティヴの信憑性に関する疑惑をいったん棄却し「ただ信じる」場合に限り、宗教は人を救ってくれます。
そうではなく「応える」なのかもしれません。もしそうなら、宗教もまた「答え」を用意しているわけではないことを認めた上で、それでもなお「応える」ことが大切なのだといっているとも受け取れます。
もしこの解釈が正しいなら、オタク的な作品も「ビッグ・クエスチョン」に「答える」ことはできないまでも「応えて」いることはありそうです。
懸命に生きるとはどういうことなのか示してくれます。そういう一例を通じ「生きることの意味と無意味」を「実感」した人間こそが、最も熱烈な意味でのオタクになります。
そもそも「なぜ自分は生きているのか」という「問い」に直面したわたしたちが求めている答えとは、単なるロジカルなストーリーではないはずです。
もしオタクが幸福な人種だといえるとしたら、それはかれらが言葉ではなく体験を通して「ビッグ・クエスチョン」の答えをもらっているからに違いありません。
しかし、それでも「おそらくこうだろう」と「見当」をつけて「賭ける」ことはできるし、人間はじっさいにそうしているのです。
神があるのかないのか、人間の理性では決して決定できない。それはまさに宮台がいう「世界の未規定性」を覆う暗号そのもの、サイファだからです。ですが、だからといってすべてを「何もわからない」といって終わらせることが最善ではありません。
人は何か「神聖なもの」に触れたと感じたとき、その向こうに「北極星」を見ているのです。
たしかに不世出の天才バレリーナは「〈神聖さ〉のイデア」を表すためにふさわしいと思われますが、同じことはアニメでもマンガでもいえるでしょう。わたしたちはある人物や作品を通じ「神の世界」を視ます。そしてここまで来てしまえば、その人物なり作品を「推し」と呼んでも不自然には感じません。
推しとは「ありとあらゆる善きもの」の象徴であり、また集合だといいました。この不たしかな世界で信じられるもの。
一般的なポップカルチャーで、遥かな天上を指し示すような名作になどめったに出逢えるものではありません。
ただ、その作品の客観的、一般的な評価は問題ではないのです。あくまで重要なのは、あなたやわたしといった個人がそこに何を感じ取るか。人が神聖なものを「視た」とき、それは人生を照らす北極星、つまり「光の道しるべ」となります。
その道しるべを得たとき、初めて人は有象無象の「スピリチュアルなるもの」に対する本質的な抵抗力を手に入れます。
愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。」もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。渇いたなら、飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです。(ロマ12章より)
なんのパロディでもないと思ったら金曜ロードショーやった!!
すっかりミーム脳になってますよね。
ちびまる子ちゃんとか。
キュウリが分かり易いんだけど曲がり方、膨れ方的に灌水管理がなってないのと収穫タイミングの見極めが甘い
ニンジンが分かり易いけど土作りも甘い
根端分裂組織に固い粒子が当たった時に避ける事で画像の物の様な形の不揃いや先端の分裂が起こる
多分石が多い
農薬どうこう以前に基礎がなってない
いまの時代、思想はすぐに「アップデート」して、自分のもっていた旧い知見がたちまちのうちに差別的だとか二次加害だとかいわれる。それに対し、反省して考えを改める。それは結構だが、間違っていた自分、悪しき自分はどこに消えるのか、消えてくれるのか。そういうことを考える。
消えるか消えないかに大きな分岐点がある。私は消えないのだと思う。というか、消えないほうがいいのだと思う。この提言はおそらく多くの人々の反発を生むはずなのだが、売れてないので届いていない。それがなんだか奇妙な心地にさせるのだ。
ピーターパン症候群的なお話ですかねぇ…。大人になることにもうちょい希望を持たせてやれる大人が周囲に居ない悲しさ感じました…(私も昔ピーターパン症候群気味だったので…大人、なってみたらスリリングでちょー楽しいゲームだった)
確かに…!
