ウェブクリップ20200118
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個人の人格や能力とは何の関係もないのに、若い女性であるというだけで金銭的な価値が与えられるんだということを否応なしに認識させられた。それって、得しているようだけど全然そんなことなかったんじゃないかというのを書いてみたかったんです。
私は、「女子高生ってだけでおカネになるんだ、ラッキー!」みたいな感じで、そのおカネが一体何であるのか、なぜ私に金銭的価値があったのかなんていうことを考え出したのは、もっとずっと後になってからです。
私も本に囲まれる環境にいて、同じような世代の中では本を読んで育った方だとは思いますが、それこそ女子高生時代は毎日が目まぐるしいので、家で本を読んでいた記憶は希薄ですね。そうやって目まぐるしく過ごしていて、気づけば女子高生というレッテルを脱ぐ年齢になっていました。
女子高生がいかに強固なブランドであったか、はそれを脱いで初めて意識するわけです。
そうやって価値を剥ぎ取られた気分になったことが関係している気がします。
傷ついた主人公が、「(倫理観なんて)今時、古い考え方だと思います」「男の子はいいけど、女の子はダメだっていう男女差別的な価値観もありますよね」と金井先生に聞いたときに、鈴木さんがおっしゃった「そう決めつけなければ、誰もあなたたちを守らなくなるからです」という言葉が出てくるんですよね。
⇒「誰が悪いか」でいったら、文句なく手を出しちゃう人が悪いんだが。
「女の人の中にある得体のしれない罪悪感」というものがテーマとしてあったので、キリスト教の思想を取り入れて書いてみようと思いました。
私自身、「姦淫するな」という教えは女だけに罪を押し付けているし、男女差別的だと思っていたんですよ。だけど、もともとユダヤの民は移動民族で、移動生活のなかで男性がすぐ人の奥さんに手を出したりということが頻繁に起きるから、女性を守るために「貞操観念」というものが生まれた、という説を知ってからちょっと認識が変わったんです。
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女子アナの登竜門みたいな感じだし、出たい子たくさんいるんじゃないの?って。でも、よく考えてみたら、そりゃそうですよね。だって、普通に生活してれば「かわいい女の子」でいられるのに、わざわざミスコンに出て上だの下だの順位付けされたくないですよね。
ミスコンみたいに順位付けされることって、女性にとっては楽しくもあり苦しくもありますよね。
私は「楽しくもあり苦しくもあり」というのにはちょっと懐疑的なんです。もともと順位をつけて勝敗にこだわるのってどちらかといえば男性的なものじゃないですか。一方で、女性が男性アイドルに求めることって、勝敗ではなく、「グループで仲良くしていてほしい」ということだったりする。双方の求めるものや幻想が、じつは反転していると思うんです。
⇒「仲良くしていてほしい」
⇒常に順位が付けられていることを前提意識に持っているのが男性の世界観
でもどんなに売り上げがあってもダサい子は女同士の羨望の対象にはならなかったり。女の子は番号で呼ばれて、私は2578番だったんですけど、2251が売れた、次は2578が売れた、とか、そこにいる者同士が、自分の番号が呼ばれていない時でも、誰が売れたかというのは意識しますね。
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島本:場を支配する男によって女性に明確な順位がつけられてしまう。みんな違ってみんないい、とはならない。
鈴木:普段は清楚系でもギャル系でもどっちでもいいじゃん、好みの問題でしょ、と思っていても、その場では明確に売り上げの差がつくわけですからね。そうすると、自分たちが好きな格好である、という以外の指標が介在しだす。
かわいい子、いじられる子、とその場での女子の役割を決めて盛り上げているつもりなんでしょうけど、そういう“コミュ力”に、女の人たちは傷つけられてきたなと思うんです。
鈴木:本来の「コミュニケーション能力」とは似て非なる“コミュ力”。貴戸理恵さんの「コミュ障の社会学」(青土社)などの著作が詳しいです。
もう片方は誰といても満たされず、かといって誰かといないともっと満たされず、恋やセックスを貪るように食べるタイプ。当然、前者は無自覚で後者は自覚的であり、前者の幸福観はとても高く、後者のそれは絶望的に低い」。
幸福感
自分が好きじゃない人からのいいね!もたくさんほしいタイプなんでしょうね。
10代の時は恋愛について書いていたつもりですが、20代以降は、この「恋愛と似て非なるもの」といかに決別するかが重要なテーマとしてありました。男の人も、自分が何をしたいのか、何が自分を満たしてくれるのかわかっていなくて、砂漠で水を探しているような渇望感を抱えているんだと腑に落ちた。
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男性に比べて、女性のほうが人生において細部にわたり選択肢があって、今の時代、どちらを選んだって表立って非難されることは少ない。どちらが正しいとか、どちらが一般的であるかさえ教えてはもらえない。そうやってある意味フェアに選択できるからこそ、どちらか一方を選ぶと、選ばなかったほうの選択肢を認め、尊重しながら生きるのが結構難しくもありますよね。どうしても相手を否定して自分を保つということをしてしまう。でもそれって自分が辛くなってしまうだけなんじゃないかなと思って、A、Bどちらかの選択を支持するのではないエッセイとして書きました。
外から見たら結構恵まれた立場にいるけど悩んでいる、という人が多いですよね。「恵まれているのに悩むなんて贅沢だ」と言われてしまいそうな人たち。でも、そういった女性たちが抱える悩みや葛藤を描いているのがとてもいいなあと思いました。
