2020/01/30のウェブクリップ
http://keizokuramoto.blogspot.com/2017/02/blog-post_6.html?m=1
「マイノリティ側からの要求」を「警戒されずに聞いてもらえる率」がハネ上がると思います。
彼も言ってたけど、「配慮するのはシャクだって気持ちは正直あるけどそれが必要なんでしょうね」っていう領域を、まあお互いの努力で埋めなくちゃいけない時代なんじゃないかと。
要するに社会の運営の「暗黙知部分」ってあるわけですよね。女性だったり移民だったり色んなマイノリティだったりすると、その「暗黙知」が一切ない状態の方が居心地が良い(ように見える)わけです。
何が良くて何が悪いかの基準が明示的に示されていて、「空気を読む必要」が一切なく、デジタルかつ記号的にその基準さえ満たしていれば誰に文句を言われることもなくその「成果」が得られる社会になってくれた方がいい(ように見える)。
そしてその「基準」を形式的にちゃんと満たしてない人は「ちゃんと満たしている私達」の邪魔をしてこないように徹底的に排除されてくれた方がいい(ように見える)。
問題は、そのプロセスが破壊する「暗黙知部分」が、例えばあなたが普通に道を歩いていてそこら辺のオッサンに殴りかかられて暴行されたり強盗されたりしないように「日常的に彼らを説得し続ける」ために超大事な仕組みだったりするってことなんですよね。
メディア的に世界中で共有できる文脈は、あらゆる「地元の地元民同士の愛着や連携力」へ向けられるべき人々の感情エネルギーをガンガン引剥していって、それを「世界で最もハンサムな男百選」に何度も入選するスター選手の方に振り向けてしまう力があるわけです。
⇒町内会の声かけ活動のようなものが、オッサンが「無敵の人」化するのを防いでいる?
http://keizokuramoto.blogspot.com/2017/02/blog-post.html
今は「日本の会社・社会ってほんとクソ!」か「日本の会社・社会はァァァァァ世界一ィィィ!!!」かどっちかで無駄に吹き上がってるエネルギーを、次第に次第にまとめていって、そういう「場づくり」「共有文脈づくり」に方向付けられるかどうかが今一番大事なことなんですよ。
よく同世代のクライアントの経営者と話すんですが、ある年代以降の若い世代の人間にとって、イナモリさんとかナガモリさんとかヤナイさんみたいな経営ってまずできないんですよね。それだけの「他人への教化力」を個人が持つという発想自体が既にかなりありえない文化的状況なので。
https://note.com/keizokuramoto/n/n28659488c092
”知識人同士の冷静に閉じた茶話を遠景に大衆レベルから見て大河のような感情のウネリの中で見た時”には、中間のいい加減でなあなあでその日暮らし的なポジションの居場所が彼らには薄いというかほとんど排除されてしまっている。
で、そういうのが行き過ぎると、ありとあらゆる有権者が「マスメディアよりもよくわからんネットニュースの方が信頼できる」とか言い始めちゃう誰のためにもならない社会になったりする。(そうなるのと、日本みたいに”まあ大新聞さんが言うんやったらそうなんちゃうの?”とかいう呑気なオジサンオバサンがまだまだ一定数常にいるのと、どっちが
そういう余計なことを一々考え続ける(というか”生命レベルで抱え込み続ける”)ことの「価値」は、結局実践面においては単に「非知識人への知識人による呼びかけ」において「配慮が行き届く」というだけの話かもしれないですけどね。でも”それだけ”でも物凄く大事な進歩だと思います。
https://note.com/keizokuramoto/n/n7dc88c546087
システム化された世界の外側にあるナマのエネルギー」に小さい頃から深く深く触れさせて来たはずなんですよね。
で、そういうふうに育つと、別に「アメリカンに理想化されたシステム」を拒否したいと思ってるわけでも全然ないんだけど、「そこに入り切らないリアリティ」が自分や自分の大切な人間の人生の中には多分にあって、そして「アメリカンに理想化されたシステムの内側だけで生きられる生まれ育ちの人」が、その「はじき出されたリアリティの中で生きている人」への一切の共感もなしに相当に”無意識の上から目線”で断罪しまくりながら生きていることへの反発や、その反動としての
