世間話はなくならない
たとえば、私は「PTAなくならないかな」、って思っている。 もちろん、連絡網の代表者や始点がある重要性とか、「地域の防犯や交通安全などの民度を支えているからなくせない」という意見は承知している。 けど、強制全員加入や、学校行事運営のための無料の労働力として期待されている(というか計算に入れられている)問題や、OBや「地元の有力者」からの嘴や圧力がかかる問題(と同時に癒着の問題)を感じてしまうと、『とりあえず粉々にしてやりたい』と思ってしまうのだ。 それと同じに、「雑談」という文化もなくならないかな、とは思う。 しかし、なくならないのだろうなあ。
あまりまだ見知らない同士が一緒にいて気まずい、という空気で「何かしゃべらなくちゃ」と緊張してしまうのは、
という手形を必死で提出している作業みたいなところがおそらくあり、それをなくすのは、難しいのだろうな。
だれも、それすらしてくれない相手に、「ずっと黙っていても構わない居場所」を提供してあげようだなんて思わない。 だからある意味で、世間話や雑談に応じない・応じられない人というのは、社会資本にタダ乗りしているフリーライダーみたいなところが、構造的にはあるのだと思う。性悪説的に見れば。 (これはまあ、ARゴーグルで、その人の立ち姿にかぶせてツイッターアカウントの直近10ツイートくらいが表示されるようになってくれれば、結構価値が薄まってくれるかもしれない。ま、妄想ですが。) しかし、それでもやっぱり「くだらない」「茶番だ」とは感じてしまうし、その労力は負担したくない。 せずに生活と一生をすませたい。
そこはそう思ってしまう。