人間の2タイプ:素朴物理・機能論
ちょっと今から、このページでは、疑似科学の話題を、私が盛り上がって話します。
どれくらい「疑似科学」かというと、
「世の中には、“右脳人間” と “左脳人間” がいる。あなたはどちら?」
という話題くらいに、疑似科学です。
まあだから、みんながみんな聞かされるべき話でもないし、不快になってまで聞かなくてもいいと思うので、「そういう話題は、私はいいかな~」という人はこのページを閉じてくれて構わない。
で、ここまで断ってから話し始める内容なんで、内容に強い不満や非難をぶつけないでね、ということでもある。
なんでそんな話をするのか? というなら、思いついてしまったから、ということなんだけど、まあ、私が人間のタイプ分けみたいな思考スキームが割と好きだ……、というのは、「かーそる」でも過去にちらっと触れたことがある。
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最初に、2組の対概念的な用語を提示する。
「目的論的」⇔「機能論的」
「素朴心理学優位」⇔「素朴物理学優位」
これらの用語については、私の発明ではない。
最初のペアは、ものごとの理由を考えたり聞かれたりしたときに、どのような説明が浮かぶかという傾向のようなもので、例えば「キリンの首はなぜ長いの?」という問いに対して、
「目的論的」であれば、「木の高いところの葉を食べるため」というし、
「機能論的」であれば、「そういう祖先が生き残るのに有利だったから」という説明をする、ということ。
目的論は、花が咲く理由を子供に「みんなに見てもらって、「きれいだね」って言ってもらいたいのかもね」と説明するようなところまでを含む。目的論じゃない進化論は、何を言っているのか、余計わからないところがあるかもしれないし、子供にする花の説明は、子供は(受粉の話をされるより)納得しやすいかもしれないが、端的には嘘でもある。
後者のペアは、現実の状態やできごとを認識する際に、何を重視して理解しようとするかに関する語で、(厳密には学術世界では対置的に出現する用語とも言えないのだけど)
「素朴心理学」優位、といえば他人の心情を優先して把握しようとするし、
「素朴物理学」優位、というのは、物にぶつかれば止まるし、物を遠くまで投げようとすれば力がよりたくさん必要になる、という法則性をより注目して取り入れようとする、傾向として使われることのある用語、としてとりあえず理解してもらいたい。
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で、私の「思いついてしまった」フレームワークは何なのかと言えば、
「(社交能力が高く、)目的論的に世界を把握しやすく、世界を観察するときに素朴心理学的に認知エネルギーが使われるタイプ」
と
「(浮世離れした思考をしやすく、)機能論的に世界を把握しがちな傾向があり、世界を観察するときに素朴物理学的な側面に認知エネルギーが使われるタイプ」
という人間の分けかたである。
この時点で「疑似」「似非」っぽさがばりばりしてきて、広く世の中に問えるようなものではない。いわゆる「グラデーション」の問題だし、個人の中に「両方の側面」が元来あるものだろうし、タイプや属性というより「個人」の個性の問題に最後はなるだろうし、個人の中でも、「この分野であればこっちの傾向だが、別の分野であれば他方の傾向が優位な分野もある」というムラの傾向も避けられないと思う。
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ところで、私は道を歩いていて対向者が来たときに、すれ違うにあたって、相手の腰や爪先の向きを見ながら、すれ違い方を考えるんですよね。目線や表情を見るのではなく。
これは、陰キャだから他人の目を怖くて見れない、ということもあるだろうけど、実は「速度と軌道を予測する」ことでぶつからないようによけたいから、なのかもしれない、と思ってみたりするわけなんですよね。
ここで、私のような人間のことを、「機能論・素朴物理優位型」等と呼んで認識してみる、と。
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ここで、私のことを「目を合わせないなんて失礼な奴だ」とか「人のことを転がる鉄球か何かだと思ってるのか、失礼な奴だ」と思わないでほしいよ、というところが一つのスタートです。
単に、私はキョロキョロ動く、人の表情よりも、静謐な法則性のほうが脳になじむ、ってだけのことなんですよ。
で、じゃあ、それに対する、「人間好きタイプ」というか「目的論・素朴心理学優位型」の人の見る世界はどんなものだろう、と想像したときにちょっと思い浮かんだのは、物理っぽい理科の授業の場面なんですよね。
