他人を思いやって生きることが幸せに直結するかもしれない(しないかもしれない)
from 自分軸・他人軸(気づかいと没頭)のツイートが流れてきた
自分の「好き」や「楽しい」に没頭して生きて、他人の動向なんてまったく気にせずに、集団や共同体の維持は他人任せ、そんな生き方の方が、コストだけ見れば得に見えるかもしれない。
けど、そうでもないかもしれない。
《“承認欲求の流動食”に依存する人々 - シロクマの屑籠》
例えば、理想的な恋人にハグされて「よしよし」されるのは、たいていの人を心理的に充たしてくれるだろうし、メンタルが弱っている人も満足しやすい。お粥や母乳に相当するような心理的充足と言えるだろう。しかし、同僚やクラスメートとの挨拶や、会話時のアイコンタクト程度の体験ともなると、余裕のある時には心理的充足の足しになるけれども、余裕の無いときや衰弱している時には充足感が得にくい。
非日常な充足ばかり求めていてはマトモに長続きするものではない。日常的なやりとりを無味乾燥なストレスと感じるのか、それとも心理的充足を汲み取れるのかは、メンタルヘルスの維持と社会適応を両立できるか否かの分水嶺となり得る。ところが、若い頃から流動食のような心理的充足に頼り続けてきた人は、“こころの咀嚼力・消化力”が弱いままで、日常的なやりとりのあれもストレス、これもストレス、ということになってしまいやすい。
私には、「挨拶」は労働コストとか作業の手間だけかかるもの、という感覚がついしてしまう。だから、本題とか内容だけを勝手に放出できるツイッターやscrapboxが感覚に心地よいわけだ。
他面、
他人に挨拶をして幸せであれるためには、たぶん
自分のアンテナが相手の心的風景や心の波長の内側に入っていっていて、
「相手も、声かけてもらえたら嬉しいだろうな」という思い付きのもとでそれにしたがって挨拶をして、
(うん、これで喜んでもらえた。喜んでもらえるっていいよね)と
相手の心象風景のままに、ともに感じ合うこと
みたいな要素が必要なのだと思う。それも義務感や使命感ではなく、リラックスした状態で。
その意味で考えれば、「他人軸」で「善人」みたいな人の方が幸福感が上がるというのは当然ありえる話になる。
上のような意味で、他人をケアしながら自分もケアできているし
相手と一体であれる。一体感や所属感を持てるし、
孤独や被差別感を感じなくていい。
いいことをしている気分を持てるし、
自分が善人だという認識でいられる。
まあ、私にはそんな才能はなさそうなので、とりあえずまあ、オフィスの、それもエレベーターでだけとか、そんな気分を試そうと思います。
タグ 他人を思いやって生きることが幸せに直結するかもしれない(しないかもしれない)、仕事術、