哲学的思考に何を求めるか 2022
この世界での人生の選択においてあやまたないこと、
このいずれかの目的に対して、
場合によって自己暗示などの効果がどれほどあるか
ということの限界がどこにあるか。
どのようにどれくらい役に立つのか、の限界ギリギリまで使ってやりたいということ。
楽しいからそのもの、先人たちとの対話そのものが楽しい、という人もいるだろうけど私はそうではないと思う。
つまり、幸福感と正解を見つけられる能力や状態
で幸福、というのは、最小定義だったら、快感の総量を増して苦痛を減らすことだけど、
当然、実際には、誇りとか充実感とかそういうものも含まれる。
誇りにはさらに優越感や所属感も含まれるんだろうし、それら全体の安定感のようなものも必要だと思う。
正しさ、については、最小というか基本的には、生存に有利な判断をすること、ということになると思うけど、
それに関しては、長期的に資する判断とか、社会をどう使うかとか
政治へのあり方のような、自分自身だけでなくその周りに対してどうするのかということも含まれている。
そういう、語の周りの広がりはありつつも、基本的に求めることは、幸福であることと得をできることであり、
それに対して、思索や見解や考え方などの、純粋な内面の働きがどれほど役に立つか? というチャレンジだ。
となると影響力はそれほど多くはないだろう。
落ち込んだ気分に対して、内面が内面にアプローチできる力積は大きくない。
外部足場をもっと使うことを考えた方がいい場合も多いだろうし、科学的な健康法や、生まれ落ちた、ある社会制度の中で財を築くための知識を増やすことのほうが幸福を増やしやすい場合もあるだろう。
「それらよりは影響力は小さいよね」という前提を仕方なく認めたうえで、さて、何がどのようにできるのか? どれくらのことができるのか? それがゼロでもまたないのなら、そこは知っていきたいと思う。
そしてやっぱり、私にとっては、言語や存在について考えることや、神や、神によらない善について考えることは、哲学の目的としては認識されないか、枝葉末節なのだと思う。