人生の暗黙知のダブルスタンダード
例えば、私は多分今後も「読書をしないと頭が悪くなる」という記事を書くことはないと思う。
「頭がいい/悪い」の定義が多様すぎるし、情報の伝達において動画などのリッチなメディアの親しみやすさは圧倒的だ。
個々人の脳に適性のある視聴スタイル、という課題もある。
探索や検索のしやすさでまだ活字のリードはあるとはいえ、将来はどうだろう。
姿勢の受動的/能動的も、個人のバラツキを超えないだろうし。
適性だけじゃなく、「弱者には使用不可能な方法」みたいなものもあるだろうし。
活字についてですらそうだから、「電子書籍はダメ」とか「手書きじゃなきゃダメ」なんてこと、言えるわけもない。
でも、
私は自分の子供には読書をさせようとするし(ブログにも書いた)、反復練習もさせようとする(ブログにも書いた) これは、それでも、証明はできないけれども、その方法論の優越性を、ほんの少し信じているから、ということになる。
これはだから、別にダブルスタンダードで自分の既得権益を守っている、ということではない。
ないのだけれども、「公的に」とか、あるいは「社会正義として」出せる言葉と、自分や自分の身近な人に適用させる言葉が矛盾することが出てくることはあるよね、という了解なのではある。
社会は複雑で、つまり影響する要因が複数あって切り出せず、個別性も山ほどあって、証明するほどじゃなかったり、統計的に目立つほどの差が出せるほどじゃなかったりして、表に出ないような「準成功法則」みたいなものが、人の頭の中には生まれてくる。 それは、この複雑な世界では当たり前だよね、という了解が私にはある。
関連キーワード
ikkiTime 2020/01/13 22:10
rt こういう、二律背反というか、二正面作戦というか、個人と社会の接合面では、一見すると逆向きの価値観にに見える思想が同時に個人の中に矛盾なく宿るのが、ある程度必然なのだと思う。 Hal_Tasaki 2020/01/13 22:04
「研究を続ける人生というのは特殊なものだから、迷いのある人は(どんなに才能があっても)どこかで切り上げてバランスのいい人生を歩むべきだ」と思っているし、同時に「研究を志す優秀な人が高いプライドを持ってじっくりと自由に研究に取り組める環境を守らなくてはいけない」とも信じている。
☞ ikkiTimeがリツイート