「恋愛」とは何をすることなのか
ということが、子供のころ、若いころ、大きな謎で、思考の課題だった。
一応、大人になった今となっては、
「恋愛とはデートのことである」
とかなんとか、答えることはできる。
でも、じゃあ、その当時にそんなことがしたかったのかと言えば、そんなことが頭に浮かんでいたわけではない。
そうだな、当時の頭の中で思い浮かんでいたこととして考えられることとしたら、
「一日中彼女のことを見つめていたい(眺めていたい)」
とか、そんなことだけだったような気がする。こちらから一方的に大量に眺めていても、気持ち悪がられたり通報されたりしない、そんな立場になれたらいいな、ってことが、正直なところ最優先の望みだったと思う。
(まあ、「いつか別れることになったら嫌だな」とか「相手にとっても自分が一番であってほしい」といった独占欲はまあ普通にあったにせよ)
ただ見ていたかっただけで、たぶん『名前を呼んでほしい』すらなかった気がする。「潤んだ目で見つめてほしい」くらいなら……、あったのかな? それはともかく。
だから、性欲どころか、交流の楽しさへの期待すら、その時点の頭の中にはなかったのだ。
私は内向的なタチなので、
「遊園地でもなんでも、ひとりで行くよりは好きな人と一緒に行ったら、より楽しい」
ということすら思いつけていなかった。
いま、「そんなだからモテないんだよ」という声が頭の中に浮かんだが、気にしないことにしよう。
その感覚はいまだにあって、だからこそ、こんな問題が周期的にときどき頭をよぎるわけだ。こういうの、外向的な要素のある人には、「当たり前」というか、悩みでもなんでもないんだろうなあ。
「お互いに好き、ってことが分かったら、一緒に遊びに行ったり、喫茶店でおしゃべりしたりしたいけどなー」
みたいな
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