『ノーヒットノーラン』(BUMP OF CHICKEN)
BUMP OF CHICKENに『ノーヒットノーラン』という曲がある。なんとファーストアルバムに入っている曲で、私はすごく好きな曲だけど、人気が出てからの曲調が好きな人が聞くと、すごく素朴な曲調と感じるかもしれない。 それはさておき、歌詞。
ファースト、セカンドの頃の歌詞は、明確に主人公を設定して、物語を描写することで、作詞者自身の思いをそこに仮託していく形式がほとんどだった。(3枚目にしてメジャー1枚目くらいから比率が半々くらいになってきた、かな?)
で、この曲の歌詞世界は、「ノーヒットノーラン」というタイトルがついているにもかかわらず、ピッチャー側の話ではなく、野球のバッター側の話である。
ピッチャーがその試合で1本のヒットも出させていないとしたら、それは好調の証だけど、バッターがその試合で1本のヒットも出せていないとしたら、それは不調だよね、というシチュエーションから始まる。
打ちたい、点を取りたいのに取れない。焦る。仲間・チームメイトも「どうした、(俺たちの)スラッガー?」と盛り立ててくれるけど、それが焦りを加速させる。苦しい。そんな心境が濃密に描かれる。
この追い詰められていく感は、BUMPらしいといえばBUMPらしいけど、シチュエーションとしては珍しくもある。
BUMPの歌詞って、「まだ何者でもない焦りを抱えて頑張ろうと決意する」歌詞や「何かを失って旅立つ」歌詞のイメージが強い。
『グングニル』なんかだと、物語の中でやっと最初の一歩を踏み出すところだ。
しかし、『ノーヒットノーラン』では、すでにスラッガーなのである。自分が打てないことでチームが負けかねない状態なのである。チームメイトからも《たのむぜ我らがスラッガー》と認められているのである。実績も上げているし、才能もある。
全然、「持たざる者」ではない。
こういう歌詞が、ファーストの時点で飛び出しているところが、いいんだなあ。
まあもっとも、これは『ベストピクチャー』と類似の、挫折からの立ち直りの曲だという見方もできる。
また、弱音を隠してうそぶきながら、強がってがんばっていくよ、という心情は、『バトルクライ』にも、また後の『ray』にもつながっている。
だから、まったく浮いている、というわけではない。でも、体育会系の象徴のような野球チームをモチーフにしたこの曲は、さらにもう一歩進んだ心境が描かれていると私は思う。次のような節がある。
《好きな時に好きな事をして 時々休み また適当に歩き出していた それがいつの間にか 誰かに何か求められて 誰にも甘えられない》
一番強くなってしまったら、他人からは頼られるばかりで、自分はどこにも頼ることができない、という心境と合わせて、他人とシステムという「社会」に少しずつ組み込まれて期待値がまとわりつくという、息苦しさも含めて表現された歌詞。
子供から大人へ成長していく中で、その人はスラッガーではないにしても、なんらかの役割を求められて感じるであろう、思春期の「苦しさ」にビリっと響いてくる。
そう、この人はスラッガーと呼ばれてはいるけど、別にベーブルースでも王貞治でもないだろう。高校の野球部とか草野球チームとか、そんなレベルだと、曲を聞いていて感じる。チームメイトの口調も純朴だからね。
そう、だからなおさら、誰しもが感じるであろう同型の「あ、逃げられない」「投げ出せない」というプレッシャーや役割についての息苦しさに刺さる歌詞世界なのだ。
そういう空気感を描く中で、自然と「持たざる者ではない者」を主人公として取り上げることができた、そのことが私にはうれしい事実だったのだ。弱者とアウトローだけで社会ができているわけではないし、そういう人達だけが悩むわけでもないし、メッセージを発するわけでもない。
強者にも、安定している者にも、ロックはあるし、発したいメッセージと聞きたいメッセージがある。
期待や期待される役割や、期待される振る舞いを求められることで、人は自由ではなくなる。でも、そこで「体制があるから俺たちは自由じゃなくなるんだー! 体制をぶっ壊せ!」なんて言ってみても始まらない。そんなんじゃないからだ。
そんなことは薄々わかっているからだ。そんな、ぼくらのための曲が欲しい。
そして、そういうものがもし流通していないとすれば、その飢餓感と孤独感は増す。
そんな需要を、当時私はこの曲を受け取りながら思ったのだった。