これって、ある種の「信仰」レベルの思い込みがないとそんな道を歩けないんですよね。手続き論的に真実がちゃんと担保されている世界にいるか、「そんな嘘くさいもんは知らねえ」っていって本当に何の希望もない泥沼の中で現状追認だけをして生きていくのか、どっちかになるのはそれほど精神に「ガッツ」はいらないんだけど、「泥沼を是認しつつその先の真実を求める」っていうのは相当な「ガッツ」がいる。そういう人生を起動するにはそれだけの大柄な視野を支える「ストーリーの強さ」が必要になる。
現状の「真実側に立っている人間の認識の構え」自体が、「文明社会の末端やその外側」に生きている人のリアリティを抑圧しているんだという総体的な因果関係
ここで大事な発想は、あなたが「ポスト真実でなく真実の内側」で生きられているならば、「そのあなたの認識がクリアーであること」は、社会の末端において「現地現物への自然な結びつきから排除されてバラバラの混乱状態に置かれてしまった個人たち」によって支えられているわけです。
人類にとって「利益」になることではあるが、それによって「末端で現地現物に生きる人」の生の満足や身の回りとの自然な連携力や、そういったものを「奪いすぎる」ことがもたらす破滅的な災厄を避ける必要がある・・・という話だと私は思います。
要するに、「人類全体で記号的に共有する価値」を無理やり押し込むために「現地現物の連携力」を破壊した結果、政情不安になって無理矢理な独裁国家でしかまとまれなくなってしまった国が、歴史上沢山あったし今でも結構あるわけです。
そこまで「現地現物と向き合い続ける覚悟」がないのであれば、お互いに「それぞれの真実があるよね」状態で分離しておいた方が良い・・・・というのが
「●●さんの言ってはったこと、なんとなくわかってきましたわ。ほなやってみまひょ」というコミュニケーションで一段深いレベルの人材巻き込みパターンが形成できる。
派手な議論には参加しないし、「直接的行動を取るリベラル」から「不作為の罪」だと批判されていたような立ち位置で、私がこの記事などで述べているような立ち位置から、「日常の考え方のモード」ごと変革を志して生きる人達の価値が、クローズアップされる時代が来ます。
その時には、今の時代「正義」の顔をしている言明も、「露悪的言説」に見える言明も、単なる立場の違いにすぎず、それぞれが自分自身の立場を必死に守って吠えていただけだったことに気付かされていくでしょう。
http://keizokuramoto.blogspot.com/2017/03/blog-post.html
老害扱いされてる人にも、うまく使ってあげればそれなりの価値やら色々あるんだぜ・・・と言いたい気持ちが結構あって。
ただ、そんなこと言ってると「老害さん本人」が「自分の老害性」を一切意識せずにノウノウと暮らし続ける反面、困ったことにその「老害さん」は権力持ってたりするのでその集団全体の適切な運営がどんどん滞り、直接的には「ヤル気のある若手」さんが、そして結果的には「その組織の人全員」が非常に困った状況にみんなで追い込まれていくことになってしまう。
なぜ日本が「老害さん」たちを諸外国のようにはボコボコに斬ってしまえないかというと、「その老害さんが代表しているものの中に自分たちの良さの根幹も混ざっている」からだと言えるでしょう。
「混ざっている」っていうのがポイントね。純度は物凄く低いかもしれない。5%もないかもしれない。95%が「老害成分」で、5%が「日本の良さ」・・というような比率のオッサンがメチャクチャ権力を持っていてあらゆる変化を拒絶しているのが現在の日本の現況かもしれない。
しかし、「5%」の部分、これ捨てちゃっていいのかなあ・・・という躊躇が広範囲の日本人の中にあるのでなかなか捨てられない。
ゴミの山・・・の中にダイヤが埋まっているので、選り分ける作業がちゃんとできるまでは全部捨ててしまうわけにもいかない。部屋中がゴミだらけになっていても、そのほんの一部でも捨てるわけにいかない。なぜなら「そのほんの一部」の中にこそダイヤが埋まっているかもしれない(という恐怖心が集合無意識的にある)からです。
「現場の良心さん」と「老害さん」は違う
ということです。そしてあらゆる「改革」は「前者」と結びつくことができれば「後者」を無視することができるようになる。逆に言うと「前者」と結びつかない限り「後者」は永久に排除されずにあらゆる「改革」を拒み続けるということです。
