2019/08/07
#採掘場
モノトーンの幾何学模様
坊ちゃん
苦手な一端として、主人公の内的動機が空虚だとか、葛藤が見えないからとかあるんだけど
それを直情とか無鉄砲とか表現することもできうるけど
文化どおり、空気どおりを人格としているという言い方もできるかも
⇒「お前一人が頭の中で作り上げた倫理体系と、すでに今ある共同体を成立させている道徳だったら、どちらの蓋然性が高いと言えるか?」
『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』
ブレイディ みかこ
いや、これおもしろいよ!
軽快に進むし、主人公は前向きだし、語り手たら母親は(叙述で見えている範囲で)どっしり構えてるし。
文体はジュニア文庫レーベル的で、テーマの社会性的な重さは芥川賞的です。
(実話っぽいから、厳密には小説だったりはしませんが)
←2019/08/05-2019/08/06/2019/08/08→
https://www.yamama48.com/entry/ataeru
(「与える」のは難しい。「搾取しない」から始めたい。)
落ち込んでいて、要は「かまってちゃん」の状態、「与えて欲しい」状態のときに読んでいますから、とても気が滅入ります。そして快く「与える」行為がとれない自分が嫌になる。
他の書籍などでも、「”与える”とは”笑顔で過ごす”程度のことでも十分だ」という話を拝読していたのですが、仏頂面人生を送っている身にはなかなかハードルの高いこと。しかし「ブログもそういうもの」との言葉にハッとしたのです。
https://oreno-yuigon.hatenablog.com/entry/2019/08/02/143028
(Amazonが怪しい中国製品で埋め尽くされている中、僕たちはどうやってまともな商品を見つけたらいいか)
「食の教養がないから騙されるのだ。じっくりレビューを読めば本物を見極められる」
などと批判をしてくる人がいたが、食べログのレビューをじっくり検証するほどの暇な人は少ない。
アマゾンも同じで、時間を短縮するために店に行かずにネットで買い物をしているのに、いちいち商品説明の正しさを検証するために時間をかけていたら本末転倒もいいところだ。
何が正しいのかわからない。
ネットを長年見てきて感じたのは、
金銭的な欲求よりも、承認欲求で商品を紹介している人の方が信頼性が高い
ということだ。
https://p-shirokuma.hatenadiary.com/entry/20160615/1465975800
(アニメは現実を侵食したりはしない。理想を、願望を、浸食する)
コンテンツと現実、二次元と三次元の区別がつかない人はほとんどいない。
物語と現実の区別、文化、物語、道徳
実生活では人間関係を疎ましく思っている人でさえ、若々しいキャラクター達が群れて頑張っている姿に憧れていれば、あるべき理想のかたち・あるべき欲望のかたちは、そのような方向性に傾いてしまう。コンテンツと現実の区別をつけるのは簡単だが、コンテンツ越しに浸透してくる理想や欲望をブロックしながら楽しみ続けるのは簡単じゃない。
⇒快楽を味わわずに娯楽を消費しろというのに等しい。
https://p-shirokuma.hatenadiary.com/entry/20160910/1473500512
世の中には、モチベーション源として「欲求」や「快楽」が優勢な人だけでなく、「不安」や「緊張」のほうが優勢な人もいます。
自分自身の不安や緊張を和らげるために現れ出ているものだと私も思います。誰かを説得するためじゃなく、自分自身を説得するため、そして自分自身の小さな世界を守るために、言葉が発せられ、「議論」が必要とされているとしたら、相互理解なんて夢のまた夢ですよね。でもインターネットに限らず、「議論」と称されるものの幾らかの割合は案外こういう内幕で、だから理解しあえなくても自分の世界が守られれば心理的にはメリットがあるのでしょう。
⇒小町とか、そこに説教やマウントをかぶせる地獄
自分に言い聞かせる
https://p-shirokuma.hatenadiary.com/entry/20190712/1562932800
