家族を(子供を)持つ感覚
同僚の、ほとんど新入社員の人と帰る方向が一緒だったので、電車一本分話す時間があって、「結婚するとか、子供がいるとか、っていいものですか?」みたいなことを言われて、
「いや、いいよとか嬉しいこともあるよとか、そんな安易にお勧めはできないことだよ。得とか損とかで考えたら大変なことの方が絶対多いから、合理的に肯定は全然できないよ」「でも、子供を育てているうちに、価値観の優先順位がまるごと組み変わってしまって、その組み変わった後の今の価値観で見る世界は、意外と嫌いではなかったりするんだよな」
ということを話した。
そこで、何を話したかなあ。
たぶん、「子供の保育園での最初の運動会で、お遊戯を見るとき、自分のできることがないことに衝撃を受けた」ってことについては話したのではないか。
「大人になる」って、自分の子供時代には、「なんでも自分自身でやること」だったわけてすよ。それは子供ができてからでもそうで、「あー、○○ちゃん、大丈夫? それ本当に持てる? あ、いまは先生が話してるから、聞こうねー?」みたいなことを必死でする。
でも、子供の発表会ってやることがない。というか、できることがない。
見守ることだけだ。
もはや、この場の主人公は自分じゃない。
あれだ、「ゆうしゃのちちおや」だ。
あと、子供ができると、うわべでどんどん謝ったら、図々しくダメ元のお願いをするのが苦にならなくなっていきますね。
社会手続きとして子供を育てるのって、情報量として人間のキャパを超えてるところがある。
引越しで、ガスを止めて電気を止めて通信を止めて、引越し業者を選んで、それからまた新居でガスを申し込んで電気を申し込んで通信を申し込んで、っていう“手続き仕事”って、煩雑でしょう?
それが分かりにくかったら、マイナンバーカードの申請でも、定額給付金の申請でも、年末調整でも、婚姻届で戸籍取り寄せるとかでもいいんだけど、その種の、調べて理解して判断して間違えないように記入して期限までに忘れずに申請する、ということを毎月のようにやっていた気がする。
もちろん、実際には毎月のわけがないんだけど、ただでさえ忙しくて未知や不安と戦い続ける子育てを毎日やり過ごしながらだから、本当に毎月のように感じられるし、それらが不意打ちに飛び込んでくるように感じられる。
結果、スマートには間に合わなくて、
「すみません、期限が1日すぎちゃったけど、今からでも間に合いますでしょうか」とか「その日は別の用事が入っていて、時間に遅れてしか参加できないんですがよろしいでしょうか」
とか、ペコペコへこへこしているのが常態みたいになってくる。
まあ、それでも頑張るんだよね。
一度始めてしまった、新しい「家族」だから、なんとか走り抜けるしかないのだ。キャパを超えて、無様でも。
「子供の笑顔を見たら疲れが吹っ飛んだりするんですか?」
ってことはよく言われるんだけど、そういうのはないです。快は快、苦痛は苦痛です。反物質みたいに、合わせたら消滅するわけではない。
ただ、子供が初めて笑うようになったときの、こっちがいないいないばあをするだけで、何度でも何度でも同じように、こちらに応答して笑いが返ってくるあの感覚はものすごくて、しかもその直結感のおかげで裏表とか演技とかそういうものがそこにないことも完全に確信できているという、あの時間。ある種の永遠性すらそこにある。
それは承認かもしれないし、むしろ所属かもしれないけど、一回自分の作ってきた人間関係の構えを0に返してくれている気がする。
そこから、これらの生き直しがむしろ始まっていたかもしれない。
タグ 子育て