こういうことが続くと、本当にもう日本人であること全体が嫌になってくる人もいるでしょう。どうせ建前だけの何かフワフワした意見が横行して、シワヨセは俺たちのところに来るんだろう・・・という恨みを溜め込む人がいて当然です。
「組織の良心さん」はそんなにエライ人ではないこともある。つまり役職的にはそこのボスではないかもしれないが、ただ「マトモな話をしたらマトモに通る人」っていうのがどこにでもいて、「その話、凄い良いと思うなあ!」的な鶴の一声を大事なタイミングで発してくれたりする
過去20年の私たちの社会運営のモードの良くないところは、むしろこの「老害さん」たちとの対決を避けていたところにあるんではないかと最近は思っています。ガチンコでぶつかることを避けて、「どうせあいつらは全員老害だろう」ということで、そもそもコミュニケーションを取る必要がない強制力で乗り切ろうとして、一瞬は乗り越えられたように見えてもいずれ強烈なバックラッシュ(揺り戻し)がやってきて元の木阿弥になってしまう。
つまり、「”老害さん”たちと直接コミュニケーションする必要がない強制力で乗り切ろうとする」ことは、「老害さん」への対決ではなくて「逃げ」だったんだろうと。
ここでの深刻な問題は、
「老害さんとの対決」を根本的には避けてしまって、強制的な権力関係で押し切ってしまおうとすると、「現場の良心さん」との繋がりも切れてしまう
ってことなんですよね。
なんかね、老害さんを目の前にした時に、「お前は自分の既得権益を守るためにそんなことを言ってるんだろう」という態度に出るのは良くないです。それはその「老害さん」との対決を避けていることになる。
なぜなら老害さんには老害さんの正義があり、老害さんの主観的にはその組織のための明確な正義心を持ってその反対をしていたりするからです。そこで「お前は自分のエゴでやってるんだろう」という態度に出ると余計にどんどん相手がそうなっていってしまう。
むしろ「お前のそのチッポケな正義なんか飲み込んで包含してしまうほどの圧倒的な正義で完膚なきまでに押し切ってやる!」という強い気持ち・強い愛が大事ね。
そこで、「本来みんなのためになる形はこっちだろう!?」という青臭い理想主義的態度を決して消さずにいること。そこで皮肉ぶった態度で誤魔化してしまわないこと。でもその「理想」が本当に「目の前の現実」とちゃんと対応できているリアリティがあるかは真剣に考えること・・・・
「おれたちの代表」だったはずの「経営陣」だったのに対して、適切なタイミングで事業にとって最適な手当をした結果、看板は変わっても国内に残った工場とか・・・そういうのは沢山あることに留意するべきだと思います。
もう取り返しがつかないほど状況が悪化して崩壊してしまってから、泣きながら頭を下げて従業員は悪くありませんッ!!的なこと言うタイプ・・・・ではない人の中にこそ、「本当になんとかしなくちゃ」という真剣さが眠っていたりもするということです。
ただ、広範囲の「立場の違う人」との連携可能性を生み出す文化が壊滅的なので、各人が自分自身の食い扶持を維持するためにあちこちで部分最適的に無駄なタフぶりを発揮して仕事をし続けるしかなく、それがさらに相互理解を難しくしていく不幸を産んでいるんですよね。
グローバリズムのマイナス面に対する手当は世界的にもっと真剣に取り組まれるべきですが、しかしその処方箋があらゆる先進国が自分たちの短期的利益のためだけにブロック化していく・・・というのでは、そのシワヨセが「勢いはあって野心的だけど発展途上ゆえに余裕がない国」に一気に向かうことで暴発的軍事行動を誘発してしまった、20世紀前半の大戦争の原因をなぞっていく超キケンルートになってしまいます。
また再分配をするにしても、「もう成長しなくていいじゃん」では全然原資が足りないのは最近色んな人が指摘するとおりですし、どれだけ無理やり規制しようともだれのせいでもなく千変万化する「需要側」の動きに対しては適切にちゃんと構えを変えていける力を保持することが、「現場の人」が以下の絵みたいな状況に陥らないためにこそ大事なことなんですよね。
https://note.com/keizokuramoto/n/nd63f8835f373
とりあえず「今の話題」を「別の角度から捉え直す」発言を組み立てておいて、それを議論が煮詰まってきたところでスパッと取り出し、ついでに「周りから見た自分の立場」ゆえに否定しづらい「現場感ってコレですよね」的なエピソードを追加しておくとバッチリ!