昭和以前には許容の範囲だった臭いや体格や挙動までもが迷惑として、あるいは不安感を威圧感をもたらすものとして忌避されることになる。幸い、臭いから・体格が威圧的だから・挙動不審だからといった理由で犯罪扱いされる制度は無いけれども、それでも職務質問はされやすくなってしまうし、他人に迷惑がられたり敬遠されたりするおそれはある。
では無臭を徹底させ、安全・安心を徹底させた街を誰なら気兼ねなく歩けるのか。
体臭が臭わず、体格や挙動によって他人に不安感や威圧感を与えてしまわない人々こそが気兼ねなく街を歩けるわけで、この場合の「強者」といえる。
たとえば「かわいい」女性。それと「かわいい」男性。
まだ法治が徹底されておらず、屈強な男性が華奢な女性を腕づくで征服できた時代には、「かわいい」が強者など絶対にあり得なかっただろう。
タグ 男性の生きづらさ感
https://p-shirokuma.hatenadiary.com/entry/20190127/1548567000
少し前に、カナダで「移民は受け容れるが独身男性は除く」という報道があった。これを告げたニューズウィークの文面にも、リスクという言葉が登場している。
独身男性
この人はダメとか、あの人なら大丈夫とか、ではなく、ローリスク群、ハイリスク群という統計的なモノの考え方にもとづいて政策決定することは、現代社会のジャスティスに適ったことなのだろう。あの先進国の優等生であるカナダ政府がそうしているというなら、なおさらである。
タバコは直接人を殺さない。
この点では、タバコを拳銃やサリンなどと同列に論じるわけにはいかない。
高コレステロールや高血糖は、リスクとして数値化される目に見えない統計上のリスクである。それらはいきなり(あるいは必ず)人を殺したりはしないが、統計的にみれば疾病可能性が高くなる、そういったタイプのリスクである。そういう透明だが数値化できるリスクを避けることが自明視される社会のなかで、
私達はリスクとみなされる他者をも一層敬遠するようになり、リスクとみなされる言動をとる他者を、不道徳とみなしたがるようになってはいないだろうか。
道徳
https://p-shirokuma.hatenadiary.com/entry/20190203/1549171716
出会ってはじめて「なるほど、これは瞳孔が開くやつだな」と得心がいきました。──「当たっても当たらなくても興奮するし、当たれば馬鹿みたいに快楽が出る。手間もかからない。特別な技術も要らない。お金さえ突っ込めばいいつくりになっている。」
私は小学生時代からゲームオタク専攻として生きてきたので、ゲームに関してはノウハウの蓄積があるつもりです。面白いゲームを探し出す嗅覚も、そのゲームを楽しむための作法行儀も、研鑽し続けてきました。だから私は、ゲームというフィールドで自分の瞳孔を開きっぱなしにするのはそれほど難しいことではありません。ガチャなどに頼らなくても。
課金
しかし、ゲームにせよ、たとえば音楽演奏のたぐいにせよ、エキサイトな体験を得るためには相応の知識や下積みや意志が必要です。知識・技能・習慣・意志力。そういったものを伴っていなければ、『斑鳩』のようなゲームにエキサイトすることは難しいでしょう。仕事でエキサイトする瞬間を得るのも同様です。仕事の場合、より一層、知識や下積みや意志が求められます。そしてエキサイトできる瞬間は少なめで、もっと退屈だったり苦痛だったりする時間を乗り越えなければなりません。
ところがガチャはそうではないんですね。ビギナーもベテランも等しく神経伝達物質が出る。出ちゃう。どびゅー。「射幸心」というものが、これほどストレートに人を魅了するものだとは。そしてコントロールを失いかけた「射幸心」は人を簡単に組み敷き、思考力と尊厳を奪ってしまうのだとも知りました。シューティングゲームや音楽演奏に法悦の瞬間を求める人が、ゲームや演奏によって思考力や尊厳を奪われるかといったら、そういうことはあまり無いように思うのですが、ガチャは、思考力や尊厳を奪いかねません。
⇒ガチャは無料のものであっても、人を中毒にする。
「圧制者」と言っても良いかもしれません*2。ガチャを前にしたプレイヤーは、ガチャという不自由に晒されているのです。
ただし、それだけとも言い切れません。
私には、ガチャを回している時に自由を感じる側面もあったのでした。
ガチャは不条理で気まぐれですが、まさにその点において、現代社会の条理性や規則性の通用しない何者かです。