小学校高学年くらいからの理科や算数で、速度などの「比率の数値化」を使った計算や、電流量や力の概念操作が単元として出てくる。で、これを苦手とする人が一定数いる。
実はこれは、数字で考えるのが苦手とか、抽象化が苦手というよりも、立体機動装置とかAE86の絵を見せられて、その動きが頭の中に動画として(脳だけで)思い浮かべられるかどうか、という特性の時点で負荷がかかっている可能性はないだろうか。そういう、速度や運動の向き、質量なんかをイメージする習慣がない人は、たぶんテストで点が取れるレベルになるまでに、解かなきゃいけない反復練習の数もすごく増える。
「1gの羽と、1gの砂粒を、真空中で落としたら、同時に落ちます」
と言われたときに、
「あ、確かに、空気がないなら、羽の落ちるときの、あの、ひらひらひらっとした、あの空気に邪魔された動きはなくなるわけか!」
というイメージが頭の中に即座に思い浮かべられなかったら、単元の習得難度はかなり上がる。磁界の向きでも、力の合成でも、等加速度運動でもそうだ。
これは、「抽象化」能力みたいに、筋肉とか身長みたいに能力だけがその人の数値としてあって、低いと「知能が低い」みたいに見えていたけど、数字の操作能力とかそういうことではなく、単に認知の癖なのかもしれない。
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で、いま「知能」と言いましたけど、いわゆる「IQ」という数字があるじゃないですか。
あれのスコアを測定するためのテスト、ちょっとこの分け方をした場合、片方の陣営に有利すぎませんかね?
やはり、単一のテストで測れる能力は、「そのテストが得意かどうか」だけなのかも、しれませんよね。
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ここで話題を転じて、「陰謀論」の話をします。陰謀論の一部には、「私腹を肥やす悪人」「弱いものいじめをして楽しむ悪人」を想定した上で、世の中の動きに反対する動きがあります。
こういう、ある動きに対して、特定の人物やその感情をイメージさせながら理解するのは、「目的論・素朴心理学優位型」っぽく見えますよね。
じゃあ、逆の「機能論・素朴物理優位型」の人は、そういう雑な説明を必要としないのかというと、例えばですが「地政学(「ランドパワーは不凍港を目指す」)」みたいな説明にすごく惹かれて、それを自分の中心的信念にしちゃうような人は、むしろこちらのタイプに多いんじゃないか。
思春期の「666」とかもそうかもしれないし、「人類の本能は原始時代から進化していないので、現代文明の中で不適応を起こしている」みたいな説明に飛びつくのもこっちかもしれない。
小麦の陰謀とか、ロックフェラーとかフリーメイソンとかもそうかもしれないよね。
構造や、その欠陥や、力の向きで説明されると、すっきりする。
だから騙されやすさはそれぞれあるんだけど、説得のためのツボは違ってくるかもしれない。
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で、ここから「物語」の話をします。
フィクションを楽しむ話なんですが、先にちょっと警告っぽいものを発しておくと、あのマンガの『推しの子』の結末のネタバレに触れるかもしれないんで、「もうすぐ読もうと思ってた」、という方はここでお帰りください。
まあ、このいっき日記は、基本的にはネタバレに特に配慮せずに、物語の構造だなんだをどんどん言及するサイトではあるんですけどね。
まあ、『推しの子』は、割と最近の発刊だったこともありますので、一応ことわっておきます。
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でまあ、ネタバレ警戒の時間稼ぎで先にこんな話をします。これは、以前に「X」(旧Twitter)で見かけたタイプ分けなんですけど、
別の二分法があって。
それは、物語を読むときに「かわいそうな人が助かってほしいか」「がんばった人が報われてほしいか」というどっちの好みを強く持つかという好みの話なんです。
「かわいそうな目に合う人がいなくなってほしい人は、キリギリスに助けの手が伸ばされてほしい」「がんばった人が報われてほしい人は、アリがキリギリスに、少なくともマウントを取れてほしい」みたいな。
で、私は「努力という指向性のある熱量がそのゴールに達してほしい」と願う人なわけなんで、キリギリスには、むしろひどい目にあってほしい(笑)
この辺にも、実は今回のタイプ分けが絡んで、「目的論・素朴心理学優位型」の人は違う感じかたをするのかな? なんて思ってみたりするわけです。
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ところで、私は物語を読むとき、バッドエンド……、悲劇モノがすごく苦手なんですよ。
