通勤電車が好きだ
通勤電車が好きだ。
電車に乗っていると、吊り革の位置からほとんど身じろぎもできない。なのに自由だ。解放を感じる。
座れていれば、本も広げられるけど、そうじゃない場合、スマホを見ているくらいしかできない。
だけど、それが自由と感じられて、だから朝の家事を片付けたり、出発する身支度を整えたりしているときは、「早くまた、あの時間にたどり着きたい」と心が願っている。
バッテリーと通信量の問題がないなら、一日中通勤電車の時間が続くような休日があったらいいのに、とすら願い出す自分の深層心理があって怖い。
人は生活していると、何かを望まれる。仕事で受信するメールには「できたら即レス帰ってきてほしいなー」という願いが乗っている。「退勤前に、できたら「見たよ」という返事だけでもしてほしいな」という願いが噴出してくる圧力がある。
家にいても同じだ。「また、一日中スマホいじって(時間を無為に使って)!」と言われたり、録画していたテレビを見ているなら、「おーおー、おくつろぎですなあ(こっちは今家事をしているのに!)」と内心思われたり、願いを込めた視線を向けられたりしうる。
これだと、有給をとって家にいても、「家にいる一日の間に、あの部屋の掃除機くらいかけておいてほしいなー」くらいのリクエストをされることはありえる。
そういうことをお願いしたり、願いを込めた視線を向けたり、内心思ったり、他人の時間の過ごし方を評価したり、それを口に出したりして、いいと思われたり、思っている人がいたりする。
うぜえ。
うるせえよ。
そういうものの、ない世界にいきたい。
期待とか願いとか責任とか、そういうもののまとわりつかない生になりたい。 本当はたぶん、生活に必要な扶助のホットラインも必要だし、心を支え合う“つながり”も必要としていると思うんだけど、そこまで願うと、今度はこちらが望みすぎになりそうだから、そこの願いが浮かばないように努めよう。
社会生活を営んでいると、「“自由”ってもんが、俺にはない」とか思うことがあるのだと思う。そういうときは、たいてい「たばこを吸って、周りに煙が立ち込めると文句を言われる」というような、迷惑や副作用のある行動をとることに対して、ペナルティーがあることに不満を抱く場合が多いと思う。 「迷惑になることはしないで」と。
でも、そういうことの手前に、「その共同体にとって、役に立つことをしながら存在していて。怠惰であったり、虚無的だったり、退廃的だったりしないで」という、より積極的な縛りがそこには向けられていて、それが果たされないのなら、その関係性は解消されても文句が言えないようなところがある。
そういう、“役割”みたいなものから、とりあえず自由になれる場が、たとえば通勤電車、として記憶されているのだと思う。 そうは言っても、完全に解放されているわけではなくて、たとえば、その手に持ったスマホで性的な画像を見ているのは憚られる。でもまあ、そういうことをしたい動機がそれほど強いわけでもないしね。だからまあ、実際には、現代人のやりたいことの大半はやっていられる。 この、とりあえず「誰でもない人間になれる」ことの解放感が通勤電車や雑踏にはあるのだろう。モブになれる。 自分のペースで生きられて、急かされない。
なのだが、同時に、というかその反面として……、私は役割のない場所には、居場所がない感じがして、生きづらい。
我ながら業の深い魂をしていると思うけどね。
他者の世間話や身の上話を聞かなきゃいけないのはつらい。噂話を聞かされるのはつらい。しなきゃいけないのは、何をどうやっていいかわからないからつらい。
だから、しなきゃいけない役割が何であるか、明確な集団のほうが過ごしやすい。共同体よりも、組織。