『フーコー入門』(ちくま新書)の読書メモ
フーコーの発想を、その時の他の哲学者の理論や、それまでの哲学の常識と比較しながら解説している。ある程度時系列(人生)に沿いながら。 そうすると、「フーコー哲学の解説書」というメタだけでなく、「哲学史のメタ」という「メタのメタ」みたいな楽しさがある。読書の 時代の前提(知識や発想や思考の)が失われてしまうと、別の常識に住んでいる人からは理解できなくなる。(エピステーメー) 読みながらふと感じたこと。
ある時期に打ち立てられた哲学が、どれも「個人の権利は何か」「個人はどう生きるべきか」ということばかり考えていて、思考の深め方のベクトルが個人の開放にばかり向いているように感じるのは、
それまで権利というものを国王だけが持っていて、それが倒されて、急に「『個人』というものが生まれた」から、というのがあるのかもしれない。と。
その使い方(役立て方)はどうあるべきか、とか。
そして他方で、現代では「個人はどう社会と関わるか」という視点で私達が思考を深めがちなベクトルを持ちがちなのは、
もちろん、公共の福祉的に、誰かの自由が誰かの安全を脅かす場面を、目にするようになったから、というのもあるけど、より端的には GAFA的な資本主義や、中国やロシア(中華ITを含めて)などの、得体のしれない大きなもの、が立ち上がりつつあるのを感じているからではないのか。