なってみると大人って思ったより楽しいよね、という希望は持たせてあげたいですね。
年少扶養控除の復活→財務省管轄
各種所得制限撤廃→厚労省管轄(一部こども庁)
学費無償化→文科省管轄
子育て環境のインフラ整備→具体例が無いため不明 幼保ならこども庁
産後ケア等→厚労省管轄
保育園の待遇改善→こども庁
学校職員→文科省管轄
なのでこども家庭庁でできるものはごく少数ですね
そもそも5兆円(正確には補正込みで5.2兆円)のほとんど全てが紐付き予算(既存の保育無償化や高校無償化)の費用なので… こども家庭庁独自の予算は1000億円ほどしかないですよ。縦割りは個別最適に適していて利権も産みやすいので解体は不可能でしょうね。
半分以上は「予算があってすら執行が難しい」ことに思えます。
まず何かの分野に労働力を集めるには他の分野の労働力が減ることを調整しないとならない。
さらに新しく集めた労働力の品質を一定以上確保するには教育訓練が必要でタイムラグが出来てしまう。そして日本にはとっくに人が足りない。
団塊世代が紙の保険証に異常にこだわるのもこれかな。「慣れ親しんだ体験は、自分の満足度を低下させるリスクが少ない」/「最後」を意識すると、人は新しい体験よりも慣れ親しんだものを選ぶ - ナゾロジー
非難を招きかねないと先取りして空想してしまう。
「誰もそんなこと言ってないだろう」も攻撃にしか聞こえない。何も言われないことすら攻撃になる。
この態度全体が「甘え」とも言えそうだが、決して「すなおに甘え」られてはいない。けっきょく誰にも甘えることができない
怒る」のは自分の「お母さん」なのだ。でも叱ったりせず褒めてほしいと心の中では「甘えて」いる。できれば褒めて
⇒たくさんまとめてがんばると、まとめてほめてもらいたくなるシステムが働くかもしれない。
「自分は何世代も前から続いてきた○○の一部だから、自分の一存で絶やしたり変えたりはできない」(○○にはイエでもムラでもクニでも、はたまた輪廻転生でも式年遷宮でも代入できる)という歴史意識は、たしかに因習や排他性を伴うものだったかも知れないけれど、この列島で人々がエゴを抑えながら
資本主義社会において搾取される立場であることを今まであまり感じなかったのは、大多数の資本家が己が力を大衆に感じさせないように巧妙に隠していたからで、事実、我々は労働者として奴隷であり、消費者として豚であるということを、イーロンによって急に思い知らされて、情けなく、悔しく、惨めで。
欧米と日本の部屋の間取りの歴史とプライバシーの歴史を勉強してからおいでって感じだ。作家先生なら、勉強してみたら何かの役に立つと思う。 / “「家庭に母親の個室がない」問題→そもそも建売の設計には入ってないことが多い”
岡田准一さん演じる信長、ついに退場。もし本能寺の変がなかったらの日本史は興味深い思考実験です。架空戦記では、信長が死ななかった歴史では日本統一の後は海外雄飛したものですが、私は江戸時代っぽい、いや、それ以上にぼんやりした感じの近世日本になったのではないかと思います。
日本列島、血筋と家格でいくと、やはり家格なんですよね。災害列島ゆえに、たびたび自然の猛威が襲ってきては、再建のために力を合わせる必要が出てくる。
毎年のように水害やらで食料生産が安定しないのですから、力のある家をまとめられる『仕組み』が必要でした。一人や二人麒麟がいても足りません。
西欧式爵位を使う人が多いですが、どれぐらい偉いのかイメージがわかりづらいと思いますので目安。
騎士:小さな村、100戸ぐらい
城伯、城代:城ひとつと周辺の集落。
男爵:町村レベル、複数の城と複数の村
子爵:伯爵代理
伯爵:県レベル。複数の男爵領
侯爵、辺境伯:1-2県レベル
公爵:複数の伯爵領、県レベル。もしくは王族の名誉称号。
王、皇帝:地方レベルから日本全体。皇帝は王を支配することもある。