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みたいな話で(笑)
単に狭い範囲でサクサク頭を動かせるってだけじゃない洞察の深さもあって、
例の彼の場合、「後者である能力がある」のに、社会全体が「前者」のような運営に埋め尽くされてしまっている結果、その中で曲がりなりにも「結果」を万人に認めさせるにはその「狭い範囲の知性の運用」に付き合わざるを得ず、結果として人生全体が「本来もっとできたはずのこと」から非常に狭い領域に押し込められてしまっているように見えます。
その「不具合」への反発としてあらゆる「国外由来っぽいもの・理屈由来っぽいもの」をすべて根こそぎ排除して国粋主義的にまとまろうという志向だったり、あらゆる資本の論理を排除して共産主義的(あるいは”脱成長”論的)な理想を標榜することであったり、とにかくいろんな「最終的な希望から遠ざかってしまうような憎悪の盛り上がり」を産んでしまっているわけですが。
単純にまず、「いわゆるポリコレ的なものに反感持ってる層も多くは本当にそれを否定したいわけではなく、彼らの日常の運営のために必要な要素まで考えなしに否定されそうになっているのに反対しているだけだ」というような、こういう「全体的な連環」を理解することで、
「悪扱いされるものによって現状維持されているもの」への「敬意」が払われるようになれば、どこまでも平行線の罵りあいの中で怨念だけが無限に膨らんでいくような現状を超える可能性の端緒となるだろうと思います。
ただこの本の良いところは、そういう「欧米なら知的階層の最先端の人だけが使えるロジックの展開」を、「”公文式”的なドリル風のものにしてあらゆる階層で共有できるようにしようとする意志」があるところなんですよね。
ある種の知的な人間はああいう「計算ドリル風の世界観」を徹底的にバカにしがちですよね。
で、そういうのが本来必要ないレベルの、抽象的思考に特性がある人全員に下積みなんだから10年間は雑巾がけからハジメロって言って公文式をやらせるのは愚の骨頂なんですが(ただ、たった一ヶ月でもいいから共有する機会が人生にあることは大事なことだと思います)、
一方で「公文式的なものにまで昇華することで、そこに参加できる人間の数が圧倒的に増える」という現実的な効果について、現代社会は過小評価しがちであると思います。
端的に言えば、その「計算ドリル」的世界観を適切に活用することによって、「トランプ派」と「反トランプ派」はあそこまで分断される前に現地現物で、「お互いの良さを出し合える関係」に昇華することができるのに、今はここが分断されすぎているために、後からなんとかしようとしたってもう絶対無理という状況に陥ってしまっている。
この「計算ドリル化する力」こそが、
そして欧米文明に対して日本文明が、今のところ「とにかく良くない個人への抑圧」が残りつつも一応維持している可能性の”萌芽”があるとも言える。
「萌芽」が「萌芽」のままだと、今回の表ブログで書いたようにダイヤが眠ってるゴミの山みたいなものなんで捨てるわけにもいかない。だから個人主義的な人間の呪詛の声を大量に飲み込んで日本社会は抑圧的な社会で有り続けなくちゃいけなくなる。
ただしその時、いわゆる「今知性だと思われているもの」が「知性ではなくなる」んではないんですよね。そうではなくて、「人間の知性の働き方の中で色々とある可能性のうちの一つ」として、「適切な重み付け」が与えられることになるんですよ。
「個々人が自立して自然に奇跡的に連携し合うバルセロナのサッカーって良いよなあ!」って言ってるような難しさがあります。
この例え話の意味は2つあって、1つには「単純にそういう連携が難しい」というだけでなく、もう1つの意味は「その連携を目指すならまず個々人を自由にしなくてはならない」という難しさがあるっていうことなんですよね。