⇒資本主義の売買という論理や倫理からの解放ということですね。
https://p-shirokuma.hatenadiary.com/entry/20190805/1564999343
たとえば、境界知能と呼ばれる人々がいる。知的障害と診断されるほど認知機能が低いわけでもないが、平均に比べれば低めと測定される人々だ。境界知能は知的障害と診断されないため、これ単体では障害者として援助の対象とみなされることはない。もちろん、なんらかの精神障害等に罹患し、医療機関で認知機能を測定してみた際に境界知能に該当した、という事例じたいは無数に存在するのだが。
では、この進歩した社会は、この境界知能に当てはまる人々を生きやすくしているのか。
現代社会は境界知能と呼ばれる人々の生き辛さや疎外をすごい勢いで拡大しているし、たぶん、IQ80代~90代の人にも生き辛い方向へと流れていっていると思う。でも、IQ120以上の人々にとっては、これは「生きやすい社会」ですよね.。
⇒ちょうど読んでいた『ケーキの切れない非行少年たち』では、現代はIQ100ないとかなり生きるのがしんどい、ということが書いてある
⇒人類の半分がしんどいって。。。
かつてはIQ85未満で知的障害だったものが、それでは7人に1人とか該当してしまってケアの趣旨に反するということで、基準がIQ70未満になり、IQ70〜IQ84は「境界知能」と言われるようになったのだとか。
https://p-shirokuma.hatenadiary.com/entry/20160519/1463622587
(20世紀後半の結婚観と若者気分って“異常”だったよね)
金持ちのドラ息子が「あと5年は遊んでいたい」と言っているのではない。平均的な家庭の、特別な才能も収入源も持たない若者が「あと5年は遊んでいたい」などとズケズケ言って、未来に備えず、若者時代を謳歌するために時間とお金を費やしていられる一時代が、一体どこにどれだけあるというのか? しかし、あの時代の気分を呼吸していた人達は熱に浮かれ、それを“異常”なこととは認識していなかった。
http://toianna.hatenablog.com/entry/2016/05/19/170000
(もしかして少子化問題って10年後には解決してるんじゃないの?非婚が進む30代と早婚志向な20代の溝)
もし「経済力がないから結婚できない」というのなら、20代こそ非婚化するはずだ。非正規雇用の比率は上がっているし、20代男性の年収はここ10年以上300万円台を脱していない。だが現実には20代の方が早婚志向である。
もちろん彼らを責めれば良いというものでもない。20世紀の若者史上主義のなかには、戦前以来の旧弊に対するカウンターとしての意味も、少なくとも当初はあったのだから。
https://p-shirokuma.hatenadiary.com/entry/20181017/1539759600
個人の自由や個性が尊重され、自主的選択にもとづく多様性が尊重される社会では、フロイトが論じた頃と同じような超自我も、それに起因する葛藤や神経症症状も、そう滅多にお目にかかれるものではなくなった。
では、「超自我」は無くなってしまったのだろうか。
すなわち、「物心つくまでにプリインストールされ、意識すらされないけれども、自分の行動が社会のルールからはみ出さないか、禁じられた行為をしていないか検閲して、自分自身の行動どころか思考にまでブレーキをかける、そういう精神機能」はもう無くなったのだろうか。
現代社会には現代社会なりに、たくさんの「かくあるべし」が存在している。いくつか挙げてみると、
・私達は自己主張し、自己決定して、独立した意志にもとづいて生きるべし。
・私達は資本主義のロジックに基づいて考え、行動すべし。
・私達は多様化した社会に相応しいモノの考え方と言動を心がけるべし。
・私達は街で他人に迷惑をかけないように行動すべし。
・私達は他者から承認される個人たるべし。
19世紀の日本と21世紀の日本を比べると、これらの「かくあるべし」は、21世紀のほうが段違いに強力で、幅広いものとなっている。たとえば、大都市圏のホワイトカラー層の家庭で生まれてきた子どもが、こういった「かくあるべし」をプリインストールされることなく成長することは、おそらく不可能だろう。
熊代亨