イーロンとXは繁栄して欲しいけど、これで失敗したら「ネットを支配し星にまで手を伸ばした権力者がせっかく手の中にあった青い鳥を自ら逃したために破滅した」という壮大な英雄神話が完成するのでそれはそれでちょっと見てみたくもある。我々は英雄譚の中を生きている。
コートさんのスペースで、専業主婦の奥様に「世間から取り残されている感じはないか」と聞いたら「は?なにそれ?ない。夫の車の助手席に乗ってる感じで、私も動いてるから」と答えたって話、すごくビックリした。その考え方ができる人は専業主婦できるわ!そして私それ無理だわ!と自分を知れた。
PTAにいるママはみなさん良い人だけど、中にはとんでもない鬼コミュ力を持つ方がいる。
人間関係がこじれかかっているのを察してうまくまとめるのがほんとに上手。
そして、それはほぼ100%、専業主婦かパートの方。ワーママでそれをやり遂げる方はご一緒したこと無い。
時間的余裕が無いのだろうな。
日本の女性の労働参加率はOECD平均を上回っているし何かとベンチマークにしたがるUSを2016年時点で抜いている。そして過去にも専業主婦が先進国内で多い方だった時期はほんの数年。日本の伝統かのような「専業主婦文化」は幻想
RT これ見て思い出した。鬼コミュらしい専業主婦やパートの方によくあるPTAなどでの困る振舞い。
とにかく男性や先生に忖度しまくる。"男性や先生は大変だから"と"気遣い"満点のいらん仕事を増やそうとする。男性に仕事を分担させられない。激甘。そうして"女性"で巻き取ろうとする。
"女性"で巻き取ろうとする、のが最悪で、"女性"は皆同じ負荷を負うべきという発想で昼は仕事で会合に出られないとか行事手伝いは無理となると「WMずるい」「WMは甘えてる」となる。ワーパパには言わない。働いているか否かじゃなく、男女で切り分けちゃう。
杉本大一郎『手作りスーパーコンピュータへの挑戦』(講談社ブルーバックス)
この本が出たのが1993年だから、もう30年になるんだなあ。
GRAPEですね!「手作りスーパーコンピュータへの挑戦 テラ・フロップス・マシンをめざして」(杉本大一郎 講談社ブルーバックス)は、とても興奮しながら読みました。 それから十数年後に「スーパーコンピューターを20万円で創る」(伊藤智義 集英社新書)が出ました。
某中古車販売チェーンや死亡事故をおこした観光船の会社など、同じコンサル会社の同じ人がコンサルしていて話題です。
この手の、中小企業を相手にコンサルをしている人は、何か経営の手法をおしえているのではなくて、ただただ
「従業員を会社に従順にする方法」
をおしえています。
「従順にいうことを聞かせたい」というノウハウに対するニーズは、めちゃくちゃ大きいので、このコンサルの人気(?)もゼロにはならないと思います。
仮に糾弾されても、また別の人がやるのでなくならないです。
注意しないと、また事故が起きかねませんね。
⇒従順というか、高効率なコンセプトで熱狂的な行動量で、という組織を作りたいのだろうな。
⇒「この組織は、この業界は、これだけでいいのだろうか」と思索・自問自答している人と、「給料だけもらって、定時になったら帰りたい」と思っている人は、上から見ると、たぶん区別が付かない。
本来はこうしたい。画面に資料&板書+参加者。
ファシは、参加者の表情やリアクションをみながら、どこを深掘るか、誰に話を振るか、判断し続ける。みんな納得してそうだったら、さっさと次に行く。
これで議論のリズムも、密度も全然変わるんですよね。
ちなみに参加者は、
逆に「オンライン会議でカメラONにすると生産性が下がる」という研究結果はあるんですよね
個人的には、関係が構築されている間柄ならカメラはノイズかなあと思います
エロが楽しくなくなった・異性に興味がなくなったとたん、それらを制限し社会を清潔にさせましょう、風紀の乱れをなくしましょうと言い始める。そんな中年や晩年を迎えたくはないものですが
エロへの規制が厳しくなるのも、喧騒に神経質になるのも、最もベーシックなところでは高齢化社会になったからっての、私もあると思っています。