「徹底的に強欲な今の資本主義」と「共産主義」の間には一万光年ぐらいの距離があって、結局「そのあいだのどこか一点」という形で決着するしかないわけですけど。
「どのあたりなのか」を神経質に細かくお互いの違いを議論しすぎると果てしなくケンカをし続けることになるので、その辺はナアナアにしつつ、「出来る限り経済のダイナミズムを損なわない形で、再分配とかも頑張ろう」的な世論をまとめていきつつ、我々としてはそこで確保した「自由」の上に、「FCバルセロナのサッカー的な連携」を目指さないといけないわけですが。
この「ミドルマネジメント」というのは、単に「課長さん」とかそういう役所が組織の中で付いている人・・・というわけではありません。
大枠で見た時に「資本の論理」と「現場の論理」というのが経済の中で拮抗していたとして、その間を取ってその両者を統合し止揚していく役割を負っている存在・・・がミドルマネジメントなんだと考えて下さい。
「資本の論理と現場の論理をつなぐ仕事」として
「雇われ経営者」さんたちも当然入りますし、官僚やメディアといった「風潮」や「環境」を作る役割も、本来的機能を突き詰めるとココの役割を果たすことが求められる時代なんだと思います。
ある地域の教育改革に1億ドルもポンと寄付したのに、全然その地域の教育は良くならずにお金を使い果たすだけで終わっちゃった・・・という顛末
「この地域に注ぎ込み、圧倒的な成果を出してその後は全米に横展開するぞ!」
執行する役員レベルの人たちも超野心的な人たちが揃ったりする。よしゴリゴリ押し出していって徹底的に改革してやるぞ!となる。
しかしその「資本の論理」側のスピード感が現場無視すぎて、ついていけない人が大量に生まれるんですよね。
で、その「ついていけない人たち」をバシバシしばき倒しながらゴリ押していく「ミドルマネジメント」役として「日給千ドルのコンサルタントたち」がワラワラと出て来るんですけど(笑)
これがねえ、いやほんと、「こういう役割」になっちゃうと、マトモな良心を維持してる人だったら心を病むよなあ・・・と読んでいて思いました。どっかで、「日本人なら維持してることが多い義理の連鎖」なんかは全部捨ててかからないと「ここの部品」にははまれそうにない
要するに、ある意味で彼らは「現場の本当の事情と向き合う」なんていうことをするつもりは全然ないんですね。「短期間でトップダウンに切りきれる方法」だけを模索していて、意地悪く言えば成功すれば俺の手柄ってことにするし、失敗すれば・・・というか”失敗”どころか短期間で成果が出ずにグダグダしてきたらもうその時点でソッコーで転職しちゃってもっと華々しいことができる機会へ逃げ出しちゃう。
で、残されるのは、投下された1億ドルがよくわからないところに流出してしまって消え去った混乱と、
「現場の個別的事情を抑圧して”一般的なこと”をゴリ押ししまくるミドル」によって「無力感」を植え付けられた「現場」の人たちが残ることになる。
現場レベルの人たちの自己効力感を奪いまくるような「動き方」をしているという構造
大戦略について、その戦略から課題化された内容を「適切に計算ドリル化」して、ちゃんと「現場の主体的工夫」までシームレスに繋げられるかどうか・・・ということですね。
で、繰り返すように、「そういう本質的なミドルの価値」というのは本当にクリエイティブな知的作用を必要とするので、なかなかできない。
ついやってしまう問題で、
さらには「良いコンサルティング会社」だったところもちょっと油断するとどんどんこの「現場をスラム化させる振る舞い」が横行して「それこそが優秀性」みたいな雰囲気になっていっちゃったりする難しい問題なんですよね。