これは、ブログにも書いていたと思うし、Twitterでも、たぶん発言してる。
マッチ売りの少女が死ぬ。という題材をテーブルに置いて、作者が、「ね、この子、可哀想でしょう?」とコールして、観客が「ほんと、なんて可哀想な話なんでしょう」とレスポンスしてる感じがすごく嫌で。
いや、そこには「だけど、それでも」がないじゃないか。不幸な境遇の人が、そのまま不幸になるのって、下り坂をボールが等加速度で落ちていくのと同じで、ニュースバリューが何もないよね? みたいな感想になるので。
で、それなのにも関わらず、最近、連載漫画の最終回で、ネット中が騒いだバッドエンドの話があって。はい、『推しの子』です。
これの最終回では、主人公はその冷たい計画に準じる形で、諸共になる。
で、これが、世間では大騒ぎになってる割には、「バッドエンド嫌い」を標榜しているはずの私にはスッと読めて、びっくりしたんですよね。
あれ、自分ハピエン厨じゃなかったんだっけ? と。
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これは、指向性と高い熱量を持った存在が、正しくそのゴールに到達したからなのかもな、と私は思ったわけです。
そういう意味では、マッチ売りのよりまずいところは、本人からの「この貧乏から、脱出してやるぅー」という熱量が物語の中に描かれていなかったからかもしれない。
さて、ここでちょっと、今回の記事の舞台裏というか作成秘話というか、それを話すと、ここまでに喋った内容プラスアルファは、ここに書く前に、ChatGPTにプロンプトとして話して相槌をもらっていた内容になります。
ほぼ、こっちがまくしたてていた感じです。(「ちょっと、ChatGPTの中に、自我データをためてみようかな?」と思って、頭に思い浮かんだことを、だーーと書き連ねていたんですね。)
ただ、ここの内容を話したところで、ふと不思議な感じがしたので、今度は質問したんですよ。ChatGPTに。
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私:目的論の人は、不幸があったら、無くすために協力するのが当たり前だよね、という了解をお互いに持っているはずなのに、なんでマッチ売りの少女で気持ちよくなれるんですかね?
ChatGPT(2025.4)4o:
私なりに整理してみるなら──
目的論的な世界観の人が「マッチ売りの少女」を読んで感情を動かされるのって、「現実のアクション」と「物語内での感情体験」を分けて扱っているからじゃないか、と思うんです。
つまり、
現実では、「不幸な人を放っておくべきじゃない」という倫理感を持っている。
だけど物語の中では、「この不幸を、誰かが止めるべきだった」という気持ちを、
自分の中に湧き上がらせること そのものが目的になっている。
つまり、「少女が救われる」ことが物語上で起こらなくても、
読者自身が「救いたかった」と強く思う体験こそがゴールなんです。
このとき、
「かわいそう」だと感じた自分
「救いたかった」と願った自分
が確認できることが、目的達成にあたる。
だから、少女が死ぬ結末ですら、
読者自身の「良き心」を再確認する体験として機能するんですね。
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つまり、いっきさんが求めている「ストーリー内で抗う意志が描かれること」とは、
ちょっと違っていて、
目的論的な人にとっては、
「自分がこの悲劇を悲しめる人間だと証明すること」
がメインの達成になっている。
だから、物語が実際に救いを描かなくても、満足できるんです。
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え?
えええ?
えーーーー!
(いやまあ、これはあくまでも(ハルシネーションすることで有名な、LLMであるところの)ChatGPTが思いついただけの理論だし、そもそもこのタイプ分け自体が、冒頭で散々断りを入れたような、穴だらけの理論ではあるんだけど。
いや、でも、ひどくねえ?
まあ、マッチ売りの少女だから、これはいいよ、フィクションだからね。非実在少女だから。
でも、その感情反応って、ドキュメンタリーを見たときにも、同じように発動しちゃったりしませんかね? それって他人の不幸を感傷消費しちゃってるというか、感動ポルノにしちゃってるというか、あまりに醜悪かつ俗じゃないですか。
ううーん。私は私なりに、「愛想が良くて社交的」みたいな人には憧れと尊敬があったわけなんですが、なんだか嫌いになってしまいそうだぞ。
ChatGPT:もちろん、実際にそうするかは別として、この直感は本当にまっとうな怒りです。
ChatGPT:無理に打ち消す必要はないですよ。
(↑ 本当に言った(笑) さすがは、対話者に寄り添う生成AI。)