⇒「性欲に振り回されて苦労したから、自分の子供や若者には、同じ苦労をしてほしくない」というのは自然な思考や文化の展開だとしても、余計なお世話ではありますね。
宮さん、心の弱い人間に対してとにかく辛辣なんだけどその当たりの強さをふわっとごまかすのがめちゃくちゃ上手くて…………
ナチスの経済政策は、たしかに俗説に反して実際には有効ではなかったのかもしれない。ぼくには判断能力はないが、おそらくそうなのだろう。
しかし、それは論理的な必然としてそうなったわけではない。「ナチスのような「絶対悪」集団は常に、必ず経済政策においても失敗するものだ」とはいえないのだ。
ナチスの経済政策にひとつも評価するべき点がなかったとして、それはいってしまえば「ナチスの場合はたまたまそうだった」というだけのことに過ぎない。
悪の集団がいつも政策的に無能だったらわかりやすいが、現実はそこまでわかりやすくはないだろう。
ようするに、このようなことがいえることになる。
①倫理的な絶対悪は絶対に「良いこと」などしないとはいえない。
⇒というか、絶対悪ってなんなんですかね。
どの悪いことを、どれくらいやったら、四捨五入切り上げて、絶対悪のクラスに格上げされるんですかね。その閾値の線がどこかにあるわけですよね。
だって、奴らは人間の集まりで、人間の所業の集合として、あれがあった。ということは、あれよりスレスレ小さいけど、ほぼ同じ方向性の何かが連続性の中で生まれてくる可能性があるわけですよね。
どこから絶対判定されるんですか。
さらに、よりおかしくなるのは、あれを超えるものだって出てくるわけですよね。
そのとき、その絶対悪 2つの対照性をどうするうもりなのか。
「絶対悪を超える絶対悪」ですか。「あの絶対悪には及ばないけど、そういう問題じゃなく、これだって十分に絶対悪」とか評するんだろうか。
そして、絶対悪と絶対悪がぶつかったら、そこはどうするんですか。
たとえば、平和利用じゃない原子力、核兵器は、必要悪じゃない、絶対悪だ、という価値観がある。可能な限り尊重したい価値観ではあるけれど、じゃあ、それを悪の枢軸国であるところの大日本帝国に落とすことは、善行なのか、悪なのか、絶対悪なのか。
日本じゃなくて、ドイツ帝国に落としていたら、それはどうだったのか。
連続性の相対の中にとどめなかったら、そういう判断ができなくなってしまうじゃないか。
もちろん、そうしておくことで踏みとどまれる精神的な領域はあるし、これからも何年でも、“まっさらな若い人”は生まれてくるしで、だから「ダメ、ゼッタイ」的に繰り上げた言説も必要なんだろうとは思うけど。
ナチスには良くも悪くも「悪の極北」のような位置付けが与えられている。ナチスは「私たちはこうあってはならない」という「絶対悪」であり、そのことを相互に確認し合うことが社会の「歯止め」として機能しているのである。
こうした意味で、ナチス認識はその裏返しである「私たちの社会はこうあるべき」という、「政治的正しさ(ポリコレ=ポリティカル・コレクトネス)」と密接につながっている。
⇒社会維持にそうした機能が必要なことは同意できるんだけど、それだともう、道徳であり、宗教になっちゃってるんじゃないかなあ。
「そこはそのように割り切ってます」って言われるのなら、それはそれでいいです。
ただ、私はそういうものは、解体した上であらためて持つことにしていたいだけなので。
解体できちゃうよね、ということを了解した上で、副作用を込みで、持つことを選択するような人と、つながりたいと思うだけなので。そこまでいけば、単なる私の選好性なだけですからね。
同じ考え方の逆方向で、“人権” を絶対善の箱の中に入れっぱなしにする気も、私にはない。
⇒実際に、Kindleの立ち読み部分を読んでみると、思ったよりはるかに冷静な口調。新聞で見かけたときはなんだったのか……?
「道徳を疑ってみたくなるから、挑戦したくなるのだろうが、その気持ちだけで愚にもつかないことを言ってこないように」くらいに読めた。