『リベラルの敵はリベラルにあり』の読書メモ
『リベラルの敵はリベラルにあり』の読書メモ
完読はしていない
が、しかしそれでもおもしろい本だった。
本書の問題意識の中心は、「ネットは、やはり、社会を分断するのではないか?」というところだろう。
人一人の内面を過激化させる、ということはないのだとしても、だ。作者が憂慮しているのは、制度としての民主主義、選挙と議会制民主主義、ということを考えたときに、
しゃべらない多数派ではない、よくしゃべりよく動く両極者たちに、政党の視線がそれぞれ引き寄せられてしまっていないか、ということ。
(まあつまり、右派過激論者を野党が、左派過激論者を野党が、過剰におもねって選挙対策をしてしまっていないか、ということ)
そういう意味で、制度に反映される声という意味では、「やはり分断を引き起こす」ということだ。
提言もある。
で、ここで案の一部ではAIに期待過大なんではないか、と思うような部分もあったのだけど、(国会での発言者を、過去の発言内容からスコア化させる、とか)
「カウンターデモクラシーの体現の一部として、市井の人が集まって知恵を持ち寄って、開かれた形で議論する場をつくり、その政策を、ちゃんと法案の形にまで仕上げて代案として提示してみせる」
というところは、読んでいくとなるほどと思った。
パッと読むと、「製作したって、自己満足で終わるんじゃない?」「政治家や官僚に、いうことを聞かせる力、権力や強制力がないと、提言だけしても聞き入れられないでスルーされるんじゃない?」という不安があると思う。
で、そこに対する仮想問答は、本書にたぶんない。
そこを裏打ちしているのは、おそらくこの本の作者が、「実際に議論をしながら、ちゃんと代案の政策を法案の形にまでして見せたら、ちゃんと受け入れられて、政策に取り入れられた」という実感や成功体験があるのだと思う。(そういう経歴があることについては、本書に記述があります)
だから、「必要なのは権力」「強制力をいかに持つか」という思考に一辺倒になっていない。
そこからさらに類推すれば、「議員には猛省を求めたい」と言って人間の中身を入れ替えたいという怒りや、「選挙に行って、悪い政治家を落とし、いい政治家を送り込んでいくことでしか、政治は良くならない」という怒りからは作者が遠い位置にいることの理由も見えてくる。
読後感がなんだかんだ、軽くてプラグマティックに感じるのだ。この本。
政治家が、たとえばDIO様(漫画『JOJOの奇妙な冒険』参照)のように、ブレない悪の信念と実力を持っていて、その上でその意思のもとに庶民を害そうとしているのなら、その意思をくじくしかないのかもしれない。
また、漫画『銀と金』の誠京グループの会長・蔵前仁のように、ありあまるお金で退屈してしまい、面白半分で人を害そうとするような人間なら、使い道がなさすぎて人を入れ替えるしかないのかもしれない。
でもたぶん、この作者の実感は違ったのだろう。
政治家のほとんどが、良くも悪くも、フラフラとしているし、小物で、落選を強く恐れるところもあった。
だからこそ、人気の集められそうな、きちんと動きそうな政策を見せられればと、ちゃんと採用させられる。ということなのではないか。
そうなると、人を入れ替える必要も、人の中身を丸ごと入れ替えるような神学的な切迫感も、強制力や権力をもとめる必要もなくなってしまう。
むしろ、それくらいの善良な小物のような人たちであってくれるほうが、庶民からすれば御しやすい。
そういう認識があっての、提言なのではないか。(そんな裏意識は文章化されていないと思うよ、完読してないけど)
まあ、そうだったらそうだったで、「だったら、そんな人たちに給料払いたくない。自分たちで決めたほうが早いじゃん」という意見の人も出てきそうだけど、とりあえず私はその意見には身を染めない。
意見の調整役、また、文化の移相速度の調整役として一定の議会はあっていいのではないかな。
あ、あと、作者の「人治より法治」って価値観には、私は基本的に同調します。たとえ、コロナ下での強制的な自由権制限みたいな柔軟な対応ができないというデメリットがあるのだとしても。
タグ サイレントマジョリティー、蛇でいてくれてありがとう、政治