私たちの世代って、もちろん「親が保守的で厳しい」「地域性が色濃くあって都心部ほど自由ではない」みたいな縛りは人によってはあるけど、それでも前の世代に比べると、仕事も恋愛も自由に選択できてきた世代でもある。
満たされない思いや悩みは確実にあるんだけど、なまじしっかり選択する自由があったからこそ、文句を言うと「贅沢だ」「自己責任だ」って言われそうで口にしづらい。だから、ガス抜きのために自分が選択しなかった生き方を否定してしまう人も多いんじゃないかなと。
島本:みんな満たされないものを抱えているのに、「結婚してるんだからいいじゃん」とか「ちゃんと本腰入れて婚活やってこなかったんだから自業自得じゃん」とか、お互いに自分を否定したくないから相手を否定しちゃう。
鈴木:「そんなこといっても結局自分が選んだ結果でしょ」という自己責任論がどんどん強くなっていますよね。ひとつの価値観や倫理観に疑問を呈するとたちまちファイティングポーズになってしまう。
⇒価値観に疑問を呈することが攻撃になってしまう
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自分の凡庸さを受け入れることが重要
承認欲求が満たされずに不倫を繰り返す女性が、最終的に不倫ではなく資格取得によってその欲求を満たそうとするエピソードがありましたけど、それに対する鈴木さんの分析もおもしろかったです。普通、仕事をし始めたり資格取得に励んだりといった社会参加に対しては肯定的な見方をすることが多いと思うんですが、
不倫が資格取得に替わっただけで、本当に重要なのは「自分の凡庸さを受け入れることだし、自分の代替不可能性を毎日実感していなくても、まっとうに生活できる冷静さを獲得することなのだ」と。
鈴木:外側からの評価によって圧倒的な自分の価値を感じられないと気が済まないという渇望感と折り合いがつけられないうちは、資格を取っても仕事を始めても、結局新しい不安や迷いが生じるんだろうなあと思って。
島本:企業に就職することの利点として、「(多くのサラリーマンが)自分が何者かであるかもしれないという期待など、新人研修が終わって1週間で生ゴミと一緒に捨てていることがわかる」と書いていますが、
ここを読んで、人は「これさえあれば満たされる」と幻想を抱いて探しているものが実はどこにもないんだと納得していくための旅が生きることなんだなと改めて思いました。
諦め
ただ、自分は満たされていない、幸せじゃないと思わせるのって、「あの子からはこう見えてるんじゃないだろうか」「負け犬に見えていないだろうか」という、自分で勝手に作り上げた他者からの目線である場合も多い気がします。
島本:女同士だと、言葉にしなくてもわかってしまうことが多いからキツいというのもありますよね。母親と娘もそうで、過去の自分の経験から、わかることも多いから、ついつい理想を押し付けてしまったり。
鈴木:私はよく母に、「またくだらない男と付き合って。男のほうはヤリたいだけなのに、そんなんでモテる気になってバカじゃないの?」と言われてました。母としては自分の価値観を押し付けたいわけではなく、
自分も傷ついてきたからこそ助言しているんだけど、それがまた子供を縛り付けることにもなっている。
難しいですよね。自分が経験したうえで掴んだ、絶対的に譲れない正しさがあるなら、もちろん次の世代が自分と同じ傷を受けないようにその価値を語りたくなる。でも語ってしまえば呪縛のように彼らが自分たちで選ぶ自由を阻害することにもなりうる。
島本:多様な価値観を受け入れて、押し付けないことは大事だけど、親子や恋人の間では、そういう態度が相手に対して無責任な印象を与えてしまうこともあるから、時に踏み込むことも大事ですもんね。難しい……。
⇒呪いなのか、アドバイスなのか
教訓
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「島本さんの小説はいつも、自分は傷ついているのだと気づかせてくれる」という帯コメントをくださったんですけど、
私は、この小説を書くことで、傷ついているとか怒っているということを、ただ叫びたかったんだなって。
怒りって、特定の誰かを傷つけるもの、攻撃するものと思われがちだけれど、そうじゃなくて、ただ叫ぶのって大切なことなんじゃないかと思うんですよ。若いときはそうやって叫ぶことでさらに傷つくのが怖くて沈黙して、そのまま時が流れてしまうことがたくさんあるけれど……。
鈴木:自分のしてきたすべての選択が正しいということにしてしまうと、異なる選択をした相手を攻撃したり否定することでしか自分を保てなくなるじゃないですか。それってとても不自由だと思うんですよ。
たとえば「援助交際をやってみたけど傷ついた」と言ったときに、「じゃあやらなきゃよかったじゃん」と返されてしまうと、それはそうなんだけど、こちらも「知らない人にはわかんないよね」という気持ちになってしまう。
そうではなくて、選んだのは自分だけど、それによって傷ついたり満たされなかったり、苦しかったりしたときに 、「傷ついた」とちゃんと言えて、相手もまたそれを否定せずに受け入れることで、
自分が経験していないことによってどんな傷を受け得たのかを知ることができる。
自分の経験によって他者に似たようなことが起こることを防げるし、自分自身の心がゆるゆるとほどけていく気がします。
それと、感じ方は人それぞれ、という当たり前の事実と、バランスを取るのは本当に難しいけど。
どんなに価値を語ったところでそれが人の行動に必ずしも歯止めをかけるわけではないから、
語る自由と、語られたうえで最終的には自分で選ぶ自由が両方保証されるべきです。
島本:そうですね。今日お話ししてみて、こういう女性の声、こんなこと書いていいのかなという部分をあえて言語化していく、というのが自分にとってすごく重要なんだなと改めて思いました。
自分が選択しなかった生き方を否定しても不自由になるだけ<後編>
何のために「貞操観念」は存在するのか/島本理生×鈴木涼美対談<前編>
from 2020/1/15-2020/01/31