もしあなたがこの「ミドル」の位置に入った時に「個人の収入」のことだけを考えるとこの「単なる無思考的トップダウン」でバッサバッサ切りまくることが「合理的」であることは多いです。
じゃあこの「日給千ドルのミドル」層がやってることを何らかの強制力で共産主義的にガチガチに縛り付けてしまえばいいんだ・・・というふうになると、それが余計に経済のダイナミズムを損なってしまって全体として経済の熱量が不足し(つまり不況)結果として誰のためにもならない可能性はある。
「全体的戦略と現場的事情の2つの言葉を使い分けながらシナジーさせる
「日給千ドルのコンサルタントたち」が、特に問題意識もなくトップダウンに切りまくって平然としておいて、休日にボランティアでスラム街の教育問題に心を痛める・・・みたいな構図
について充分配慮し、その「強みの発揮方法」について習熟し、「我々もなかなかヤルじゃないか」というような成果に繋げられていけば、
「ゴミの山からダイヤを取り出すという苦労」をちゃんとした上で、「ハイ、残りはゴミなんで捨てていいですよね?」と言える存在です。
「実務家」としてのミドルの人だけじゃなくて、さっき言ったように官僚とかメディアとか、あと経営経済だけでなく人文系の学者さんとか、そういう「広い範囲の視野から方向づけをする」存在の力も必要になってくるでしょう。
「猫というのは耳がこうなっていて目がこうなっていて」といった「文脈的言明」の情報は一切入れずに、「ただ猫の画像を大量に見る」ことの蓄積として判断が可能になったという点です。
「国籍」というのは「生まれによって違いが出る」領域の話なので、そういう要素で決まる部分を徹底的にゼロに近づけて、どこでどういう状況で生まれても制限なく好きなところに移動しそこで成果を享受して生きられるようにするべき・・・というのが、「最も理想主義的」な左翼的見解ということになるらしい。
しかし実際にこれをやると凄く現実的な問題が起きるだろうと思います。
端的には、こういう運営にすると、「その時々にホットでキャッチーな流行が集まってるところ」にみんなが行きたがる反面、「そうでないローカルな問題」に対して「あまり世間的注目が集まってない時期でもちゃんと責任感を持ってその問題を取り組んで破綻させないようにする」ような人に対してちゃんと「敬意」を払う仕組みが破綻するんですよね。
だから、「あまりパッとしないけどローカルな問題」に対して「個別的に責任を深く感じる論理」を持つ人を育てて、それを社会的に相互承認して「敬意」を払える仕組みづくりは、どれだけ「生まれ」を否定したい人もちゃんと現実的対処として考える必要がある。(で、その問題について考えれば考えるほど、どの程度かはともかくある程度”生まれ”ベースで考える要素が残っていたほうが問題に対処しやすいという結論に達することは多いだろうと思います)
「移民の犯罪率はむしろ国内の貧困層よりも低い」的なデータを持ってきて「ハイ論破」ってなる人がいるんですけどね。
そのデータ自体は非常に興味深くはあるし、そうやって偏見を一つずつ解きほぐしていく作業の重要性も否定するわけではないものの、
移民っていうのは元々比較的貧しい国から渡ってきていて、たいていその「母国のローカルな文化」をキチンとまだ保持しているわけですよね。だから端的に言うと「貧乏耐性」があるんですよ。多少貧しくたって、「家族」
それに対して「先進国内の国内貧困層」は、「経済的貧困」になった時に「移民の人たち」のように「貧乏を楽しめる文化」を持ってない脆弱な状態に置かれていることが多い。なぜならその時に「貧乏を楽しめる文化」を再生しようとすると、現状ではいわゆる「意識高い系」の個人主義的な人たちにボッコボコに批判され軽蔑されるような要素に頼らざるを得なくなるからです。
「多少の格差がある貧困状態」の中でも治安を崩壊させず、普通の男女が普通の恋愛して安定した関係を構築し、次世代に命をつないでいける文脈が確保され、アブレ者が過激化しないで済むような「敬意」が払われる必要がある。
「集団の抑圧」から「個」を解放しさえすればその「個」は自由かつ豊かに謳歌して生きられるような気がしてしまうんですよね。
しかし、「そのプロセス」自体が、そのローカルな場をギリギリ破綻せずに運営するために成立させていた「共有文脈」自体を過剰に破壊してしまうと、その「救済対象だった個」の人生自体も余計に酷い状況に陥る可能性がある。
感覚を閉じずにいられるかどうかというチャレンジなんだといえます。
「暴動も犯罪も起こさず大人しく社会に参加してくれてるだけでそれは凄い貢献なんだ」というふうに言うと非常に暴論のように聞こえますが、
もしあなたが普通に先進国の大都市に生まれて周りには大卒しかいないような「特権的環境」で育ったなら想像もできないような世界において、
「リアルな隣人たち」とどうやって平和的な安定を維持しながら暮らしていこうか日々真剣に考えている人たちへの想像力を持てば、ゆるがせにはできない問題がここにはあることが理解できるはずです。
ローカルなコミュニティに生まれついて、そのコミュニティ内に存在している「暴力性」をいかに問題ない範囲に飼いならして社会生活を運営できるかどうか・・・について「真剣な責任」を感じようとするならば、これほど重要な問題はない・・・ぐらいの話がここにはあります。
ローカルな地域では「そのムーブメント全体が買った恨みの総量」が大きいとちゃんと維持できなくなるんですよね。結果として怨念が暴走して余計にひどい状況におかれる人たちも出てくることになる。
本当にその「優しさ」をユニバーサルに維持できる状況に持っていきたいのならば、
「末端のリアリティそのものを代表している存在」への「敬意」を払いながら理想を失わない全体的なマネジメントの手法に人類が習熟していくことが求められているという現実があるわけですね。
実際問題としてシリアに住んでる人が全員そこから逃げ出して先進国で住めるようになるべき・・・というわけにはいきません。シリアのことはシリアの人が責任を持って「適切にまとめる」意志を持ってもらわないといけない領域は否定しきれずにある。
「逃げるやつは逃げればいいが、でも俺はこの地をなんとかするのに力を注ぐぞ」と言う人がいてくれて、かつその人に対してちゃんと敬意が払われる仕組みになっていないと、果てしない無責任の連鎖が世界を覆っていくことになります。
「大国の論理」云々で言っても、例えば日本国が色んな「誇り高い人」にバカにされながら対米追従してること自体も、「彼ら自身が自分たちの安定に責任を持って、”韓信の股くぐり”のように屈辱を甘受しているのだ」というふうに理解するのなら、彼らの「努力」には敬意が払われるべきだと私は思っています。
その点の「敬意」さえ適切に払われるならば、経済のダイナミズム上避けられない経済格差がある程度あっても、「満足感」は広く行き渡るような形にできるはずです。逆に言うとこの「敬意」の問題から逃げ続けて、単に「抽象的な概念からのトップダウンだけ」で切りきってしまって生身のフィードバックを拒否し続けているならば、この問題は決して解決しないでしょう。
「知的な人間」は、自分の活動が「本当に現場の人のためになってるのか、単なる自分のナルシスティックなエゴなのか」について考えなくちゃいけないんだという圧力が高まりつつあることが、現在の「リベラル派への風当たり」として生まれている状況なんですよね。
「紋切り型によく言われててわかりやすいけど結局知識人のナルシスティックなエゴにしかなっていない論理」を慎重に避け、「本当に現場のためになる知性ってなんだ?」という課題に真剣に向かっていきましょう。